メルロ=ポンティの『精選 シーニュ』(ちくま学芸文庫 2020年)には詳細な訳注が付いていていろいろと参考になる。ただ、序の訳注に一箇所どうも変なところがあって、それを確かめるためだけにその訳注に引用されていた Maurice Merleau-Ponty, Recherches sur l’usage littéraire du langage. Cours au collège de France Notes 1953, MetisPresses, 2013 を購入した。
確認したところ、案の定、誤訳であった。しかも、初歩的誤訳というより、単なる変換ミスではないかと思われる。いや、それほど簡単なことではない。
問題の原文の箇所は以下の通り。
Dans ses cours, il parlait souvent d’une conception de son esprit, l’implexe : ce mystérieux animal qui vit en vous, fait de mots étrangers à nous (puisque l’enfant qui vient de naître les emprunte peu à peu à la société) ; et cependant voilà qu’ils sont ce qu’il y a de plus profond en nous, notre pensée même.
p. 65, n. 2.
翻訳はこうなっている。
講義において彼〔=ヴァレリー〕はしばしば彼の精神についての考え方である混合体(implexe)について語っていた。これは私たちの内で生きている神秘的な動物で、私たちには異様な語を語る(というのも、生まれたばかりの子供は、この語を社会から少しずつ借用するのだから)。だがこれこそが私たちの内でもっとも不快なものであり、私たちの思考そのものだ。
フランス語初歩を習っただけの方でもどこに誤訳があるかすぐにわかると思う。原文の « plus profond » が訳では「もっとも不快な」となっているところである。ここはもちろん「もっとも深い」でなくてはならない。
このような変換ミスは普段パソコンで文章を打ち込んでいるときには頻繁に発生することだ。だからそれだけのことなら、「やれやれ、お互い気をつけたいものだ」とは思うが、そうたいして気にすることもなく済んだところである。
私が少し驚いたのは、誤訳の「上塗り」がされているように思われることである。というのも、単に「深い」とあるべきところが「不快」と変換されてしまっただけならば、「もっとも不快ものであり」となっていたはずである。ところが、訳文は「不快なもの」となっている。そこだけ見れば文法的に正しい。
どうしてこうなったか。実際のところはわからない。一つ考えられる可能性は、最初は単なる変換ミスによって「不快もの」となっていたが、それを誰か(訳者自身とはとても思えないのだが)が「不快なもの」に直し、それを誰か(訳者あるいは編集者あるいは校正者)がチェックしたとき、そのままOKしてしまったということである。
しかし、文脈から考えて「不快」なはずはないのである。「あれっ」と思って原文に当たれば簡単に避けることができた誤りである。
いや、実のところ、こんな重箱の隅をつつくような些末な話ではないのかもしれぬ。というのも、小耳に挟んだ一説によると、日本のメルロ=ポンティ研究は本国フランスのそれよりも進んでいるそうである。とすれば、上記の問題箇所も、浅薄な読みしかできない私のような愚か者には思いもよらぬ深遠な解釈に基づいた「創造的な」誤訳である可能性も排除できないのではないか。