内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

イソクラテスの生涯(一)― 青年期に深い影響を受けた二人の人物、ゴルギアスとソクラテス

2022-03-11 23:59:59 | 読游摘録

 『論証のレトリック』に導かれながらアリストテレスの『弁論術』(レートリケー)を読み始める前に、廣川洋一氏の『イソクラテスの修辞学校』(講談社学術文庫)を読んで、イソクラテスの生涯、創設した学校とその教育内容、教養(パイデイアー)理念を順に学んでおくことにします。
 今日から何回かは「イソクラテスの生涯」からの摘録です。
 イソクラテスは前436年にアテナイの富裕な楽器製造業者テオドロスの子として生まれました。ペロポネソス戦争開始の5年前、後年よきライヴァルとなるプラトンより9歳ほど年長でした。父はその息子たちに充分な教育を受けさせたといわれています。イソクラテスはたいへん長命で、前338年98歳まで生きました。
 若き日、アテナイを訪れた高名なソフィストたちの弁論を聴く機会を得たことは疑いのないところです。イソクラテスと「最も濃厚な師弟の関係」にあったとみることができるのは、シケリア島東部、レオンティノイの人ゴルギアスです。ゴルギアスは、その雄弁でアテナイの市民たちを熱狂させていました。高額な授業料を取り、裕福な生活を送っていました。どの国にも定住所をもたず、したがって公共の税その他を支払う必要もなく、結婚もせず子もなかったから、蓄財にはきわめて有利であったにもかかわらず、死んだときにはごくわずかの財産しか残っていなかったといわれています。
 このゴルギアスから弁論術について多くを学んだイソクラテスですが、文体については、過度に装飾的な文体を駆使するゴルギアスのゆき方を必ずしも踏襲せず、むしろ「日常言語の世界に身を置き、日常言語をうまく結び合わせることによってそこに特色と品位をそなえた言語世界を創造する、新しい文体を生み出し」ました。
 イソクラテスに大きな影響を与えたもうひとりの人物として廣川氏が挙げるのは、意外にも、ソクラテスです。ソクラテスが刑死したとき、イソクラテスは37歳、おそらくテッサリアのゴルギアスのもとでの修業時代を終えて、アテナイの法定弁論代作人(ロゴグラポス)としての経歴を始めて数年が経っていました。古伝によると、イソクラテスは、ソクラテスの刑死の知らせを受けて、「度を越えるほど嘆き悲しみ、翌日彼は黒衣をまとって現われた」そうです。
 イソクラテスは、プラトンがそうであったという意味では、ソクラテスの弟子ではありませんでしたが、ソクラテスの教育ぶりを、少年・青年時代に常日頃見聞きしていたことは疑いないところで、「ソクラテス的精神とでもいうべきものに彼がひそかに憧れ尊敬の念を抱いていたとしてもけっして不思議なことではない」と廣川氏は見ています。
 プラトンの中期対話篇『パイドロス』の中に、ソクラテスがイソクラテスのことをきわめて有望な青年として褒め称える場面(279A‐B)がありますが、この場面自体はまったく架空だったとしても、「このような場面を設定してもとりわけ不自然ではないような、あるかかわりがイソクラテスとソクラテスの間にあったことを推測させるもの」とも思われます。
 このことは、イソクラテスの修辞学校とプラトンの学園アカデメイアとが激しいライヴァル関係になることを思い合わせるとき、大変興味深いことだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


思慮分別を伴う言論 ― イソクラテスにとっての「哲学」

2022-03-10 09:09:00 | 読游摘録

 イソクラテスにとっての「哲学」とは、プラトンのいうような哲学ではありませんでした。問題とされる事柄について体系的な知識を探究する営みではなかったのです。イソクラテスの考えでは、「何を為すべきか、何を語るべきか」について厳密な「知識」を獲得することは「人間の本性」にとってもともと「不可能」なことなのです。したがって、「知者」(ソポス)とは、「思いなし(健全な判断)―ドクサ―によって大概の場合に最善のものに達することのできる人々」のことです。そして、「哲学者」(ピロソポス)とは、「そのような思慮分別(プロネーシス)を最もすみやかに獲得するもとになる事柄の勉学に従事する人々」のことなのです。イソクラテスのいう「思慮分別」とは、実生活において何を為すべきかという政治的・倫理的な行為の規範に関する健全な判断(ドクサ)にほかなりません。それをプラトンの哲学が求めるような精確な知識として獲得することはできないというのです。
 しかも、「思慮をもって行為される事柄は何ものも、言論の力なしには生じないこと、またあらゆる行動、あらゆる思想を導くものは言論であり、その言論を最もよく用いるのは最も多くの知性をもつ者である」とイソクラテスは主張します。思慮分別に裏づけられた言論、人々相互の説得こそが、野獣としての生からの脱却、国家社会の建設、法の制定、技術の発明など、われわれのあらゆる文化の確立をうながしたと認めるわけです。
 イソクラテスは、レートリケーを中心として詩文、歴史、政治、倫理道徳などを合わせて学ぶことによって、人間的(人文的)教養の獲得をめざす「哲学」を提唱しました。その教養というのは、前述のような思慮分別を伴う言論の教養だったのです。このようにして、イソクラテスは、西洋におけるレートリケー(レトリック)を中心とする人文的教養の伝統の基礎を確立したのです。
 浅野楢英氏によるこの解説を読んだだけでも、イソクラテスによって確立されたレートリケーがヨーロッパ文明全体に対してどれだけ大きな貢献をしたかがよくわかりますね。
 アリストテレスによるレートリケーの理論は、以上のような歴史を背景として成立したのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


人間としての教養としてのレートリケー ― イソクラテスの修辞学校

2022-03-09 23:59:59 | 読游摘録

 イソクラテス(前436年‐前338年)の修辞学校については、まさにそれを主題とした廣川洋一氏の名著『イソクラテスの修辞学校』(講談社学術文庫 2005年 原本 岩波書店 1984年)があり、このブログでも先月末に紹介しました。同書には後日立ち戻るとして、『論証のレトリック』の中でのイソクラテスの弁論修辞の学についての解説を読んでいきましょう。
 イソクラテスは、プラトンの学園「アカデメイア」の創設(前387年頃)に数年先立つ前392年頃、弁論修辞の学を人間としての教養のための中心科目とする学校を開設しました。その後、死去するまでの約半世紀もの間、その学校での教育に携わり、政治家、弁論修辞家、歴史家、詩人など、種々の分野のわたる多くの弟子を世に送り出しました。
 イソクラテスは、当時の他の多くのソフィストや弁論修辞家たちからも、プラトンのような哲学者たちからも自分を区別します。
 人間としての何を為すべきかの知識を授けると称して、実は争論と詭弁の術を教えるにすぎない劣悪なソフィストたち、政治的な言論の技術が人の素質や実地の経験にかかわりなく、機械的に授けられるかのようなふりをする弁論の教師たち、いわゆる「技術」(言論の技術)の教科書を書き、低俗な法定弁論に携わっている初期の弁論家たち、そういった人たちをイソクラテスは非難の的とします。
 他方、プラトンの哲学に対してもイソクラテスは批判を加えます。イソクラテスは、「言論に関しても、行為に関しても、現実の場で何の役にも立たないものを哲学の名で呼ぶべきではない」と考えます。したがって、プラトンの学園アカデメイアで研究されているような争論的言論(ディアレクティケー)とか天文学や幾何学などの厳密な学問とかについては、「心の体育訓練」または「哲学のための準備」として、ある程度の有用性を認めるにすぎません。
 イソクラテスの教育者としての立ち位置がよくわかりますね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


弁論家によって騙されないようにするためにもレートリケーの技術を学ぶ必要がある

2022-03-08 01:24:16 | 読游摘録

 今日で『論証のレトリック』からの摘録を一週間続けたことになりますが、まだ本書の三分の一ほどのところです。これまでの記事ですでに納得していただけていることと思いますが、古代ギリシアのレートリケーに今このときに私が関心を向けているのは、単なる好事家的興味からでもなく、現実から目を背けるためでもありません。
 今私たちのまわりを日々飛び交っている無数の言説がいったいどんな性質のものなのかをよく見きわめるためにも、古代ギリシア・ローマのレートリケーの歴史を辿り直しておくことはけっして無駄ではないと思うのです。
 プラトンによるレートリケー批判をまず見ているのは、当時のレートリケーに欠けているものを一方的に批判するためではなく、それに対抗する代表的勢力であったイソクラテスの修辞学校がどのような教育理念のもとに修辞学教育を展開したのかを、プラトンのレートリケー批判との対比においてよりよく理解するためです。そして、そのイソクラテスの修辞学に一定の効力と有用性を認めた上でアリストテレスが自身の『弁論術』をどのように構築しているのかをしっかりと捉えたいのです。これがさしあたりの私の目的です。
 さて、昨日の記事で摘録した『論証のレトリック』の部分の続きを少しだけ見ておきましょう。プラトンによるレートリケー批判の続きです。

 プラトンによると、レートリケーは「言論による一種の魂(心)の誘導」(『パイドロス』261A)であり、言論の機能は魂(心)を説得によって導くことにあるのです。したがって、レートリケーは言論が向けられる人々の心と、用いられる言論と、言論の心に対する説得的な働きかけとに関する知識を伴うものでなければならないのです。人々の心にはどれだけの種類のものがあり、それぞれどんな性質のものであるのか、どういう性質の心をもつ人々がどういう性質の言論によってどんな理由で説得されたり、説得されなかったりするのか。こういったことに関する知識をレートリケーは備えていなければならないということです。しかし当時のレートリケーの教科書にはその説明が欠けていたわけで、その点が批判されるのです(同上270E‐272A)。

 幸いなことに、今日の私たちはこれらの知識を持っています。あるいは、少なくとも、学ぼうと思うならば学ぶことができます。そのためのよい教科書もあります。これらの知識を身につけるのは、なにも自らが弁論家になるためとはかぎりません。弁論家によって騙されないようにするためだけであっても、私たちはレートリケーの技術を学ぶ必要があるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


レートリケーは技術ではなく、単なる「経験」や「熟練」にすぎない ― プラトンのレートリケー批判のアクチュアリティ

2022-03-07 00:00:00 | 読游摘録

 プラトンは、当時流行していたレートリケーに対して、『ゴルギアス』と『パイドロス』のなかで批判しています。両書には優れた日本語訳もありますから、プラトンの言わんとするところをよく理解するためには作品そのものを直接読むに如くはないわけですが、まずは『論証のレトリック』によって要点を押さえることにしましょう。
 当時の弁論家たちによって、レートリケーとは、一般に、「説得をつくり出すもの」(『ゴルギアス』453A)でした。レートリケーとは説得術だということです。しかし、プラトンは、それを、論じられる事柄に関する「知識をもたらす説得」ではなく、「信念をもたらす説得」にすぎないと批判します(454E‐455A)。
 プラトンにとって、「知識」は、真なるものであり、しかも体系的な理論を伴うものでければならなかったのに、「信念」は、真である場合もあれば、偽である場合もあるような、「思いなし」(ドクサ)にすぎません。
 当時、レートリケーは、一種の政治術であるかのようにソフィストたちによって喧伝されていましたが、プラトンに言わせると、それは技術の名に値しません。その理由は以下のとおりです。
 一般に、技術は取り扱う対象の善(すぐれていること)をめざすものである。政治術は、人々の心(精神)を対象とし、心ができるだけ善いものとなり、人々がすぐれた市民(社会人)とはなるように配慮する技術である。ところが、レートリケーは、人々の心にもっぱら快をもたらすことだけを狙い、その快が善いものなのか悪いものなのかについて無関心である。だから、レートリケーは、技術ではなく、「迎合」の一種に他ならない。
 そのうえ、一般に、技術は、取り扱う対象についても取りおこなう処置についても理論的な知識をそなえていなければならないのに、レートリケーにはそういうものが欠けているとみなされます。だから、レートリケーは、技術ではなく、単なる「経験」や「熟練」にすぎないとプラトンは批判します。
 このような一節を読んでいると、いったい私たちの社会は古代ギリシアの時代から半歩でも進歩していると言えるのだろうかと自問せざるを得ません。私が古代ギリシアのレートリケーに強い関心を持つ理由もそこにあります。レートリケーは、とても「アクチュアル」なテーマだと思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ソフィストたちによる教育法 ―「靴を作る技術を教える代わりに種々の靴を与えるようなもの」

2022-03-06 01:03:40 | 読游摘録

 今日は『論証のレトリック』第一章の「ソフィストたちによる教育法」と題された節からの抜粋です。

ソフィストたちはさまざまな場所に人々を集めて、自分の書いた弁論を読み聞かせたのです。たとえば、アテナイでは、リュケイオン、体育場、劇場、有力な後援者の私邸などがその場所です。

ソフィストたちは、長い演説としての弁論を教えただけでなく、短い言葉のやりとりとしての問答をも教えました。

自作の弁論を受講者の手本にするというやりかたは、ソフィストによってだけでなく、法定弁論の代作を職業とするような専門の弁論家によっても用いられていました。

このような教育法はアリストテレスによって批判されます。それはあたかも靴を作る技術を教える代わりに種々の靴を与えるようなものです。しかし技術の成果を与えるだけでは、その技術を教えたことにはならないのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


弁論家 ― 真実らしいものが真実そのものよりも尊重されるべきであることを見ぬいた人たち

2022-03-05 03:35:33 | 読游摘録

 今日は『論証のレトリック』第一章「レトリック(レートリケー)事始め」からの引用です。

シケリアのシュラクサイで民主制がおこなわれるようになったのは前四六七年頃のことです。そこでシュラクサイの人であるコラクスとテイシアスが、主として法定弁論の技術に関する規則をまとめたハンドブックを書いたのです。これが技術としてのレートリケーの始まりです。

プラトンの『パイドロス』では、テイシアスは「真実らしくみえることが真実そのものよりも尊重されるべきであることを見ぬいた人」(267A)だといわれています。なぜ尊重されるべきなのかというと、「真実らしく見えること」は「多数の人にそうだと思われること」にほかならない(273B)からです。テイシアスはそういう「(言論の)技術の秘訣ともなるような賢明な発見をした」(同上)わけです。

プラトンは、当時「言論の技術」と称されて流行したレートリケーに批判的だったので、からかい半分の語り口ではありますが、さまざまな弁論家たちの教えを『パイドロス』(266D‐267D)のなかで生き生きと描き出しております。

テイシアスとゴルギアスについては、「真実らしいものが真実そのものよりも尊重されるべきであることを見ぬいた人たちだが、一方ではまた、言葉の力によって、小さい事柄が大きく、大きな事柄が小さくみえるようにするし、さらには目新しい事柄をむかしふうに、古くさい事柄を目新しく語るし、またあらゆる主題について、言葉を簡単に切ったり、いくらでも長くしたりすることを発明したのだ」といわれています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


教養 ― 社会の一員である人間としての徳、善さということにいつも配慮し、それを求める技術

2022-03-04 23:59:59 | 読游摘録

 昨日の続きです。「知恵を伴う言論の基盤は徳と教養」と題された節からの引用です。

徳というのは、ギリシア語ではアレテーにあたり、善さ、優秀さということです。

いま取り上げているのは、[…]人間の徳、つまり人間社会の一員としての人間の徳なのです。プラトンの『国家』では、そういう徳の基本となる四つの徳として「知恵」「勇気」「節制」「正義」が論じられます。

アリストテレスが『政治学』(一巻二章)のなかで言っているとおり、「人間は本性のうえでポリス(国家社会)的動物である」とすれば、人間としての徳はまた社会の一員としての徳でもあるということになるわけです。教養というのは、社会の一員である人間としての徳、善さということにいつも配慮し、それを求める技術なのです。そういう教養が知恵(思慮分別)を伴う言論の基盤となるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「人間としての教養」から遠く離れて

2022-03-03 23:59:59 | 読游摘録

 今はブログに拙文などを呑気に綴っていられる気分ではありません。愚にもつかない御託を並べるよりはと、しばらくは読んで感銘を受けた本からの抜粋のみといたします。浅野楢英著『論証のレトリック』からの引用を続けます。以下は昨日の記事で引用した段落の直後の節「人間としての教養」からの抜粋です。

常識は言論の大きな基盤です。けれども上手な言論というだけでなく、知恵(思慮分別)を伴う言論ということになると、教養が基盤となるでしょう。教養または教育というのは、ギリシア語でパイデイアーといわれます。ちなみに古代ローマの著述家ウァロやキケロがこの語に対するラテン語訳として当てたのが、フーマーニタース(humanitas 人間的・人文的なもの)だったのです。

教養というのは、その道の専門家になるための技術(知識)として学ばれるものではなく、一個の素人としての自由人にふさわしいものとして学ばれるのだということが注目されます。

プラトンの最晩年の対話篇とみられる『法律』では、教養とはなにかということが語られています。たとえば小売商や船の舵取りなどの専門的技術について相当の教育を受けた人でも、それだけなら無教養だといわれるのです。教養のある人というのは、「徳をめざしての教育」を受けた人のことであって、その「徳」というのは「正しく支配し、支配されるすべを心得た、完全な市民(国家社会の一員)になろうと、求め憧れる者をつくりあげるもの」(643E)のことだというのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


言論の基盤としての「常識」はどのように形成されるのか

2022-03-02 22:37:03 | 読游摘録

 2月27日の記事で話題にし、その一節を引用もした浅野楢英氏の『論証のレトリック ――古代ギリシアの言論の技術』(ちくま学芸文庫)は、私ごときが言ってもあまり説得力がないかも知れませんし、何か偉そうな物言いに聞こえてしまうかも知れませんが、今あらためて多くの人に読んでもらいたい、いや、一緒に読んで話し合いたいと切に願う名著です。
 しかし、それは、皆さん、この本を読んで論証のレトリックを積極的に活用しましょう、ということではありません。そんな呑気な話ではないのです。他人事ではなく、私自身、本書を読んで、自分が知っていると漠然と思っていることがらのうち、いったいどれほどが実は言論の技術によってそう思わされているだけなのかと気づかされ、言論の技術に対して自覚的になることがなぜ必要なのかを理解することができたのです。
 世の中には、きわめて優秀かつ博識で、諸般の事柄について優れた見識をお持ちの方々も少なからずいらっしゃいます。その上、優れた言論の技術を身につけてもいらっしゃる方々もいらっしゃる。しかし、私のような愚かな人間は、さて、これは真実だと証拠を挙げて言えること、これは真理だと自力で論証できることがどれほどあるかと自問すると、愕然とするほど少ない。というか、ほぼ何もない。
 それでも生きている、いや、生きてしまえているのはなぜか。この問いに一言で答えるとすれば、それは、ほとんど「エンドクサ」(通念)頼みで日々を過ごしているからだと答えざるを得ません。
 アリストテレスは、『トピカ』(101a30 -)の中で、大衆(多くの人々)を相手に話し合うには「エンドクサ」に基づいて言論を展開することが有効だと言っています。確かに、ほとんどすべての事柄に関して「非専門家」である大衆に、ある分野の専門家が専門的な話を厳密にしても、それこそ、猫に小判、豚に真珠でしかありません。
 今日、私たちは、人類史上、最も高度に発達した科学技術文明を享受しながら生きています。そのことは、同時に、それだけ専門的知識から疎外され、エンドクサに依存して生きているということにほかなりません。
 「エンドクサ」「人々に共通な見解」が、浅野氏の言うように、「人が自分の専門外の事柄について考え、論じるときに拠りどころとなる」「常識」であるかぎり、それは無闇に否定すべきものではありません。

 常識は専門的知識ほど精確ではありません。また常識がすべて専門的知識に由来するわけでもありません。単に皆がそう思っているというだけの常識もあります。しかし専門的な事柄に関する常識というのは、専門家の得た知識が専門家でない大衆にもわかりやすく通俗化されることによって形成されるのです。そのような常識は知識に次ぐ確かさをもつということができるでしょう。常識は非専門家(大衆)からの、また非専門家向けの、あるいは非専門家どうしの、言論の基盤なのです。

 この言論の基盤としての常識は、しかし、無償で私たちに提供されているわけではありません。専門家たちに任せておけば、彼らが非専門家たちのために形成してくれるものでもありません。