【解答をする、解説を読むその前に】
『百万回生きたねこ』を前もって読んで(持っていないなら図書館へGO! できれば購入。損はないよ)抽象化してみよう。
具体例を抽象化する(ここでは「メッセージを読み取る」と取ってもいい)良い練習になる。
抽象化する(メッセージを読み取る)って何? と思う人は以下の記述を期待されよ。
『百万回生きたねこ』は、昔、個別指導の30分授業(お試し)で初めて用いていた教材。
スパイの先生(年齢を偽っている上に、別の年に名前を変えて来た。)にも好評。
好評だったので高校での授業で練習にも使用。
生徒らの前で絵本を見せながら読み上げ、課題を出すという形式。
一見、簡単な素材からレベルの高いこと=抽象化すること=メッセージを読み取ることを行うあたりが私の好みでもある。
ちなみにスパイの先生の二回目の授業は違う練習をしていて、それも好評だった。
他の予備校や他の塾へスパイを送ることがあるなんだなぁ。
【問題】
次のような意見に対し、童話に関する自分の体験を踏まえて、賛否いずれかの立場から意見を述べなさい。
なお、解答文は所定の解答用紙に書きなさい。ただし、句読点、及び、改行のために生じる余白も字数に含みます。
子どものころから最近まで、いまひとつアンデルセンが好きになれなかった。残酷な話が苦手だというのではないが、その残酷さの質がグリムのようにあっけらかんとしていないせいだろうか。アンデルセンの残酷性は、本能的というよりは、一種の美学らしく、「童話」といううすものをまとわせて、倒錯的な思想をおしつけてくる。そんないやらしさが拒絶反応の原因であったかもしれない。
しかし、それを言うなら、『不思議の国のアリス』から『ジャングル・ブック』『ピーターパンとウェンディ』『ドゥリトル先生』『注文の多い料理店』まで、しらじらしさと倒錯性によって色づけされていない童話など、この百五十年のあいだ、大人によって書かれたためしがない。童話とは、大人がしらじらしいまでの「思想」を語って、幼い読者に絶大な感化を及ぼすプロパガンダ文学の一形式なのだ。
【解説】
≪ここでいう童話の一例≫
『100万回生きたねこ』
構造
飼い主←きらい・自分が大好き
生き返る
VS
のらねこ=飼い主がいない→白いねこ=自分より好き
死んだまま
《まとめ(『百万回生きたねこ』の抽象化の例)≫
○本当に愛するものがいないかぎり生をまっとうすることはない
○自分の人生の主人を自分にしないかぎり人生は完結しない
○本当の悲しみがあることこそが人生が充実しているということだ。
《課題文での留意点≫
「この百五十年」=近代以降
※ここを条件としてとらえられるかがポイント。
《注》
グリム童話は民話を収集し、編集した作品集(知らなくてもかまわないが文学系なら知っていて損はない知識)
【解答例】
子どものころに読んだ話を童話というなら、私が読んだ童話は単純なものが多かった。例えば『桃太郎』である。あれは世界を単純に悪と正義にわけていた。鬼の事情などには触れることはないし、きびだんごをもらったという恩で戦いに参加する動物達の事情も不明である。そして、この話は「悪と正義」ならば「正義の立場」になりなさいという「思想」を子どもにおしつけている童話であることはあきらかである。
また、最近、『百万回生きたねこ』という子供向けの絵本を読んだ。そこには本当に愛するものがいないかぎり生をまっとうすることはないというメッセージをよむことができた。これも「思想」をおしつけている童話であると言えよう。
この意味で私は「童話とは幼い読者に絶大な感化を及ぼすプロパガンダ文学の一形式なのだ」とする筆者の立場に近いのだが、実は根本的な違いがある。私は童話の読者を「幼い読者」に限定すべきではないという点で反対の立場である。人は最低でも二回、童話を読むことになっている。一度目は読んでもらう立場、つまり子どもとして、二度目は読んできかせる立場、つまり大人としてである。
近代以降、桃太郎のような、伝統的な童話ではない、個人の創作童話が増えてきたように思う。そして、童話の作者たちは、自己の作品を正当に評価してくれる「大人」を意識して「童」話を書いている可能性が高い。本来、子どものために書いた話でありながら、大人を意識して書くという行為は「倒錯」したものになるしかなく、その内容も「倒錯的な思想」になっていくことだろう。
『百万回生きたねこ』の内容が実感できる子どもはいないだろうが、実感できる大人はいるだろう。なぜなら、本当の「生」や「死」を追求するのは、子どもではなく、大人のはずだからである。
逆に「本能的」あるいは伝統的な童話である『桃太郎』には反発を覚える大人がいるかもしれない。その証拠に最近の現代版桃太郎であるはずのテレビのヒーローものは単純な正義の物語でなくなってしまい、話し合いの余地がなくならないかぎり、敵を倒してはいけなくなっている作品もあるそうだ。PTAなどの大人を意識した物語は変質していくのである。
したがって、私の結論は以下のようなものとなる。
近代以降の童話とは、幼い読者に対してだけではなく、幼い読者のむこうにいる大人へむけてのプロパガンダ文学の一形式である。
※2018-07-29の記事を2023-09-01 に増補、改訂した。
問題文の「倒錯的」という表現が引っかかりました。むしろ、子ども向けだからと現実の厳しさを描かないでごまかすほうが倒錯的といえるのではないかと。近年の作品に思想があるのは、児童文学が成熟してきた証ではないかと。
また、『不思議の国のアリス』は、子どもが楽しめるようにナンセンスを追求しているだけで、とくに深い思想を押し付ける作品とは思えません。私ならこのあたりのことで解答しそうです。
とはいえ、問題文も解答例もすばらしいものだと思います。
お褒めの言葉をいただけたとは言え、私の解答は模範解答と言えるものではなく、YuMoさんの方向性の方が良い解答ができると思います。「近年の作品に思想があるのは、児童文学が成熟してきた証ではないか」という内容の解答を読めたならば、私はためらうことなく「A+」をつけたでしょう。
ただ、これは受験生が知らなくても良い話なのですが、アンデルセンの『人魚姫』は自身の失恋が投影されている作品とされています。自身を「人魚+姫」として描いたところが倒錯的かもしれません。
また、『不思議な国のアリス』の「倒錯的」と言うのは
ドジソン=キャロルは、語りのパフォーマンスを通じて試みていることがある。それは一言で言えば、飼い馴らしgroomingである。語り手の最大の目的は、聞き手の少女の歓心を買うことにある。(福本修)
http://home.u02.itscom.net/fukumoto/hp/shyohyo/archives/carrol.html
あたりを指すと思われます。これが普遍的な見方とは思いませんが、別人の類似した文章を読んだことがあります。
少女を飼いならすためというあたりに出題者は「倒錯性によって色づけされている童話」だとみなしているのかもしれません。私の解答例では黙殺している部分ですが。
この二つが具体例の初めの二つになっているのは出題者の意図があるのかもしれません。
読み返してみると、人魚姫の童話らしからぬ悲しい結末に引きずられて、筆者のいう「倒錯」の意味を取り違えていたようです。
例に挙げられた作品群をみると、シンプルに現実や社会から逸脱しているという意味のようです。
そうした世界への憧れは、国語屋さんの解答例にあるように、むしろ大人のほうが強いのかもしれないと思いました。
マジックもそういう意味で、「倒錯」への憧れという思想を表現するものなのかもしれませんね。
キッズショーが難しいあたりそこにあるのかもしれないなとYuMoさんの文章を読んで思いました。
いや、マジック自体の難しさもそこにあるのかもしれませんね。