旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

モデナ

2017-11-23 09:48:41 | イタリア
ボローニャを出て、朝九時半過ぎにはモデナに着いた。ここは1598年にフェラーラを追われたエステ家がナポレオンによって吸収合併されるまでの二百年間本拠地にした街。
この「Palazzo die Musei美術館宮殿」も見所のひとつであるエステ家図書館が入っている↓

かなりおもしろそうなのだが・・・↓

今回は内部を見学する時間まではないのだけれど、ガイドさんは無料で入れる中庭に案内してくれた↓そこには、近年発掘された古代の遺物がごろごろ↓

ガイドさんが特に小松に見せようとしたのが、この頭のとれたライオンの石像だった↓

もうひとつ、ここにも↓

古代の墓に添えられていたライオンの彫刻を、何故見せようとしていたのかは、大聖堂へ連れて行ってもらってはじめて理解した↓
↓この二頭は、明らかにさっきの壊れた二頭と同じテイスト。つまり古代の墓から流用されたものだったのか↓

⇒※このあたりのはなし、こちらに書きました

★モデナ大聖堂はイタリアのロマネスクを代表する建築のひとつ↓
上のライオン二頭は正面中央入口の左右に置かれている↓古代の墓から転用していたものだったのか

ファサードに埋め込まれた、ヴィリジェルモ作の「創世記」彫刻↓
神様に怒られているアダムとイブは、表情こそ乏しいが「やっちゃいました・・・」という雰囲気出てますよね↓

このパネルは四枚掲げられているのだが、それがヴィリジェルモの時代とは違う場所になっているのだと、今回初めて教えてもらった↓
⇒※オリジナルのロマネスク時代の姿はこちらから

ヴィリジェルモが自らの名前を刻んだ石版↓


大聖堂横の入口に刻まれたこの彫刻はイソップの話からとられたというのだが、小松にはあてはまるものがおもいつかない↓

七百年以上前の作品をどこまで理解できるのか、と思ってしまう。

内部には、中世の教会によくつくられていた「ジュベ」と呼ばれる、内陣と身廊を仕切る回廊が残っている↓

かつて教会は内陣は聖職者しか立ち入ることも見ることも出来ない場所だった時代の名残だ。

この大聖堂へは三度目だったが、まだまだ新しい発見が出来そうな場所であります。
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大聖堂前の広場も世界遺産指定されているのだそうだが、その理由のひとつがこの赤い巨石↓

字の読めない人が多かった時代には、布告官が声に出して告げる場所だったとか、また、一般の人々がこの上で意見を述べる場所だったとか、言われている。赤い大理石はとても貴重で、これは古代にどこかの建物につかわれていたものの一部か?

後ろの市庁舎へも連れて行ってくださった↓古い部分と新しい部分が混在している↓

かつて宮殿だった雰囲気が濃い部屋↓古代の寓意画もたくさん

モデナ市の金色(黄色でよく代用される)に青十時の紋章↓

そして、この古ぼけたバケツが大事そうに飾ってあった↓これって何?↓

ガイドさんが説明してくれても、この場で小松はうまく説明できなかった。帰国後に調べて自分なりに納得した話、別に書きます。
モデナとボローニャの間に起きた「バケツ戦争」というのがあったのです。

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エステ家の宮殿だった建物が見えてくる↓

この宮殿は現在軍の学校になっている。広場にあるこの水のモニュメントは、かつてここが運河の港だったことを記憶するために設置された↓

モデナとボローニャやパルマ、周辺諸都市は、鉄道が開通するまで運河輸送がいちばん重要な交通手段だったのだ。

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昼食に予約してくださっていたレストランで、さっといただきます↓お皿に大聖堂のマーク
●ティジェッレはこの丸い焼いたもの↓豚の脂肪とパルメザンチーズにバルサミコをかけていただきます↓

ワインは今回も飲みやすいランブルスコの発砲を
メインコースにスカロッピーネ~子牛のモモ肉を薄く叩いたもの、モデナらしくバルサミコのソースで↓


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レストランのすぐ外には巨大なホールのような建物↓これはなんとシナゴーグだった↓

フェラーラを追われたエステ家と共に、三千人ものユダヤ人がモデナに移ってきた時に必要となったのだそうだ。
第二次大戦後半、ドイツに占領されたイタリアではユダヤ人コミュニティは壊滅させられ、現在では八十人ほどが残っているだけだという。

午後はパルマへ向かいます









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