旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

パヴィアからパヴィアの僧院を経てミラノへ

2017-11-25 20:42:40 | イタリア
大学の近くに中世イタリア王国・ロンゴバルド王国時代の教会遺構があるということで連れて行っていただいた。
地上にはなにもないのだが、地下に降りてゆく階段がある↓

ロマネスクアーチにシンプルなセミ型デザインがほどこわれた、ロンゴバルド時代の教会があらわれた↓

ROTAN王(636~652)の時代に、アリウス派の重要な教会として建設された教会は、カトリックに変更された時に聖エウセビオ教会になった。このかたちは11世紀ごろのものだろうと思われている↓

1923年に教会は廃寺となり地上の構造物は破壊され、地下は埋められてしまっていたようだ。

最近になってその価値が再認識されるようになり、こうして発掘・公開されるようになったということ。
↓教会外壁に沿って古い墓の跡が見える↓ここからは何か発見されたの乃があったのだろうか?それは、どこに収蔵されているのだろうか?まったく解説はない↓まだまだ分からないことだらけなのです

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近くの大学中庭↓パヴィアは1485年に開設された大学が今でも存続している↓


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古いアーチが続く旧市街を歩き↓

大聖堂のクーポラがみえてきた↓


15世紀末に建設がスタートした大聖堂はレンガ作りで、建設途中のような印象がぬぐえない↓
ギリシャ十字型プランは、かのレイオナルド・ダ・ヴィンチやブラマンテも設計にかかわったとされるが、クーポラもファサードも、19世紀になるまでたちあがらなかったのである↓

ファサードすぐ横には1989年に崩壊した塔の残存部分が見える↓

かつてはこんな塔が聳えていた↓

11世紀から16世紀にかけていくつもの段階で建設され72mの高さがあった塔は、1989年三月のある朝突然倒壊。四人が犠牲になった。
その記念碑↓

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ローマ時代からそうだっただろう真っ直ぐな通りをティチーノ川に向かってあるいていゆく。そろそろクリスマスの飾りつけがはじまっている↓


★コペルト橋はローマ時代にもこの場所にあったとされる橋の後を継いでいるものだ↓が、実は第二次大戦時に破壊された後に再建されたもの

※この橋の歴史を調べていくと、パヴィアという街について知ることにもなる⇒こちらに書きました

昼食は軽く。ピアディーナという、北イタリアではよく使われる生地のサンドイッチ、ちょうどよいです↓


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午後、世界遺産のパヴィアの僧院へ向かう。小雨と霧は変わらない。
●パヴィアの僧院は、ミラノの支配者ヴィスコンティ家のジャン・ガレアッツォが1396年に建設を命じた。日本では室町時代。金閣寺が建設される前の年と言えばわかりやすかもしれない。
霧の中に木立があらわれ、その奥に入口があった↓堀を渡って入る

門に描かれたメダルの中に書かれた「GRA」Gratiarum  「CAR」Chartusiae の文字↓

「祝福されしカルトジオ会」とでも訳しましょうか。
創立者ジャン・ガレアッツォの横顔↓ガイドさんに何度も言及していただいているうちに覚えました(^.^)↓

中庭に出ると、教会のファサードが豪華な装飾を見せる↓

二十年以上前、はじめて見た時には驚きしか感じなかったが、今日あらためて見るとそのバランスの悪さがどうしても気になる。これはぜったい完成していない。細かい装飾だけでなく、基本的な構造さえも設置されずに止まったのだと感じる↓

調べていただくと、当初の完成予定図がちゃんと残されていた↓なるほど、納得。

目の前に見えていることだけを追っていては、何も理解できはしないのだ。

★ファサードの浮彫彫刻は、オルビエート大聖堂のファサードのマイターニの浅浮彫を思いだした。
↓下の図はそのひとつ。ジャン・ガレアッツォが1396年8月27日僧院建設の最初の石を置く図↓

↓こちらはジャン・ガレアッツォが1402年に没した時の葬列図。彼の墓はこの修道院にある。


建物内部の多くのルネッサンス芸術はここでは触れない。

修道僧が暮らした中庭に出る↓

こちらは小さい方の庭。教会の尖塔が見上げられる↓


ここから修道僧達の個室がならぶさらに大きな庭に出ると…

実に広大な↓



それぞれの部屋にこもり、カルトジオ会の厳しい会則によって、耕し祈る暮らしを続けていたというのだが↓
こちらは一つの部屋の専用庭↓

ある意味とても贅沢な世捨て人生活だったのではないかしらん。

修道院は清貧な暮らしを目指す僧侶の暮す場所というよりも、世を捨てても裕福な実家が修道院に寄付しているのでもうとう粗末には扱われない人たちの隠棲場所、だったのかもしれない↓博物館に、かつてもっともっと広かった敷地の様子が描かれた絵があった↓

この博物館にはファサード彫刻のホンモノも一部移動されていた↓

それはそうだろう。繊細な彫刻作品を風雨にさらされるあの場所に置き続けるのは保存上あまりに問題。
修復を行ったタイミングでレプリカに置き換えるというのはあってよい。それはガイドブックや現場の解説版にもとりたてて書かれないがよく行われていることなのである。

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大聖堂から200mのホテルにチェックインして、1時間ほど休憩。

レストランの開く少し前に徒歩でサルデーニャ料理の店に向かった↓

ここ、以前にも紹介してもらって行った(^.^)また、来られて嬉しい↓
⇒「宝島」というお店での食事、こちらに載せました

レストランを出てホテルに戻る前に、大聖堂の夜景を観に行った↓やはり、最初にこの姿を見ると感激しますね↓

ガレリアのショッピングアーケードもクリスマスツゥリーが飾られている。トリノ市の紋章の上でお約束のぐるり回り↓


明日は、ミラノのグループツアーがあまり訪れない・それでも見ごたえのある場所を訪れます
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パヴィアのミカエル教会~中世イタリア王国の首都

2017-11-25 12:16:50 | イタリア
クレモナから、霧のパダーニャ平原を走ってパヴィアについた。このあたりはたくさんの川がながれていて、よく霧が出る。
パヴィアもイタリア最長のポー川とティチーノ川の合流地点近く位置している。旧市街に面しているのはティチーノ川↓

少し雨も降っているから、市庁舎前広場に到着してすぐカフェでひと息カウンターで売っていたイリーのコーヒー豆は、ここがいちばん安かったそうな↓

歩きはじめるとすぐにレンガ積みの高い塔が何本もそびえている↓

ボローニャがそうであったように、それぞれのファミリーが繁栄の証に・緊急時の避難所に、こういう塔を建てていた中世。14世紀の書物には「百塔の町」という、どこかできいたような形容をされていたほどの数の塔が立っていたのだそうだ。

パヴィアの旧市街の道が碁盤の目のように交差しているのは、それが古代ローマの都市の名残を今も留めているということ。

その一角に、いきなり中世イタリア王国時代のロマネスク聖堂が姿をあらわした↓これは、サン・ミカエル・マジョーレ教会の北側部分↓

※あとから教会の案内冊子で知った事。この門はもともと12世紀からのものだが後年の改修で閉じられていたものを、1860年から1875年修復によって再びロマネスクのオリジナルのスタイルでオープンさせたものだった。そう思って見直すと、この門の前の空き地はかなり不自然。門から細長い構造物が、現在空地になっている場所に建設されていたのではないだろうか?まったくの仮説ですが。

最初にこの場所に教会を建設したのは、西ローマ帝国滅亡後にいくつかの異民族支配のあとにやってきたロンゴバルド族の王ロタール(AD636-650)とされる。
パヴィアを首都にして、宮殿付きの礼拝堂がこの教会だった。
ロンゴバルド王国は774年にカール大帝によって滅ぼされたが、王国はそのまま「イタリア王国」としてフランク王国に継承されていった。
そして、12世紀1155年に皇帝バルバロッサの戴冠が行われたのが、特に有名である。
この時に現在見られるかたちのロマネスクに大きく改修された。「黄金色に輝く砂岩」を用いたとされている。

ファサードは、この後にほとんど改築されなかったので、12世紀の形がよく残されている↓

擦り切れてはいるが、ロマネスクの彫刻群もたくさん残されている↓

内部はさて、どこまでオリジナルのスタイルを留めているのだろうか?


↑シンプルなロマネスクのアーチ。だが、天井部分は他と比べて新しい印象。先ほど外部から見た時、上部だけがレンガ作りになっていた野を思い出す。19世紀のオリジナルへの改修前には屋根が落ちてしまっていた時期もあったのではないだろうか。

また、別の可能性も考えられる。多くの教会が後年バロック様式に大改修されていたのだが、この教会はどこまでそれをのがれていたのだろう。19世紀にそれまでの装飾をとりはらう復元がおこなわれて、12世紀の姿をとりもどした?のか

後陣上部のフレスコ画「聖母の戴冠」は1491年バルトロメオ・ネグリの注文によって画かれた↓
画中の左下でひざまずいている人物が彼である↓

↑この絵の下に、ロマネスク時代のフレスコ画が隠されている???かもしれません(^_^;)

上のフレスコ画の下、内陣の床にあるモザイク画↓これがかなりめずらしい↓

12世紀前半のものとされる。
1863年の教会改修時にこのようなかたちで見られるようになった。モザイクの上に何か構築物があったので、壊されるのを免れて残ったのだと思われる。

中世の教会では床に巨大な迷路が描かれていたというが、その実物が残されているケースは非常にすくない↓
フランスのシャルトル大聖堂の床の巨大な迷図は特別だとしても、床に描かれているオリジナルはほとんどが失われている。
↓迷路とは、「真実にたどり着くための長く困難な道」をあらわしているそうな↓

迷路の上の人物。中央には「年の王」すぐ左に花を持つ「四月」、その左に角笛を吹く「三月」、一番左は乳を撹拌する「二月」

↑「年の神」の右は、鎌を持つ「五月」と続く

「六月」と「七月」の拡大図↓


迷図の四隅にはペガサスも見える。

後から調べてみると、このモザイク画がどのようなものだったのか、ヴァチカンの図書館に絵が残されているのだそうだ。
それによると、中央にはギリシャ神話の「テセウス」と「ミノタウロス」が描かれていたのだとか。
ううむ、12世紀という時代にあっても、異教的主題が教会のど真ん中に堂々と描かれていたとは、鷹揚なイタリア的だと感じる↑

柱頭の彫刻で他では見られないのが「善人の死」↓横たわった死者の魂(子供の姿)を左から奪おうとする悪魔、その口にヤリを突き立てて守る大天使↓


身廊床の中央に、これは19世紀の修復の時に設置されたのだと思われるが、皇帝バルバロッサが戴冠した場所とされる位置にある円形の印↓

神聖ローマ皇帝がイタリア王として戴冠する場所に選ばれたといういことは、まさに中世イタリア王国の首都を代表する教会だったのだ。
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トランセプト(交差廊)右手には10世紀とされる木製の十字架を銀でカバーしたもの↓

「テオドーロのキリスト」という名前は、これがもともと「聖母マリアのテオドーロ教会」にあったものだから。17世紀にこの教会へ移された。伝承によると、エディッサのアブガル王のもとにあったとされる。アブガル王はキリストが奇跡で病を治すと伝え聞き、手紙を書いて自国へ呼び寄せようとしたとされる王。キリストに会った王の使者はキリストの肖像画を得たということになっている。

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地下にはさらに古い時代のクリプトがのこされている↓


↓ロンゴバルド時代8世紀ごろ?とおぼしき、より単純なロマネスク柱↓


まだまだ知るべきことがある教会だと感じるが、今日はここまで。次回には(いつ?)もう少し詳しい情報を得たいと思う。
再び外へ出て、ファサードの彫刻を見あげる↓


擦り切れているけれど、見る人がみればいろんな話があるのだろう…




↓この、ひげを引っ張られている人物、とっても気になります↓


パヴィアには他にもロマネスクの見るべき教会があるから、そのうちチャンスをつくらなくちゃ


ミカエル教会の見学がちょっと長くなった。
パヴィアの概観ももう少し見てから、「パヴィアの僧院」の方も見学することになっている。
こちらの方が世界遺産にもなっていて有名だ。

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