内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

わかりやすい選択肢はすべて誤りだということが合意されたときにしかほんとうの話し合いは始まらない

2022-03-01 21:10:12 | 雑感

 唐突ですが、今日、このブログを続けることが心底虚しくなってしまいました。ただ、この虚しさの急襲は、これがはじめてではなく、ほとんど周期的とも言ってよい現象なのです。その周期的な急襲に耐えつつ、このブログを続けてきた、と言っても過言ではありません(というのは言い過ぎか)。
 今回の虚しさは、今ウクライナで起こっていることと無関係ではありません。ここのところレトリックについてこのブログで御託を並べていたからといって、今ウクライナで起こっていることに無関心だったわけではありません。それはありえないことでした。学生たちの中にはウクライナ出身者もいるし、ロシア出身者もいるということ一つとっても、それはありえませんでした。
 ロシア軍のウクライナ侵攻以来、大学イントラネットにはウクライナ支持のメールが飛び交っています。その中には感動的なものもありました。今日は、学長名で、コスモポリタニズムを標榜する大学として、いかなる出自によっても学生たちは差別されることはないとの声明が出されました。それには私も全面的に賛意を表します。
 ただ、ウクライナ支持の一択で、それ以外はありえないという空気は明らかに異常だと私は思います。私は親露派ではありません。端的にプーチンは嫌いです。それもずっとまえから。無益な戦争で死者を出すこと、特に一般市民から死者を出すことは、いかなる場合も正当化されえないと思っています。
 でも、どちらを支持するか、二者択一だ、しかもそれは善か悪かの選択だ、という空気は、それ自体がプロパガンダの産物で、それに乗ることは問題の解決から私たちを遠ざけることにしかなりません。
 どちらかを選べ、というのは、問いあるいは要求としては、確かにわかりやすい。しかし、わかりやすい選択肢は、それがわかりやすいからこそ、すべて誤りだということが合意されたときにしか、本当の話し合いは始まらない。だから、話し合いには時間がかかる。したがって、話し合いのテーブルにつく者たちは話し合いに時間をかけることを厭うてはならない。それが「政治」なのだと私は考えます。