内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

カミとホトケから始める宗教史

2022-09-15 23:59:59 | 講義の余白から

 今日は学部二年の「古代日本の歴史と社会」の初回だった。この講義を担当するのは今年が初めてだ。とはいえ、現在のカリキュラムになる前の四年間「日本古代史」を担当していたし、前任校でも日本通史を八年間担当していたから、講義の基礎資料はすでに十分に揃っていた。しかし、今回担当するにあたって新規に年間プログラムを作ることにした。
 講義のタイトルは « Histoire et société du Japon ancien » であるからその日本語訳は上掲のようになるのだが、実際には « ancien » といっても「中世以前」という意味ではなくて「近代以前」という意味で使われている。つまり、古代から幕末までをカヴァーしなくてはならない。前期は古代から平安時代まで、後期が鎌倉時代から江戸時代までを対象とする。それぞれ二時間の授業が十二回であるから、講義内容はおのずとかなり選択的にならざるをえない。しかも日本語のテキストを読ませなくてはならないから、一回の授業に多くの知識を詰め込むわけにもいかない。
 学科長からの要望もあって、テーマとしては宗教と思想に重点を置くことにした。それに文化を加えて、宗教史・思想史・文化史という三本柱で通年プログラムを構成した。限られた時間数の中でどう工夫しても偏りなくはできないが、それぞれの柱ごとに古代から近世まで一応の全体的見通しをもてるように組み立てた。
 読ませるテキストは、教科書的なものは避け、当該分野それぞれで多数出版されている新書の中から比較的文章が平易なものを選んだ。といっても、昨年一年間で基礎日本語を学んだだけの学生たちには難しすぎる場合が多く、語彙レベルだけではなく文法・構文についても、はじめはゆっくりと詳しく説明していかなくてはならない。
 今日読ませたのは、大野晋[編]の『古典基礎語辞典』(角川学芸出版、二〇一一年)の「ほとけ」の項の一段落である。この項の執筆は大野晋自身が担当している。

日本では神は無数に存在した。しかし、その形はないものであった。輸入されたホトケは仏の形であったから、日本人ははじめて具体的な形のある、尊崇の対象を得た。それは従来の慣習とまったく異なるものであったが、ホトケは多数ある神の一種として受け入れられた。神は直接人間の苦しみを救うものではなかったが、新米のホトケは人間の苦しみを救済するというので、従来の神にも人間を救うという概念の変化が生じた。ただ天皇政府が仏閣・仏像の建造・制作に国家予算の大きな部分を投じたのは、ホトケが国家を鎮護するとされたことを信仰してのことであった。

 このわずか数行の文章の中に、学生たちが新たに身につけなくてはいけない単語・表現が三十以上ある。それを語彙表にして示したところ、六十人ほどが出席している階段教室から大きなため息がもれた。今日のところは私が声に出して一通り読みごく簡単な解説を加えたところで時間となった。来週の授業ではこの文章の一文一文を学生たちに読ませながら、内容的な解説をすることで宗教史への導入とする。