内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

日本近代の特異点 ― フクシマ以後の「無常観」

2022-09-26 23:59:59 | 講義の余白から

 村上春樹と高畑勲が期せずして同じように日本人の「無常観」について語っている文章を2019年2月27日28日の記事で取り上げた。この二つの文章は授業でもよく取り上げる。しかし、それは二人の所説に私が賛成しているからではない。問題はむしろ、このような言説が2011年3月11日以降の日本に生まれてくる社会的脈絡にこそある。
 この手の言説は日本人からは共感を得やすく、日本が大好きな外国人からは称賛を得やすい。もちろん村上春樹や高畑勲がそのような受け狙いでこのような発言を行っているとはまったく思わない。彼らの真率さを疑うつもりもない。
 だが、まさにそれだから困るのだ。日本人は古代からずっと無常観を持ち続けてきたという仮説は論証不可能である。にもかかわらずあたかもそれはすべての日本人に自明のことであり、たとえ無常観という言葉は使わなくても、この言葉に集約されるような物の感じ方は連綿と日本人の間に受け継がれてきたのだという主張は何を根拠としているのか。それはそう思いたい人の願望にしかないのではないか。しかし、願望は、たとえそれが心底からの切なるもの・美しいものであっても論証の根拠たりえない。
 このような「美しく儚い日本の私」的言説は、想像の共同体を構築する礎としてもあまりにも脆弱である。幻想の共同体の仮構さえ覚束ない。こんな言説をありがたがることこそ、強さではなく、弱さでなくて何であろう。
 以上が二人の言説に対する現在の私の偽らざる感想である。
 授業では、私的感想は封印して、学生たちに次のように問いかける。現代日本文化を世界に向かって代表しているこの二人の言説の驚くべき(ではないのかもしれないが)親近性はどこから来るのか、それはほんとうに歴史的根拠をもっているのか、もしそうではないとすれば、それはどこから来るのか。これらの問いの答えを探すことが日本の近代の特異点を浮き彫りにするための手がかりになるはずである。