旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

カンピフレグレイ~ナポリの燃える大地

2011-09-21 18:51:45 | イタリア

ナポリの西にはギリシャ時代から「カンピ・プレグレイ=燃える大地」と呼ばれる地域がある。三十分で行ける隣町・ポッツォーリの町のど真ん中にヴォルカノ・ソルファターラと呼ばれる本物の噴火口があるのだ。

入場料を払って入ってみると、突然自分が円形のカルデラの底に居ることに気付く。ぐるりとみまわすと、見下ろしている淵にはこの写真の様に立ち並ぶ家まである。お住まいの皆さんは、毎日もくもく上がる硫黄の煙を吸い込んで生活しているわけだが、大丈夫なんでしょうか? ガイドさん曰く「このあたりに住んでるひとこの煙のおかげで風邪をひかないんだそうですよ」 ???ほ、ほんとですかい?

**紀元前八世紀のローマ建国以前からギリシャ人が移住していたこの一帯は古代遺跡の宝庫でもある。

朝9時にナポリのホテルを出て15分で、ツアーでナポリの夜景を見に行くポジリポの丘のふもとへ着いた。「この丘の下を抜ける古代のトンネルがあるんですよ、長いこと来てないけどどうなってるかなぁ~」とガイドさんが車を止めたのは、ちょうど現代のトンネルに入るすぐ手前のちょっとした車寄せ、さっきちらっと前方に見えた場所だ。←写真中ほど上に縦長のトンネル上部が見えますでしょうか?

入り口の看板を見ると「ピエディグロット(地域の名前)のヴェルギリウス公園」「ヴェルギリウス(紀元前1世紀)、レオパルディ(18世紀)のの墓」と書かれているが、トンネルについての表示はない。しかし、階段を上がっていくにしたがって見えてきたのは、とても二千年前の工事とは信じられない巨大な洞窟トンネルであった。

「こ、これが、紀元前一世紀につくられていたんですか、現代のトンネルと変わらないじゃありませんか!」すぐ下につくられたムッソリーニ時代につくられたトンネルよりも、なんというか、圧倒される迫力に満ちている。すぐ横に確実に上水道の跡とわかる水路があった

ここで聞いたこのトンネルの建設者が、今日もう一度、もっとすごいものを見せてくれることになろうとは、このとき全く思っていなかった。

現代のトンネルを抜けて「フォーリグロッタ(洞窟の外)」と呼ばれる地区に入る。ここからが現代の地理的にカンピ・フルグレイと呼ばれている地域になる。下記の地図で「ピエディグロッタ(洞窟の足元)」との間に見える現代の二つのトンネルのすぐ横に二千年前の先人のトンネルがあるのです。

***トンネルを抜けてカンピ・フレグレイ地区へ入り、しばらくすると左手に円形のきれいな湖が見えてきた。これもまたカルデラ湖にちがいない。湖とその向こうに見える海、突き出した半島のあたりが古代からの別荘地バコリになる。

このアヴェルノ湖からはかつて有毒ガスが噴き出し、鳥も飛ばない場所ということで、「冥界への入り口」であるとされていたそうな。

****現在は完全に遺跡になっているクーマの町とこの湖の間には小さいながらも山が間をふさぐ形になっている。古代の街道はそこを貫通させるために切り通しをつくった。現代でも車の通るこの「アルコ・フェリーチェ」がそれだ。

下の拡大地図にていちばん北にCUMA ACROPOLI。そこから右下のアヴェルノ湖へ行く途中の道にARCO FELICEが見つかるだろう。★ARCOの下にある点線にも注目、実は後述する紀元前一世紀に作られたトンネルを表している。

*****10:30クーマのアクロポリスへ到着。駐車場からあがっていく途中美しい砂浜が見えてきた。上の地図で、北のCUMAから南のプロチダ岬を見ている。その先のイスキア島はギリシャ人がクーマに町を築く前に住んだそうだ。その後、この場所に神殿を建て、その見下ろす場所に古代クマエの町をつくった。

クーマのアクロポリスへの道はかつての洞穴だったのだろう、今はだいぶ崩れてしまっている。この写真で人人が見下ろしている穴の下に実は紀元前一世につくられた下の町へのトンネル通路がある。これは丘の下にあるクーマの町までつながっている。

そのトンネルは下の町からさらに別のトンネルを経由(それが前掲の地図に出ていた点線)、アヴェルノ湖畔まで達している。下は現地の案内板の地図。GROTTA COCCEIO(グロッタ・コッケイオ)と書かれた黒い線がそれ。「あ、この名前、ポジリポの丘の下のトンネルを通した人と同じだ」

アヴェルノ湖はもう一つのルクリヌム湖を経由して海とつなげられ、軍艦の繋留基地にされていたので、クーマの住民は、有事の際このトンネルを通って海まで出ることが出来た。★前掲のカラー地図にはアヴェルノ湖からルクリヌム湖までも別のトンネルがあるように点線が書かれている。

****さて、コケイオスの洞窟は非公開なので、クーマ遺跡において現在実際に入れる場所でいちばん印象的な場所は巫女の神託所であったとされる洞穴であろう。この洞窟も初めの部分の屋根が崩れてしまっているが、それでも奥まで十メートル以上はある。

台形にきり通され、途中に明り取りの切込みが入れられている。どこかギリシャのミケーネ遺跡で見た墳墓につながる雰囲気を感じさせる。この洞穴の壁には薄れてしまったとはいえいろいろな模様が描かれており、1970年代にそのなかから「月のカレンダー」が発見されたのだそうだ。

******巫女の洞窟からさらにあがっていくと、二つの神殿跡がある。さらに古代の道をあがっていくと頂上にもうひとつひとつ、ゼウス神殿と呼ばれるものがある。実際、それぞれが何の神に捧げられていたのかはっきりしない。頂上にあるものを便宜的にゼウスの神殿だと呼んでいるにすぎない。ここは今、まさに、発掘が進められているところに遭遇した。「先週は男性のミイラが発見されたんですよ」とおしえてくれた。

*******11時半過ぎ、バコリの町へ到着。いかにもリゾートタウンという海辺の古い町である車を降りて細い急な坂道をのぼって、ある角の家に立ち止まる。と、勝手知ったるガイドさんは開いていた門から顔をつっこんで遠慮なく住人に声をかけた。これから見たいと思っている巨大な古代の貯水槽はここの家の人が鍵をもって管理しているのである。

「ちょっと入り口でまっててくれ」と言われて、さらに数十メートル坂をあがったところにある鉄格子の前で待つ。こんな住宅街の地下にどんなものが隠れているのだ? いや、扉が開いて数段階段を降りはじめたところで下の巨大な空間が見えてきてびっくり!

「ペッシーナ・ミラビーレ(見事な貯水槽)」と呼ばれている古代の水槽に、いまはもう水は溜まっていない。

25.5メートル×70メートル、深さ15メートル。地面をくりぬき、48本の柱で支えたこの巨大水槽には12600立方メートルの水を貯水できた。ローマ皇帝・アウグストスの時代に建設され、水道によってここまで水をもってきた。港に入ってくる船に給水する目的の水をここに溜めておいたのだと言われている。

近くにはもう少し小さな「百の部屋」と呼ばれる貯水槽があり、それは古代のヴィラへ水を供給するためのものだったと思われる。

*****次にポッツォーリの闘技場(アンフィテアトロ)を訪れた。ローマ帝国に数ある円形闘技場のなかでも屈指の大きさをほこっていたそうだ。 客席はあまりよく復元されていないが、地下のせり上がり仕掛けなどあった部分がよく残されており、そこへ実際に入っていける。

*****ポッツォーリで最後の訪問場所が冒頭の噴火口=ヴォルカノ・ソルファターラ。

見学を終えて13時半。簡単に昼食を食べてからナポリへ戻り15:35発の列車FRECCIA ROSSA(日本の新幹線なら「のぞみ」にあたるもの)に乗り、わずか一時間十分でローマ・テルミニ駅へ到着。

タクシーにて、パンテオンのすぐ裏に位置するホテルへチェックイン。

夕食はナボナ広場の裏手にある、以前行ったことのあるオステリアを訪ねた。店はだいぶきれいになっており、ちょっとおしゃれなトリュフを乗せた上にチーズものせたブルスケッタなどを出すようになっていた。

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