「ヴェスヴィオ」は、ホール全体を一つの楽器にしてしまった。
1727年(日本は八代将軍吉宗の頃)につくられた小さな木の箱が、464席のホール全体を震わせるような迫力で音楽を奏でている↓
※演奏の写真や録音は固く禁じられましたのでスタート前の写真↓
「ヴェスヴィオ」は、専用のガードマンを伴ってホールに入ってきた。もうひとりのケースを下げてきた男性が演奏者かと思ったら、彼は案内役だった。
↑上の写真で、テーブルの上に置かれているのが「ヴェスヴィオ」。ガードマン氏が常に目を光らせて立っております
演奏者は最後に入ってきた若いモルドバ国籍の女性Aurelia Macoveiさんだった。曲目を簡単に告げると、いきなり弾きはじめた。
※彼女自身のFacebookページにあがっていた、このホールでの演奏が十秒だけ見つかった
↑ホールが鳴っている雰囲気が伝われば幸いです
今日の曲名を書きとめられるだけ書き留めた。
あとから調べてみたが、不明なままの部分もあるのを容赦ください。
①バッハ、
ウォームアップ?
②ヴィヴァルディ「四季」冬
一人で弾いているとは思えない超技巧と音量。
一人の演奏なのに室内楽団ぐらいの厚みを感じさせる。
この曲はこれまでもいろいろな教会コンサートなどでの演奏を聴いていたが、まったくレベルの違う切れ味の演奏。
③クライスラー
④メランコリー
⑤カプリース「24の奇想曲」より
パガニーニ作曲のヴァイオリン独奏曲。難易度がいっきに高くなっているのは素人でもわかる。
こんなにぶんぶん弾いて楽器が壊れないかなと思うほどの音量。
⑥ボレロ
お馴染みの曲を、ヴァイオリンのソロにアレンジしたのは誰だろう?
⑦アストゥリアス
アイザック・アルベニス「スペイン組曲」のピアノ曲をヴァイオリンで。
⑧ポル・ウナ・カベサ Por una cabeza(元の意味は競馬の「首の差で」)
1935年の映画に挿入されたタンゴ曲。
⑨レッド・ヴァイオリン
1998年の映画の音楽
あらためて曲目をならべてみると、年代順に選曲されていたのがわかる。
最後にRed Violinをもってきたのは、「ヴェスヴィオ」だったから?
※ヴェスヴィオについてはこちらに書きました
そして、バッハとヴィヴァルディを除くすべての曲が、「ヴェスヴィオ」がつくられてからずっと後に作曲されている。
モーツァルトの時代の楽器が、パガニーニのような超絶技巧の曲をものともせずに鳴らしているのは驚くべき事である。
「ヴァイオリンは未来を予見してつくられた、奇跡の楽器なのです」
ガイドさんのこの言葉の意味を、演奏は見事に裏付けていると感じた。
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464席のホールを我々六人で貸し切って、ミニコンサートをしていただいたのは、今回の旅いちばんの贅沢。
ホール自体がヴァイオリンの力を引き出していることにも言及しておかなくてはならない。
設計したのは、日本のサントリーホールを手がけたのと同じ日本の永田音響の豊田氏。
ヴァイオリン博物館の建物は、もともと1941年ムッソリーニ時代に建てられたもの↓
1947年から50年代には国立弦楽器製作学校であった。コンサートホールにと提供されたのは学校の体育館。
そこを見せられた豊田氏は、コンサートホールにするには天井の高さが足りないと確信した。
妥協しない彼の姿勢はついに博物館側に理解された。
地面を四メートル掘り下げるという方法で天井の高さが確保され、求められた音響が実現したのだ。
確かにヴァイオリン演奏者の立つアンフィテアトロ(「円形劇場」の意味)のステージまでには、入り口からだいぶ降りていかなくてはならない。
↓ヴァイオリンと同じ木でつくられたホール全体の構造も、実に楽器のようではないか↓
全九曲のミニコンサートのあと、専任の日本人博物館員の方に案内していただいた。
ここの見学は二回目だったが、前回とはまたちがった内容を知ることができた。
※前回の写真日記はこちらからごらんください
先ほど演奏されていた「ヴェスヴィオ」はもうケースの中にもどされている↓
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歴史的なヴァイオリンを数多く所有するここクレモナのヴァイオリン博物館だが、世界には弾かれずに骨董品化して朽ちていきかねない名品がたくさんある。
その所有者達も、楽器はテーブルウェアとは違うということを認識して、クレモナの博物館に管理をゆだねる人も多いらしい。
Friends of Stradivariとは、そんな楽器たちの展示↓
↓「ヘリアー」というバイオリンは、アントニオ本人からヘリアー氏にわたったことからその名前となっている
初期の製品に特長的なのが、こういったデザインなのだそうだ↓
このヴァイオリンはヘルバート・アクセロードのコレクションとなっていた。
調べてみるとヘルバート・アクセロードはロシアからアメリカに移民したユダヤ人一族の出身で
朝鮮戦争に従軍していた時に書いた熱帯魚類の本が評判となり
その後、その道のエキスパートとして巨万の富を築いていった。
個人的にヴァイオリンを弾いていて、
1975年48歳の時にはじめてのストラディヴァリを手に入れた。
いったい何台のストラディヴァリを所有していたのかわからない。
2003年にクレモナ市に寄贈したCLISBEEがあり、ワシントンDCのスミソニアンには名品四つが寄贈されて「アクセロード・カルテット」と呼ばれているようだ。
しかし、2004年に脱税で訴追されると、出廷せずにキューバに脱出。
ベルリンで逮捕され、18か月刑務所に入れられた。
その後はスイスで過ごしていたようで、
今年2017年の五月にスイスで亡くなっていた。
数々のストラディヴァリウスのストーリーを追っていくと、多くの富豪の生涯に出会う。
その全員が、(あたりまえだが)死を迎える。
その時、ヴァイオリンはお金とは別に、寄付されたり託されたりしている。
楽器の価値というのは、最終的にお金で測ることは出来ないと感じるのだろう。
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もうひとり。
富豪ではないが、ジョゼッペ・フィオリーニという人物の事を、今回の訪問で認識した。↓
アントニオ・ストラディヴァリの死後、残念なことに彼の技術を継承する人物に恵まれず、残された多くの製作器具は(さる事情から)売却されて使われることなく眠っていた。それを買い取ってクレモナ市に寄贈し、弦楽器製造学校の創立を依頼した人物。
ここまでストラディヴァウスを所有していた富豪の話ばかりきいていたので、
「彼もお金持ちだったんでしょうねぇ」と誰かが言うと
「いえいえ、彼はぜんぜんお金持ちじゃなかったんです。苦労してお金を集めて買い取ったんです。」
と、ガイドさんが説明された。
ジョゼッペ・フィオリーニはボローニャのヴァイオリン製作者で、ストラディヴァリの遺品の価値を認識し、使われず、研究もされずにあったその品々をなんとか生かしたいと思い、所有者の高額な提示金額を私費で調達した。
買い取った品々を自分の町ボローニャではなく、ストラディヴァリの故郷クレモナの町に託し、技術の復活を願って弦楽器製造学校の創立をクレモナ市に要請した。
彼は1934年に没したが、四年後ついにクレモナの地に弦楽器政策学校が設立された。1941年いわゆる「ファシスト様式」で建設された建物を、現在改築して博物館にしているのである。
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クレモナの地は、アントニオ・ストラディヴァリをはじめとするニコロ・アマティの弟子たちの技術を継承するヴァイオリン工房がたくさんある。職人年鑑に登録されているマイスターだけでも百人に以上になるのだそうだ。
世界中のヴァイオリニストが、自分の生涯の楽器を探そうとする時クレモナにやってくるのである。
日本人の弟子をかかえる工房を訪ねることができた↓
こちらのマイスター氏は、自身も演奏家だったことがあり、何度も日本を訪れている↓
工房には、自分の作業台を持つ日本人のお弟子さんがおられた。ヴァイオリン作りというのは一台を最初から最後まで一人の職人が行う。それによって、工房ではあるけれど個人の製作したヴァイオリンがつくられていく↓
ニスは何十回も塗り重ねられ、二階の一室で乾かされてる↓
楽器というのは美しいから良い音を出せるとは限らないが、良い音を奏でられるものは傷がある無しや高い安いに関係なく美しさを持っているきがする
この工房から将来の名器がうまれていくかもしれない。
どんな名器も、買い取ってくれる富豪ではなく、弾きこなしてくれる演奏者に出会わなければその価値は生かされない。
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この日の夕食、こちらからごらんください