旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ストラディヴァリ「ヴェスヴィオ」の演奏を聴く、ヴァイオリン工房を訪問する

2017-11-24 15:59:14 | イタリア

「ヴェスヴィオ」は、ホール全体を一つの楽器にしてしまった。
1727年(日本は八代将軍吉宗の頃)につくられた小さな木の箱が、464席のホール全体を震わせるような迫力で音楽を奏でている↓
※演奏の写真や録音は固く禁じられましたのでスタート前の写真↓

「ヴェスヴィオ」は、専用のガードマンを伴ってホールに入ってきた。もうひとりのケースを下げてきた男性が演奏者かと思ったら、彼は案内役だった。
↑上の写真で、テーブルの上に置かれているのが「ヴェスヴィオ」。ガードマン氏が常に目を光らせて立っております

演奏者は最後に入ってきた若いモルドバ国籍の女性Aurelia Macoveiさんだった。曲目を簡単に告げると、いきなり弾きはじめた。
※彼女自身のFacebookページにあがっていた、このホールでの演奏が十秒だけ見つかった
↑ホールが鳴っている雰囲気が伝われば幸いです

今日の曲名を書きとめられるだけ書き留めた。
あとから調べてみたが、不明なままの部分もあるのを容赦ください。
①バッハ、
ウォームアップ?
②ヴィヴァルディ「四季」冬
一人で弾いているとは思えない超技巧と音量。
一人の演奏なのに室内楽団ぐらいの厚みを感じさせる。
この曲はこれまでもいろいろな教会コンサートなどでの演奏を聴いていたが、まったくレベルの違う切れ味の演奏。
③クライスラー
④メランコリー
⑤カプリース「24の奇想曲」より 
パガニーニ作曲のヴァイオリン独奏曲。難易度がいっきに高くなっているのは素人でもわかる。
こんなにぶんぶん弾いて楽器が壊れないかなと思うほどの音量。
⑥ボレロ
お馴染みの曲を、ヴァイオリンのソロにアレンジしたのは誰だろう?
⑦アストゥリアス 
アイザック・アルベニス「スペイン組曲」のピアノ曲をヴァイオリンで。
⑧ポル・ウナ・カベサ Por una cabeza(元の意味は競馬の「首の差で」)
1935年の映画に挿入されたタンゴ曲。
⑨レッド・ヴァイオリン 
1998年の映画の音楽

あらためて曲目をならべてみると、年代順に選曲されていたのがわかる。
最後にRed Violinをもってきたのは、「ヴェスヴィオ」だったから?
※ヴェスヴィオについてはこちらに書きました

そして、バッハとヴィヴァルディを除くすべての曲が、「ヴェスヴィオ」がつくられてからずっと後に作曲されている。
モーツァルトの時代の楽器が、パガニーニのような超絶技巧の曲をものともせずに鳴らしているのは驚くべき事である。
「ヴァイオリンは未来を予見してつくられた、奇跡の楽器なのです」
ガイドさんのこの言葉の意味を、演奏は見事に裏付けていると感じた。
**
464席のホールを我々六人で貸し切って、ミニコンサートをしていただいたのは、今回の旅いちばんの贅沢。
ホール自体がヴァイオリンの力を引き出していることにも言及しておかなくてはならない。

設計したのは、日本のサントリーホールを手がけたのと同じ日本の永田音響の豊田氏。
ヴァイオリン博物館の建物は、もともと1941年ムッソリーニ時代に建てられたもの↓

1947年から50年代には国立弦楽器製作学校であった。コンサートホールにと提供されたのは学校の体育館。
そこを見せられた豊田氏は、コンサートホールにするには天井の高さが足りないと確信した。

妥協しない彼の姿勢はついに博物館側に理解された。
地面を四メートル掘り下げるという方法で天井の高さが確保され、求められた音響が実現したのだ。
確かにヴァイオリン演奏者の立つアンフィテアトロ(「円形劇場」の意味)のステージまでには、入り口からだいぶ降りていかなくてはならない。

↓ヴァイオリンと同じ木でつくられたホール全体の構造も、実に楽器のようではないか↓


全九曲のミニコンサートのあと、専任の日本人博物館員の方に案内していただいた。
ここの見学は二回目だったが、前回とはまたちがった内容を知ることができた。
※前回の写真日記はこちらからごらんください

先ほど演奏されていた「ヴェスヴィオ」はもうケースの中にもどされている↓

***
歴史的なヴァイオリンを数多く所有するここクレモナのヴァイオリン博物館だが、世界には弾かれずに骨董品化して朽ちていきかねない名品がたくさんある。
その所有者達も、楽器はテーブルウェアとは違うということを認識して、クレモナの博物館に管理をゆだねる人も多いらしい。
Friends of Stradivariとは、そんな楽器たちの展示↓


↓「ヘリアー」というバイオリンは、アントニオ本人からヘリアー氏にわたったことからその名前となっている
初期の製品に特長的なのが、こういったデザインなのだそうだ↓

このヴァイオリンはヘルバート・アクセロードのコレクションとなっていた。

調べてみるとヘルバート・アクセロードはロシアからアメリカに移民したユダヤ人一族の出身で
朝鮮戦争に従軍していた時に書いた熱帯魚類の本が評判となり
その後、その道のエキスパートとして巨万の富を築いていった。

個人的にヴァイオリンを弾いていて、
1975年48歳の時にはじめてのストラディヴァリを手に入れた。
いったい何台のストラディヴァリを所有していたのかわからない。
2003年にクレモナ市に寄贈したCLISBEEがあり、ワシントンDCのスミソニアンには名品四つが寄贈されて「アクセロード・カルテット」と呼ばれているようだ。

しかし、2004年に脱税で訴追されると、出廷せずにキューバに脱出。
ベルリンで逮捕され、18か月刑務所に入れられた。
その後はスイスで過ごしていたようで、
今年2017年の五月にスイスで亡くなっていた。

数々のストラディヴァリウスのストーリーを追っていくと、多くの富豪の生涯に出会う。
その全員が、(あたりまえだが)死を迎える。
その時、ヴァイオリンはお金とは別に、寄付されたり託されたりしている。
楽器の価値というのは、最終的にお金で測ることは出来ないと感じるのだろう。

*****
もうひとり。
富豪ではないが、ジョゼッペ・フィオリーニという人物の事を、今回の訪問で認識した。↓

アントニオ・ストラディヴァリの死後、残念なことに彼の技術を継承する人物に恵まれず、残された多くの製作器具は(さる事情から)売却されて使われることなく眠っていた。それを買い取ってクレモナ市に寄贈し、弦楽器製造学校の創立を依頼した人物。

ここまでストラディヴァウスを所有していた富豪の話ばかりきいていたので、
「彼もお金持ちだったんでしょうねぇ」と誰かが言うと
「いえいえ、彼はぜんぜんお金持ちじゃなかったんです。苦労してお金を集めて買い取ったんです。」
と、ガイドさんが説明された。

ジョゼッペ・フィオリーニはボローニャのヴァイオリン製作者で、ストラディヴァリの遺品の価値を認識し、使われず、研究もされずにあったその品々をなんとか生かしたいと思い、所有者の高額な提示金額を私費で調達した。
買い取った品々を自分の町ボローニャではなく、ストラディヴァリの故郷クレモナの町に託し、技術の復活を願って弦楽器製造学校の創立をクレモナ市に要請した。
彼は1934年に没したが、四年後ついにクレモナの地に弦楽器政策学校が設立された。1941年いわゆる「ファシスト様式」で建設された建物を、現在改築して博物館にしているのである。

******
クレモナの地は、アントニオ・ストラディヴァリをはじめとするニコロ・アマティの弟子たちの技術を継承するヴァイオリン工房がたくさんある。職人年鑑に登録されているマイスターだけでも百人に以上になるのだそうだ。
世界中のヴァイオリニストが、自分の生涯の楽器を探そうとする時クレモナにやってくるのである。

日本人の弟子をかかえる工房を訪ねることができた↓

こちらのマイスター氏は、自身も演奏家だったことがあり、何度も日本を訪れている↓

工房には、自分の作業台を持つ日本人のお弟子さんがおられた。ヴァイオリン作りというのは一台を最初から最後まで一人の職人が行う。それによって、工房ではあるけれど個人の製作したヴァイオリンがつくられていく↓


ニスは何十回も塗り重ねられ、二階の一室で乾かされてる↓


楽器というのは美しいから良い音を出せるとは限らないが、良い音を奏でられるものは傷がある無しや高い安いに関係なく美しさを持っているきがする
この工房から将来の名器がうまれていくかもしれない。
どんな名器も、買い取ってくれる富豪ではなく、弾きこなしてくれる演奏者に出会わなければその価値は生かされない。

*******
この日の夕食、こちらからごらんください
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クレモナ到着、大聖堂・洗礼堂を見学してトローネ祭りで試食

2017-11-24 12:13:16 | イタリア
朝、パルマ出発が09:45だったので、再び市街を散歩。こういう時間、大事ですね↓
⇒※こちらからごらんください

**
一時間ほどでクレモナへ到着。こちらでも大聖堂から近いホテルを選んでおいた。午前11時だったがホテルのご厚意でほとんどの部屋へチェックインすることができた。荷物を置いてすぐに大聖堂へ向かう。午前中の開いている時間に内部を見学しておきたい。

ホテルを出てすぐ、路地の向こうに見えた大聖堂のファサード↓

広場へ出て見上げるファサードと、横に聳える百メートルを超えるトラッツォと呼ばれる塔↓

人口が十七万そこそこの町でこれだけの大聖堂がある。パルマも、モデナも…イタリア小都市群の魅力、尽きません。
入り口のロマネスクのライオン像を見て、中へ入る↓

↓これを見て、驚かないわけにはいかない↓現在の装飾は16世紀のはじめに、12世紀の装飾を全面改装してこうなったもの。

↓こちらは1522年にイル・ポルデノーネ(本名はAntonio de'Sacchis 出身都市の名前で知られるようになったのはダ・ヴィンチと同じ)が、描いた、ファサード裏に描かれた短縮法のキリスト↓足が突き出しているみたいだ。

世はまさにルネサンス。
古臭い中世のフレスコ画など一掃しようと、クレモナ市は考えたのだろう。
その最初は1507年にボッカチオ・ボッカチーノがのアプス(主祭壇の後ろの部分)上部に描いた「聖母子とクレモナの四聖人」↓

現地のガイドブックを読んでいておもしろかったのは、ボッカチーノがこれを手がける前に、もうすこし小さい「受胎告知」を描いていたこと。これは、たぶんクレモナ市によるテストだったのではないだろうか。

大聖堂の地下には、ボッカチーノが描いた「クレモナの四人の聖人たち」が葬られている地下へ降りてゆくと、聖堂の心臓部に、まずは三人の聖人の遺体がガラスの棺の中によこたわっている↓床はローマ時代のモザイクを移してきたもの↓



※以下はクレモナ大聖堂のガイドブックより
前出の絵のいちばん左に描かれた●聖Himerius(南イタリアのカラブリア生まれ、ウンブリアのアメリアにあった遺骨を西暦965年にクレモナの司教Liutprandoがクレモナにもたらした)
左から二番目、法王の冠をかぶったのが●聖Marcellinus(西暦309年、マクセンティウス支配下のローマでごく短期間だけ法皇だった人物)
聖母子をはさんで向かって右の一人目●聖Omobonoオモボーノ(12世紀クレモナの服飾人。聖職者でなく一般人ではじめて聖人となった人物。この人はクレモナでは長く人気があったらしく、あのアントニオ・ストラディバリも息子のひとりをオモボーノと名付けております。 

もうひとりの守護聖人●悪魔祓いのピエトロの棺が向かいに置かれている↓

こういった石棺には生前の逸話が刻まれることが多い。じっと見ていると、女性の頭から逃げていく悪魔が描かれておりました↓


ロマネスク時代の名残は、今も大聖堂のところどころに見ることができる↓

バロックな絵画の後ろには、隠された中世の壁画もあるのだそうだ↓


***
洗礼堂は、大聖堂があたらしくなっても12世紀の基本構造を残している↓

内部は思ったよりひろびろしている↓中央に16世紀の洗礼盤↓

周囲にロマネスク時代の遺物が展示されている。これらは行き場をなくしてしまったのだ↓
これは、聖水盤?↓

もともと洗礼堂の頂上を飾っていたという天使↓

この石の馬は、古代からのものであるかのような印象をうけた↓いい顔してます↓


クレモナの税を軽減させた中世のボールゲームの主人公?↓

※これについてはまた書きます


旧大聖堂の礎石が置かれたのは1107年日本なら平安時代のおわり。年号を刻んだ石のレプリカが残されていた↓


****
大聖堂の入り口を飾る彫刻はロマネスク時代のものだというのが一目瞭然↓フランスのシャルトルを思い出させる。モデナのヴィリジェルモも思い出す。まだまだ興味は尽きない↓

彫刻もそうだが、建物全体が見飽きない↓




トラッツォもまだ登っていないし↓

またゆっくり訪れる機会がほしい↓


*****
広場の前に市庁舎↓




今回はトローネ祭りということで、たくさんお菓子屋さんがでております↓

⇒※こちらにもう少し書きました
つくっている方が手招きして↓


試食させてくれた↓「紙じゃないよ、そのまま食べて食べて」↓

ついつい買っちゃいました(^.^)


シチリアのお菓子カンノーロもあります(^.^)

******
ランチはごくかるくサンドイッチ。小さなお店のカウンターでいただきました↓

イタリアでは「トラメッツィーノ」と言った方が、日本人がイメージするサンドイッチがでてくる。




ホテルにもどって、ひと休み。
午後三時過ぎから、こんどはバイオリン工房とミニ・コンサートが待っている(^.^)







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パルマ、ピロタ宮殿内の博物館も見所

2017-11-24 09:08:48 | イタリア
午後三時過ぎに、パルマの旧市街ど真ん中のホテルにチェックインした荷物を置いて、すぐにガイドさんと共に歩きはじめる。
12世紀の大聖堂と洗礼堂が見えてくる。いつみてもわくわくさせられる八角形のピンク色洗礼堂だ↓

前回は鐘楼が修復中でカバーされて、どう写真にとっても様にならなかったが、今回は全体を見ることができた↓
※観光後にもう一度戻って撮影↓





入口上・ルネッタの彫刻、いいですねぇ↓

外側の彫刻は全部みえたのだが、
・・・代わりに、最近ちょっとした地震があったおかげで開館時間がみじかくなっていて、今回は内部に入れなかった…
⇒※前回内部に入った時の様子や、パルマ大聖堂のコレッジョの話は、前回こちらに書きました

説教台の下はもっと古い時代の石棺を再利用したものかもしれない↓

1178年に制作されたアンテラミの十字架降下↓


ローカルガイドさんによって、フォーカスするものは違う。それが面白い。今回のガイドさんは、大聖堂でコレッジョがクーポラに描いた聖母被昇天よりも、身廊部をうめつくすマッツォーラのだまし絵の方が気に入っているようだった↓これ、たしかにおもしろいです↓

↑上の写真、一番下の部分はファサード裏の壁なのだが、あたかもそこまで天井が続いているかのように遠近法を駆使して描いている
そのファサード裏の絵の一角に、カーテンをそっと開いてこちらを見ている男がいる↓

それが、マッツォーラその人だと推察されているのそうな↑

ガイドさんは聖歌隊席の背板にある、木製の切り絵細工にも注意を促した↓

たしかにすごい。これは?
「私の村の出身の人なのよ」
もちろん16世紀の、ですが(^.^)
***
夕暮れてきたが、大聖堂裏にあるヨハネ教会へも行こう↓

こちらのクーポラの方が小規模ながらコレッジョの良さが見やすい↓

出世作のヨハネの図⇒
****
真っ暗になって、ガイドの予定時間もぎりぎりになったが、ピロタ宮殿もちゃんと時間をかけて案内してくださった↓


ここにはファルネーゼ家とゴンザーガ家の集めたコレクションと共に、1618年のファルネーゼ劇場がある↓







裏側の構造も見られる↓


今回は劇場だけでなく、イタリアでも最古のひとつと言われる考古学博物館エリアも見ることができた↓この玄武岩の巨像!↓

⇒※こちらにもう少し載せました

絵画セクションの突き当りに、見覚えある大理石の全身像が…↓

ナポレオンに二度目の妃、ハプスブルグ家のマリー・ルイーズであります↓

さすがのカノーヴァ作↓

ローマのボルゲーゼ美術館にあるナポレオンの妹を彫ったものと比肩できるのではないかと思う
絵画の彼女もありました↓

パルマは、ナポレオンが失脚して離婚してから彼女に与えらて統治した町だから。遊ぶのは大好きだったので劇場を建設したり、文化事業にお金は使ったが、政治的な事には無関心で口出ししなかったから、パルマ市民の間では幸い人気があった(^.^)

★絵画館の最大の目玉は、パルメジャニーノの通称「トルコの女奴隷」と呼ばれている肖像画↓

これ、実物をじっくりゆっくり、我々だけで心ゆくまで見ることが出来て、絵画鑑賞の喜びを満喫した。印刷や、このコンピューターディスプレイではぜったいに伝わってこない表現力。無駄とおもいつつ、少し拡大したものを載せます↓

描かれているのは、奴隷ではなく高級娼婦であったという説をとりたい。
エキゾチックに着飾るというのは、どんな時代の女性でも楽しみとするところ。
そんな女性を絵に残そうというのは、どんな時代の男でも考えそうなことである。

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