ガラス製鏡製作技術が確立し、質の良い姿見サイズの鏡の大量生産が可能になり、それがフランス宮廷社会に急速に普及し始めるのは、17世紀末である。それをもっとも洗練された仕方で象徴するのが、ヴェルサイユ宮殿にある無数の鏡に囲まれた小回廊やその壁が鏡で覆われた数々の部屋である。そこでは自分の姿は見られずに他者を見ていると思い込んでいる人の姿が別の他者によって見られ、他者に向かって「君があそこに映っているよ」と言っている当人が、別の鏡に映っており、誰かに見られている。そこにおいては、誰も自分の姿を隠すことはできず、鏡の光の明るさに全面的に支配され、各自その〈外見〉がすべてであり、姿を隠す闇と目に見えない他性はそこから徹底的に排除される。遍在する鏡は、人生を〈見世物〉に変容させたのである。この鏡の圧倒的な支配は、しかし、単に物質文明の進歩の指標なのではなく、文化史的・思想史的に極めて重要な意味を持っていた。
鏡は、そこで、「社会に順応し調和するための道具だった。人が鏡で自分の姿を眺めるのではなく、鏡のほうが人を眺めるのであり、鏡こそがその掟を人に課し、鏡こそが礼儀正しさや社交界の法にかなっているかどうかを測るための規範となる道具だった。自己意識は、自分の像についての意識、すなわち自分の表象、目に見える自分の姿の意識と、まず初めに一致する――わたしは見えているから存在しているのである。自己同一性は、仮象と役柄を、そして同意を経るのであり、そしてこの同一性が主体の在り方を決定づけるのである。」(『鏡の文化史』、148頁)
鏡が人間に課すこのような規範に基づいて、模範的な宮廷人が定義される。それは、常に見られることを求め、その見られた姿こそが自分であることを受け入れ、何一つその背後あるいは内面に隠されたものはないように振る舞い、どこまでも他者に対していわばガラス張りであろうとする人間である。そのように振る舞うことこそが、そのような社会での〈誠実さ〉なのである。鏡は、各人が外からの眼差しに照らして相応しい身だしなみ・振る舞い・表情をしているかどうかを教える教官として、それを絶えず検閲する審査官として、宮廷のいたるところで人々を待ちかまえている。そこで求められているのは、他者に自分を認めさせる自己主張でも、外見に還元しがたい微妙な内的感情でもなく、誰の目にも明らかな普遍的な礼儀正しさであり、この理想に到達するためには、模倣と類似がその最も重要な手段となる。
シャンデリアのまばゆいばかりの輝きと鏡の反射のせいで、「影もほとんど身を隠せない」ヴェルサイユ宮殿の鏡の間は、全員の目にさらされ、かつあらゆるものを見ているというパラドックスを持った社会を象徴している。明晰さと社交性という理想の名のもとに、この社会は、あらゆる自己へのまなざしを捕らえ、包囲し、自らに従わせる。
ナヴァール国王妃でフランソワ1世の姉、フランス・ルネッサンス期の女流作家でもあったマルグリット・ド・ナヴァール(1492-1549)の2つの詩の中に、昨日の記事で話題にしたデューラーの絵と対をなすものが見出される。
それは『罪深い魂の鏡』と題された詩と、晩年に書かれた『十字架にかけられたイエスの顔』という詩で、そこで王妃は、まさしく自分の血統に見合った神との類似を、半ば強迫観念的にとりつかれたように描き出している。放蕩娘、悪い母親、悪妻であった彼女は、その罪ゆえに評判も悪かったが、自分の身のうちに内包された神の存在が、彼女の血筋のいくつもの消しがたい痕跡同様に、心のなかで「うめき」「ため息をもらして」いたために、自分がキリストの娘であり母であり妻であることを知っていたのだった(『鏡の文化史』139頁)。
これらの詩に描かれているのは、もはや中世的なテーマ、神の〈似姿〉としての人間、ではない。それは、まったく逆に、神から遠く離れ、彷徨する醜い1人の生身の人間の姿である。鏡の中に探されているのは、もはや自らを神性へと導く謙虚さ・善良さ・真剣さの欠片ではなく、自己を苛み続ける動揺・欲望・弱さであり、鏡はその告白の場にほかならない。ところが、まさにそのような罪に汚れたあからさまな己の映しの中に、マルグリットは、そのような己と共にある、呻き苦しむ受難のキリストを見る。数々の罪によって死に瀕した、このありのままの自己の肉体の鏡像において、神が現前する。
わたしはここに自分の脆い肉体を映し出さなければならない
泥にまみれ、限りある粘土でできた肉体を
そこから神が形を現す
(同書、140頁)
鏡の中に、一切の虚飾が剥ぎ取られ、それ自体は何ら誇るところもない、醜い己の真の姿が現れるとき、その姿こそが、そのまま、なんらの〈神々しさ〉もなく、この私のために苦しみの極みにある受難の主イエス・キリストである。これは、マルグリットが自らのこととして経験した、神との絶対矛盾的同一性である。
肖像画の誕生がいつの時代なのか、正確にはわからないが、不完全な被造物である人間を描き、その人物像を当のモデルの死後にまで残そうという考えが、キリスト教世界に生まれるのは古代末期から中世初期のようである。しかし、それは当時の宗教界で特別に称賛を集めていた人物に限られており、それ以外の人物の肖像画が現れるのは、それがたとえ時の王ないし王族、あるいは貴族階級に属する人物であれ、ずっと後のことである。
自画像の誕生はそれよりさらに遅れる。それは、画家が単なる複製の制作に携わる無名の職人にとどまるのではなく、自身が描かれるに値する人間であると画家自身が自らを見なすことができるようになる時代まで待たなければならなかった。そして、それに加えて、正確な自己像を得るために必要な精度の高い鏡の製造という技術的条件が満たされなければ、自画像作成は可能とはならなかったことは言うまでもないであろう。
西洋絵画史において、自画像に芸術作品としての地位を与えることに最初に成功した画家デューラー(1471-1528)の生きた時代が、ガラス製鏡の製作技術の黎明期と一致するのは、だから、決して偶然ではない。しかし、デューラーの自画像の革新的な意味は、単に芸術作品として価値がある精密な自画像の作成に成功したという芸術史上の貢献に尽きるのではない。思想史的観点から見れば、キリストの顔立ちをした正面からの自画像を書くことによって、デューラーは、〈神の似姿〉としての人間に新たな意味を与えたのである。1人の具体的な人間、ある時代と場所に限定された特定の個人である自分自身を〈神の似姿〉として描くことによって、この〈私〉における神の現前を宣言しているのである。しかし、それは、けっして神を冒涜しようとしての前代未聞の暴挙なのでなく、人間における神性の回復の宣言なのである。
以下は『鏡の文化史』からの引用。
キリストの表情を持ち、真っ正面を向いて、厳かな、そして「万物の支配者」たる神のしぐさをして手を上げている自画像をデューラーが1499年に描いたとき、彼は当時の習慣と決別し、斜め正面からの肖像画と手を切った。それはイエス・キリストのまねびによって練り上げられていく、模範者たる神の影であるキリスト者のアイデンティティを、まさしく際立たせんがためである。自分の顔の特徴をもっとも細かいところまで再現することにより、描かれているのが紛れもなく自分であるということをわからせようとしたのであり、こうしてデューラーは、神の似姿たる人間を生み出しうる芸術家の力量をはっきりと示した。つまり、この絵が表しているのは、この世における彼の存在という歴史的現実であり、そしてまたそれと同時に、キリストの受肉によってその似姿たる人間で回復された栄光の肉体を先取りする神秘的融合という現実なのである(138頁)。
中世的世界像からルネッサンス的宇宙観への転回点に立つ神学・哲学者がニコラウス・クザーヌス(1401-1464)である。クザーヌスにおいて、感覚界と叡智界とは、〈照応〉や〈反映〉といった、前者から後者への類推が何らかの仕方で可能な、順接関係にあるのではない。両者の間には、いかなる類似もなく、他の何ものにも還元しがたい対立・分離があるだけであり、もし両者の関係について語りうるとすれば、それは、根本的に逆説的な関係である。そのような両者の関係において、人間は、両者の接点の位置に立ち、その人間の認識能力によってのみ両者の関係は保証される。このようなクザーヌス思想において、鏡は、物質と精神、あるいは有限と無限との間の、媒介の場とされる。一つの見方から別の見方への、より正確には、一つの個別的な有限の視点から、あらゆる有限な視点を超え包む永遠の無限な視点への、決定的な転換がそこにおいて起こる場所として、鏡に特別な地位が与えられる。 そこでの問題は、何かの似姿としての鏡像そのものではなく、その鏡像を見る〈眼差し〉である。しかし、感覚界から叡智界へと、順に階梯を辿って上昇していけば到達できるというような、段階的・階層的類推的方法はもはやそこでは通用しない。有限な世界像を無限な宇宙観へと一変させるような眼差しの全面的・根本的な〈向け変え〉の可能性が問題なのだ。しかし、つねに有限でしかありえない人間の認識能力が、無限なる存在であり絶対的他者である神を、いったいどうやって把握することができるのか。クザーヌスによれば、ただ神においてのみ、すべての反対者は、そのまま受け入れられ、完全に一致する。この意味において、神は、すべてがそこにおいてそのまったき姿において映される〈鏡〉にほかならない。そのように〈映す〉こと、それが神の〈眼差し〉である。クザーヌスは、自らの眼差しを鏡の中に見る人間の眼差しに、神の眼差しとの交点、さらには融合点を探す。自らよりはるかに大きな山をもその内に映し、相対立する反対物をも等しく映す鏡を見る〈私〉の眼差しを、万有を等しく映す鏡として自らの内に万有を見る神の眼差しに重ね合わせるにはどうすればいいのか。個人の眼差しがそこから発する有限な一視点と、神の眼差しの無限な視点との交点を、〈鏡〉という媒介者において探究すること、それがクザーヌスの哲学なのである。 クザーヌスの著作といえば、『学識ある無知について』が特に有名であり、邦訳(平凡社ライブラリー)もあるが、クザーヌスの鏡像論は『神を観ることについて』(岩波文庫)に展開されているので、上に紹介したクザーヌス思想にご関心をもたれた方は同書をご覧になってください。
昨日の記事で紹介した『鏡の文化史』の第3部は「不気味な奇妙さ」と題されている。全体として鏡の呪術性と魔術性が主題となっている。それはこの部を構成する3つの章のタイトルを見ても察しがつく。それぞれ、第1章「悪魔のしかめ面」、第2章「斜めの=横目の鏡と、鏡の策略」、第3章「鏡の破片=輝き」となっている(どうですか、読んでみたくなりましたか?)。この部については、しかし、後日紹介することにして、集中講義で中心的に扱う第2部について、さらに詳しく紹介していこう。
第2部もまた3章からなる。第1章「神の似姿として」、第2章「模倣の勝利」、第3章「自己考察のための自己直視」。第1章は、古代から中世を経て、ルネッサンスまでの、鏡像の宗教的・哲学的意味を通覧している。言い換えれば、今日私たちが日常的にいたるところで使用しているガラス製鏡の製造技術が生まれる以前の、2千年の鏡の歴史を扱っている。
古代ギリシアからヨーロッパ中世に至るこの長い歴史の中で、鏡、より正確には、鏡像は、感覚世界の仮象性・幻影性と永遠の真理との類似性という両義性をつねに持っていた。鏡に映っている姿は、オリジナルに似てはいるが、そのものではない。それに、オリジナルが鏡の前からなくなれば消えてしまう、儚い仮象にすぎない。鏡に映る自分の姿がそのまま自分の姿であると見なすとき、私たちはその鏡像がそこに現れるところの感覚世界の虜となり、その仮象性・幻影性に対して盲目になってしまう。言い換えるならば、鏡の前に立つ自分の身体がそこに在る感覚世界の反映しか鏡の中に見られないとき、私たちは感覚世界における己の姿に自己同一化してしまう。ところが、感覚世界に現れるその鏡像は、同時に、別の世界の〈影〉あるいは〈似姿〉でもあるのだ。このことに気づくとき、鏡の中の己の姿を通じて、そこにそれとしては現れていない別の世界、そこにおいては、感覚世界ではその影あるいは似姿しか見ることのできないものの元の姿が永遠の想の下に観想される不可視の世界への途が開かれてくる。つまり、古代から中世にかけて、感覚的可視の世界は、それ自体は儚い仮象の世界だが、それにもかかわらず、永遠の不可視の世界に何らかの仕方で似ているという思想が鏡像の両義性を規定してきたのである。その背景には、聖書の創世記に見られる、「人間は神の似姿に創造された」というユダヤ・キリスト教を貫く根本思想があることは言うまでもない。
『鏡の文化史』にも引用されているが、中世キリスト教世界最大の神学者と見なされているトマス・アクィナスは、その主著『神学大全』において、「鏡を用いて何かを見ることは、ひとつの原因をその似姿がそこに映っている結果によって見ることである。このことから思索が瞑想へと通ずることがわかる」(II, 2, q.180, a.3)と、鏡(像)の神学・哲学的機能を規定している。ただ、翻訳を見ただけではわからないことは、ラテン語原文で「鏡」に相当するのは speculum、「思索」は speculatio、「瞑想」はmeditatio であるということである。このトマスによる規定は、中世哲学における "speculatio"と "meditatio" との区別と関係を考える上で極めて示唆的である。さらには、この意味での「鏡(像)」"speculum"との関係において、「観想」"contemplatio"、「類比」"analogia"、「像」"imago" 等の関連概念についてのより明確かつ厳密な規定も与えられるように思われる。
話がちょっと専門的で、難しくなり過ぎたので、今日はここまでと致します。続きはまた明日。
6月10日・11日・12日の記事で、一昨年から東京のある大学で夏期集中講義として担当している修士課程の「現代哲学特殊演習」のことを話題にした。3年目の今年は、7月29日から8月2日までの5日間。今年の履修学生は10名。年々増えているのは喜ばしい。そのうち、去年出席し、ちゃんと単位も取得したのに、今年また履修登録している修士2年の学生が4名。テーマは去年と同じだが、今年はその続編であり、当然内容は違うから、今年も単位として認められるからなのだろうか。講義内容は12日の記事に紹介した通り。いずれにせよ、昨年の講義をつまらんと思ったのなら、再履修などしないだろうから、テーマには興味を持ってくれているのだろう、と肯定的に捉えておく。単位が取りやすいだろうという目論見もあるかも知れないが、それは学生なら当然考えることだ。
今、滞在先のゲストハウスでその講義の準備をしている。半年も前からその内容は決めてあったわけだから、帰国する前に準備の時間は十分あったはずなのである。ところが、講義初日まで2週間を切り、昨日ようやく本腰を入れて準備を始めた。実は毎年こうなのである。最後の最後になって追い詰められないと、集中できない(それはこの講義に限ったことではないが)。それでいつも万全な準備ができていないまま、講義初日を迎えることとなる。とはいえ、この半年間、講義で取り上げるべき問題は折にふれて考えてきたので、実際はなんとなかなる(と自分に言い聞かせている)。それに、これは演習であるから、ただ一方的にこちらが準備してきたことをしゃべりまくる大教室の講義とはわけが違う。学生たちの反応に応じて臨機応変に対応すべきであるし、学生たちにその場で自ら考えさせ、問題に取り組ませることも、演習の重要な部分をなしている(と今から言い訳しておく。誰に?)。
学生たちには事前学習として、サビーヌ・メルシオール=ボネ著『鏡の文化史』(竹中のぞみ訳、法政大学出版局、2003年)を通読しておくようにシラバスで指示してある。それでも読んで来ない学生がいるかもしれないので、先ほど教務課に学生たちに念を押しておいてほしいとメールしておいた。私は原典 Sabine Melchior-Bonnet, Histoire du miroir, Hachette collection "Pluriel",1998 を通読してあるのだが、邦訳も推奨に値する苦心の良訳だと思う。同書は3部に分かれ、第1部「鏡とその普及」は、ガラス製鏡の誕生からその普及までを辿った技術史。これはこれで実に面白い。その技術が普及するまでの過程はサスペンスに満ちているとさえ言える(高度なガラス製鏡制作技術を開発・発展させたヴェネチアの工場からフランス国家によって引き抜かれた技術者が何人か謎の死を遂げているのである)。講義で主に取り上げるのは、第2部「類似の魔法」。ここで古代から近代までの〈鏡〉をめぐる宗教・哲学史が展開される。著者自身は、哲学が專門ではなく、ヨーロッパ心性史を專門とする歴史家(例えば、『不倫の歴史』という著作がある)だが、神話や聖書、文学作品、宗教的・哲学的著作からの多数の引用を散りばめつつ、そこに見られるさまざまな哲学的問題を、簡にして要を得た仕方で提示している。この本自体は、だから、哲学書とは言えないのだが、むしろそれが私にとっては好都合なのだ。というのも、それらの問題の中から特に興味を持った問題を取り上げ、まさに哲学的問題の一つとして自ら深めていくように学生たちに促すきっかけを作りやすいからだ。実際、昨年度の演習では、課題として課してはいないのに、充実したレポートを自主的に提出してくれた学生がいた。
今日の記事の最後に同書のさわりを一箇所引用しておく。
鏡に映った姿からは像と類似というふたつの概念がまず問われることになる。つまり鏡に映っているものはモデルを模倣し、モデルから出てきているわけで、このモデルの正確で、かつ不完全な近似形を示している。それでは像はいったいどこに位置しているのだろう。見る者は自分が今いるここにいると同時に別のところにもいて、厄介なことに同時に数カ所にいるとともにどこか奥深いところに見えるから、ある不確かな距離のところにいることになる。人が鏡のなかを見るというよりは、むしろ目の前にあるスクリーンの後ろに像が現れてくるような感じで、その結果、自分の姿を鏡で見ている者は、いったい自分は鏡の表面を見ているのか、それとも表面を通り越してその向こう側を見ているのかと考えてしまう。鏡に映る影は、鏡の向こう側に実体のないひとつの後方世界があるという印象を起こさせ、視線に外見を通り越して彼方を見させようとするのだ(同書、114-115頁)。
この一箇所からだけでも、たっぷり時間をかけて議論すべきさまざまな哲学的問題を引き出すことができる。それを哲学史の中に位置づけながら、試みようというのがこの演習の目的である。
「あいつだけは許せない」- 誰かに対して怒りに捕らわれたときなどに、私たちは無反省についこのように口走ってしまうことがある。あるいは、口走らなくても、そういう思いが心をよぎることがある。それが一過性の激しい感情の発露というだけならば、その感情が消えるとともに、その「許せない」という気持ちも失せる。私たちが「許せない」と言うとき、大抵の場合は、この類の、他に取って代わられうる感情の一種のことに過ぎない。しかし、この世の中に生きていると、「こんなことが許されていいのか」、それが法に触れることかどうかは別として、「こんなことがまかり通っていいのか」と、もっと深い怒りあるいは義憤から、「許せない」と叫びたくなるときだって、残念ながら、少なくない。ましてや、「許しがたい」犯罪については、いろいろな意味において、「許せない」と叫ぶだけではすまされない。今日のようにネットを通じて、世界中のニュースが一瞬にして地球を駆け巡る時代に生きていると、こっちはそれを知ろうと思ってもいないのに、そのような犯罪についての情報が嫌というほど耳に届き、目に飛び込んで来る。その頻度は、うっかりすると、世の中はほとんど「許せない」ことばかりで成り立っているのかと思いたくなるほどだ。
もし、世の中「許せない」ことだらけだとすれば、それが日常茶飯事だとすれば、私たちは自分でそれと気づかないままに、それらが生じることを「許してしまっている」ことになる。しかし、私はここで世人のいわゆる無責任を糾弾したいのではない。そうかといって、そのことに無関心でいいと言いたいのでもない。「世の中そういうものだ、諦めろ」と斜に構えたいのでもない。ただ、そのように「許してしまう」ことなしに、私たちは果たして一日でも生きられるだろうか、と問いたいだけだ。もしそのように「許してしまう」ことが罪ならば、誰が自分は「罪人」ではないと最後の審判の日に申し開きができるであろうか。
個々の犯罪について、ここで問うことはしない。それぞれの犯罪について語るには、あまりにもその「真実」を知らないのだから。福島原発事故に象徴的に代表されるような、現代社会の根深い構造的腐敗の問題もここでは扱わない。根治不可能ないわゆる政財界の諸悪もここでは除外する。それらはそれとして、それぞれに考えなくてはならない問題だ。しかし、これらは私たちが社会で生きるかぎり不可避的に直面せざるをえない諸問題であるとすれば、それらについては、許すか許さなかが問題なのではなくて、それらにどう対処し、対策を立てるかというといことが、現実に即して問題にされなくてはならないであろう。
私が今日ここで問題にしたいのは、私たちは我が身にとって「許しがたいことを許す」ことがほんとうにできるのか、もしできるとすれば、それはどのようにしてなのか、ということである。これは私にとって他人事ではない。一般的に論じて一般的な結論が出せれば、それで解決、というような、頭だけで考えうる思考のゲームでもない。それは身を切られるような痛みを伴った現在の問いとして私に迫る。
私は、これまでの人生で、ただの一度も、私にとって許しがたいことを許せたことがない。許せないままなのだ。いつまでも相手に対する憎しみが消えないというのではない。ただ、自分がなぜあのような酷い仕打ち、理不尽な扱いを受けなくてはならなかったのかわからず、その理由がわからないかぎりは、許すに許せない、と言えばいいだろうか。相手に向かって「どうして」と問いかけ、それに対する納得のいく答えが相手から得られないかぎりは、許すわけにはいかないという不自由な気持ちに囚われたままだと言い換えてもいい。しかし、その答えが得られれば、そのときは、ほんとうに許せるのだろうか。それさえわからない。
このような「囚われの身」であることは、それだけで生き難い。自分でもなんとかしたいと思う。我が身を苛む、この心の拘束衣から一日も早く解放されたいと切に願う。でも、まだ、どうやったらそれが外せるのかわからない。ただ、これだけは言えそうだと思えることは、逆説的に聞こえるかもしれないが、許そうと努めるかぎり、許すことはできないだろう、ということだ。さらに踏み込んで言えば、許そうとして許すことは、ほんとうに許したことにならない、ということだ。
なぜそう言えるのか。それは以下の理由による。とても許されないようなことを人にはしておきながら、自分では人を許せない、この頑な私を、それにもかかわらず、許してくれた人たちがいる。それは、その人たちが私を許そうと特別に努めてくれたということではない。私の過去の過ちが私自身の償いによって帳消しにされたということでもない。私が犯した過ちは、事実として、消えることはない。では、何が起こったのか。私が驚きとともに気づかされたことは、その人たちにおいて、私の許しがたい過ちの〈許しがたさ〉が忘却されていることなのだ。その忘却は、しかし、その人たちの意志によって獲得されたものではない。それは、個人の意志を超えた何かがその人たちにおいて働いているからこそ、到来した事柄なのである。「許せない」私に、今言えるのは、ここまでである。
「思い出だけが美しい」という人がいるかと思えば、「思い出すだけでも、いまだに腸が煮えくり返る」という人もいる。両者真っ向から対立しているように見える。後者の場合、その過去の忌まわしい出来事が今も感情を揺さぶり続け、そこから距離を取ることができないままだと言っているのに等しい。さらに深くその人を傷つけた出来事の場合は、それを思い出すこと自体があまりにも辛いゆえ、それを拒否し、無意識の内に抑圧しようとする心理的機制が働きもする。だが、これら後者の場合は、それだけで深刻な問題であるから、いずれまた改めてゆっくり考察することにして、今日は、「思い出の美しさ」、あるいは、「思い出すことにおける美の経験」について考えてみよう。
「思い出だけが美しい」というのは一種誇張された表現だとも言える。〈現在〉における美の体験の例を私たちは容易に挙げることができるだろうから。とすれば、この表現は、美しいもの・ことは思い出の中にしかない、ということが言いたいのではなく、むしろ、思い出すときにのみ現成する美しさ、そのときにしか経験できない美しさがある、一言で言えば、想起における美の固有性のことを言わんとしているのではないだろうか。
この想起における美の固有性を考えようとするとき、過去の美の体験、例えば、かつて私たちが実際に接した、美しい絵画、風景、音楽などの例を挙げることは、かえって事柄そのものに接近しにくくさせるかもしれない。なぜなら、それらの場合、過去において体験された美と想起において現前する美との区別という問題が入り込んでくるからである。そこでは、後者を前者と同一視する、後者を前者によって根拠づける、などの過ちに陥りがちだ。それらを注意深く避けなくてはならない。
そこで、よりわかりやすく、誰にでもありうる例として、失恋の経験を考えてみよう。別れは辛いものだ。その直後は、食事も喉を通らない、誰とも会いたくない、夜も眠れない、もうこれ以上生きていても意味はないとまで思い詰めることだってあるだろう。自分は不幸なままで、別れた相手だけが幸せになることなど許せない、と激しい嫉妬に身を苛まれることもあるだろう。辛い思いをし続けることは耐えがたいから、早く忘れてしまいたいと、慌てて別の相手を探す、あるいは、何か別に熱中できることを見つけて、とにかく別れた相手を思い出さないようにあれこれ試みる人もいるだろう。これらの苦しみがいつまで続くのか、わからない。数週間、数ヶ月、あるいは数年。
〈今〉、それらすべての苦悩は、もう心を疼かせなくなったとしよう。自力でそれらを乗り越えたかどうかは問わない。それはどちらでもよい。それまでの苦しみを忘れている自分に、あるとき、ふと気づく。もう以前のように無理をしなくともよい。そのとき、好きだった、あるいは今でも好きなその人が、まったく新たな相貌のもとに私の前に立ち現れる。それは、ただただ美しい。いったい何が私に起こっているのか、何が私に到来しているのか。それは考えが変わったなどという日常的なレベルの出来事ではない。自らの作為による過去の美化に成功したということでもない。心的外傷の自然治癒ということにも尽きない。自分が人間的に成長した、「大人になった」ということとも違う。
私はこう考える。そのとき、思い出すという仕方でのみ経験しうる他者との関係が〈私〉においてはじめて成立したのだ。想起が〈私〉にもたらすのは、その時その時の直接的な関係において体験された種々の感情・情念・感覚から浄化された〈他者〉の姿なのだ。それは、過ぎゆく時間を超えて変わらぬもの、〈真なるもの〉の到来である。それは美しい、ただひたすらに美しい。私たち誰にも到来しうる、この〈想起における美〉、これを「恵み」と呼ばずになんと呼べばいいのだろう。
いつの頃からだろうか、「いい思い出を作る」、あるいはそれに類した表現をしばしば耳にするようになり、以来、何かそれに引っかかるものを感じて、気になっていた。何が気になっていたのだろう。おそらく、それは次のような違和感だと思われる。誰かがそのような表現を口にするのを聞く、あるいはそう書かれてあるのを見るたびに、結果としてある出来事・体験がよき思い出として残るというのではなくて、最初からいわゆる「いい思い出」を作ることそのことが目的になっているように思われ、それでは本末転倒というか、〈今〉を十全に楽しむことが逆にできないのではないかという気持ちを私に抱かせるのである。
「いい思い出を作る」ためには、「いやなこと」は避けたい。そうしないと、思い出が損なわれてしまうから。しかし、そのようないわば自己検閲が働いてしまうと、その都度の〈今〉に包蔵される意味の豊かさを十分に生きることができなくなってしまうのではないだろうか。「楽しい思い出」が一杯の過去を持つことができることは幸せなことかもしれない。しかし、そのためにそれと意識しないままにその都度の〈今〉の中に含まれていた、その時には辛く、あるいは苦しく、あるいは苦く感じられる要素が排除されてきたのかもしれない。とすれば、それらの要素を欠いたまま私たちに残された「楽しい思い出」は、私たちがその都度の現在を十分には生きなかったことの証にほかならないのではないか。それは、例えば、美しい風景を目の前にして、後日の楽しみのためにと、それを写真に撮り記録に残すことに忙しく、〈今〉〈ここ〉でしか感じられないことを、五感を全開して体全体で感じ取ろうとしないことに似ていないだろうか。もちろん、たった一枚の写真が、記憶の底に沈んでいた遠い昔の思い出を一気に蘇らせ、それによって胸を締めつけられるような懐かしさとともに、その遠い昔を愛おしむ気持ちが生まれることも事実ある。それを否定しようとは思わない。だから、今をよく生きるためには写真を撮るな、などと乱暴なことがここで言いたいのではない。
後になって思い出したくもないようなことはできれば最初から避けて通りたい、そんな思い出はいらない、そう思うのは自然なことだ。嫌な思い出に付き纏われて後々まで苦しい思いなど誰がしたいであろう。そんな苦しみがあっては、それこそ〈今〉を十全に生きられないではないか。だから、私たちは悔いのないように生きようとする。しかし、それは「楽しい思い出」だけを残そうすることとは違うだろう。誰も後悔するために生きているのではない。にもかかわらず、何一つ後悔することのない人生を送ることができた人は極めて稀だろう。それは、私たちが十分に賢くないゆえにどうしても誤った選択をしてしまうからだろうか。私たちにできることは、「いい思い出」をより多く残すために、せいぜいよりよい選択を心掛けることだけなのだろうか。
それよりも根本的なことだと私に思われるのは、それが正しかったにせよ誤っていたにせよ、私たちは生きているかぎり選択せざるをえないということであり、ある選択がなされたということは、それ以外のすべての選択がなされなかったということであり、この意味で、私たちそれぞれの人生は、私たちがそう望むか望まないかに一切かかわりなく、されなかった、あるいは、しえなかった選択の総体の否定にほかならない。その人が幸福であろうが不幸であろうが、誰一人の例外もなく、この人間の意志を超えた否定性を、等しく、〈今〉、生きている。
朝7時半羽田発関空行のANA便で帰阪。大阪もやはり暑い。でも、もうこの猛暑にも慣れてきた、と強がりを言っておく。でも、実に、暑い。
キャンパス内のゲストハウスに一旦荷物を置きに戻ってから、国際センターに例の学生とそのホスト・ファミリーとの間のトラブルについて、その後の経過を担当者に聞きに行く。その担当者から東京にいる私にメールで問題の報告があった翌日、私の方から当の学生宛に相当厳しい内容のメールを送り、ホスト・ファミリーの言うことをもっとよく聞くように強い調子で注意しておいた。普段からコミュニケーション障害のある学生で、相手がフランス人であっても、なかなかまともな会話が成立しない。授業中はいつも独り他の学生たちから離れて座り、この3年間、彼が他の学生と話しているのを私は見たことがない。成績もパッとしない。その学生が今回の日本語研修への参加を希望してきたとき、正直驚き、かつ不安に思った。フランスでフランス人同士であってもコミュニケーションが難しいのに、日本という、まったく異なった文化と生活習慣の国に来て、しかも日本語能力も低いとなれば、コミュニケーション上何か問題が発生しないほうが不思議だろうとさえ思った。とはいえ、本人がそれでも日本に行こうと思うのだから、きっとそういう自分の殻を打ち破りたいという気持ちもあるのかもしれないと、参加を希望通り認めた。
しかし、やはり問題は発生した。「想定内」などと呑気なことはいっていられない。迷惑を被っているのは、3週間朝晩の食事も含めて面倒を見てくださるホスト・ファミリーなのだから。今回のことが理由で、もうこりごりだなどと思われてしまっては、いつもホスト・ファミリー探しに苦労されている受け入れ大学にも申し訳が立たない。今日、当の学生が午前中の日本語の授業を終えて教室から出てきたところで、呼び止め、事情を聴く。担当者の話によると、ホスト・ファミリーが相当厳しく本人に直接注意してくださったようで、それによって本人の態度にも改善が見られ、そこへ私からのメールも入ったこともあり、見たところ、何が問題なのかはよく理解できているようだった。もうホスト・ファミリーには丁寧に謝ったし、これからは気をつけると本人は言う。「これからプログラム終了日まで私もずっとキャンパスにいるから、どうしてもうまくコミュニケーションが取れない場合は、私に相談するように。そのための引率なのだから」と伝えて別れる。
これは普段からの印象でもあるのだが、何か心の深いところに傷があり、そのことに本人はそれとして気づいてはおらず、結果として、他者への恐れからなのか、いつもこわばった話し方しかできず、それゆえ他者との関係がうまく作れない。本人もそれはわかっており、きっと苦しんでいる。でも、自分ではどうすればいいのかよくわからない。つい独り合点の反応で会話を躓かせてしまう。今回の問題がこれで解決したかどうかわからない。これからプログラム終了まで経過を見守りつつ、場合によっては私が直接ホスト・ファミリーと話し合う必要も出てくるかもしれない。
こんな時にはちょっと気分転換したい。都合のいいことに、キャンパスから徒歩数分のところにスイミングスクールがある。先週土曜日にその前を通りかかったときに、掲示板に月極のフリーコース会員というのがあるのを見つけ、スタッフに説明を受けておいた。料金設定もまあまあ良心的だし、そのスタッフの対応がとても丁寧かつ気持ちのいいものだったので、今日の学生との面談の前に、入会手続きに行った。その時は、月会費の他に入会金というのを請求され、合計1万円を超えてしまった。フリーコースのある日に毎日来ても9回しか来られないから、ちょっと高いとも思ったが、普段のパリでの習慣を維持するためにはそれくらいの出費は仕方ないだろう。面談を済ませた後、本日のフリーコースの時間帯に合わせて再度プールに行く。すると受付で、さっき入会手続きのときに対応してくれたスタッフに呼び止められ、スイミングスクールの責任者に私のケース、つまり1月間だけの入会について報告したところ、そのような特殊な場合には入会金は取らなくていいし、月4回のみのコースの料金でいいと言われたとのことで、ほぼ半額を返金してくれた。これはまったく嬉しい「想定外」。しかも、フリーコース用の1コースを事実上独占できて、一時間自分のペースで泳ぐことができた。これは私にとってとても贅沢な時間。ゲストハウス滞在中、皆勤を目指す。