《手造の旅》山形。初日にお参りした大日坊の真如海上人は最高齢の九十七歳での入定。今日お会いした明海上人は最も若い四十四歳。若くして、永遠に人々を救う即身仏になると決意した人の人生とはどのようなものだったのだろう。
「盲目の明海上人が即身仏となる決意をしたのは、ずっと世話をしてくれていた父の死がきっかけだったのかもしれません。」
↑お堂のちかくにひっそり残る、文字もかすんでしまった丸い墓石が上人様の父のものだと、慈英さんがおしえてくださった。
**
明海上人は林の中にぽつんと残る小さなお堂におられる。
何故、お寺もなく小さなお堂なのか。日本唯一、子孫の方が護っておられるのか。
お堂近くにある上人の子孫の松本さんの両親がお住まいだった家で、松本さんと慈英さんにお会いした。
上人と同時代の友人が残した「明海上人の生涯」を記した手書きの本を開いて解説してくださった。
これらの書き物はお堂に「お蔵入り」していたもの。
ある時訪ねてきた慈英さんが読んで感銘を受け、上人の人生を調査するようになった。「大阿闍梨」の称号のある方だが、若くてきさくで、威圧感などまったく感じさせない。今日も遠路会津から我々のために来てくださった。
鈴木嘉左衛門という農家の長男春治は十三歳の時川で泳いでいて眼病を患った。一時は治癒したが天保七年(1836)の飢饉がきっかけで再発し翌年には盲目となってしまった。
父母と弟二人を自分のせいで極貧に落としてしまったのを悔いて仏門に入る、湯殿山で修業し「明海」の名を得た。祈祷師としての評価は高まり近在の人々に敬われるようになった。評判をきいて上杉家の瑞松院の病気平癒を祈祷する依頼がくる。出向かずに遠方からの祈祷にもかかわらず平癒を成就し、その評判はいや増してゆく。
逆に、他の寺社からは妬まれるようになり、身に危険が及ぶようなことも起きた。
寺社奉行が調停にはいり、身辺警護の為に上人の弟に十手が下された。
嘉永五年(1853)亀齡山明壽院を創建する許可を得た書状がきれいに残されていた↓
書状の宛先に明海上人の称号は「権僧正」となっている。
これは十一ある僧侶階級の上から三つ目にあたる高位のもの。
貧農出身の明海上人がそれだけの人脈と人望を得ていた証である。
三十九歳の時に母親が亡くなり、その後身の回りの世話をしていた父も文久三年(1863)に亡くなる。
明海上人が即身仏となる決意をしたのはその一か月後だったとされる。
お堂の近くに巨大な石碑があり「入定の場所」と伝わっているのだが
↑石碑の文字と年号をよく見てみると安政六年と書かれている。
表面の文字から、「権僧正」という位を得て亀齡山明壽院を改山する認可を得た記念とするのが正いのではないか、とのこと。
開山の許可も相応の位も得たものの、幕末、明治維新、廃仏毀釈で多くの寺が壊されていく状況では、「亀齡山明壽院」をひらくことは叶わなかった。だから、明海上人は小さなお堂の中でずっと厨子に納められたまま、上人の弟の血をひく親族が護ることとなったのだ。
松本家では一般の人々に見せることはせず、厨子の前に木造を置いて代わりにしていた。
親族でも子供には見せなかったそうである。
昭和五十七年に新潟大学の協力を得て本格的な調査・改修。
厨子があけられ、はずれかけていた関節を治すなどお身体を整え、ぼろぼろになっていた衣もあたらしくなった。
信仰厚かった先代が決断し、求める人にはお参りできるように公開されるようになった。
「ひろく衆生を救いたい」と願った上人の意志を知ってもらうべきではないかと思ったそうである。
現在見るようなお堂に拡張され、納められていた上人使用の品々も納められた。
「これは上人様が履いていた足袋です」と慈英さんが見せてくださる。
移動する時の駕籠や、弟の持っていた十手なども納められている。
新聞でお堂の改修の記事を読んで祈った方から「病が癒えました」という手紙が届いたり
遠くからお参りにやってきた人からその功徳があったと知らされたこともあった。
上人のお堂はいつも開けられてはいない。
しかし、自ら苦難の人生を歩み、「衆生を救いたい」と祈願して即身仏となられた上人の助力を得たいと願う人々には丁寧に対応してくださっている。
「盲目の明海上人が即身仏となる決意をしたのは、ずっと世話をしてくれていた父の死がきっかけだったのかもしれません。」
↑お堂のちかくにひっそり残る、文字もかすんでしまった丸い墓石が上人様の父のものだと、慈英さんがおしえてくださった。
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明海上人は林の中にぽつんと残る小さなお堂におられる。
何故、お寺もなく小さなお堂なのか。日本唯一、子孫の方が護っておられるのか。
お堂近くにある上人の子孫の松本さんの両親がお住まいだった家で、松本さんと慈英さんにお会いした。
上人と同時代の友人が残した「明海上人の生涯」を記した手書きの本を開いて解説してくださった。
これらの書き物はお堂に「お蔵入り」していたもの。
ある時訪ねてきた慈英さんが読んで感銘を受け、上人の人生を調査するようになった。「大阿闍梨」の称号のある方だが、若くてきさくで、威圧感などまったく感じさせない。今日も遠路会津から我々のために来てくださった。
鈴木嘉左衛門という農家の長男春治は十三歳の時川で泳いでいて眼病を患った。一時は治癒したが天保七年(1836)の飢饉がきっかけで再発し翌年には盲目となってしまった。
父母と弟二人を自分のせいで極貧に落としてしまったのを悔いて仏門に入る、湯殿山で修業し「明海」の名を得た。祈祷師としての評価は高まり近在の人々に敬われるようになった。評判をきいて上杉家の瑞松院の病気平癒を祈祷する依頼がくる。出向かずに遠方からの祈祷にもかかわらず平癒を成就し、その評判はいや増してゆく。
逆に、他の寺社からは妬まれるようになり、身に危険が及ぶようなことも起きた。
寺社奉行が調停にはいり、身辺警護の為に上人の弟に十手が下された。
嘉永五年(1853)亀齡山明壽院を創建する許可を得た書状がきれいに残されていた↓
書状の宛先に明海上人の称号は「権僧正」となっている。
これは十一ある僧侶階級の上から三つ目にあたる高位のもの。
貧農出身の明海上人がそれだけの人脈と人望を得ていた証である。
三十九歳の時に母親が亡くなり、その後身の回りの世話をしていた父も文久三年(1863)に亡くなる。
明海上人が即身仏となる決意をしたのはその一か月後だったとされる。
お堂の近くに巨大な石碑があり「入定の場所」と伝わっているのだが
↑石碑の文字と年号をよく見てみると安政六年と書かれている。
表面の文字から、「権僧正」という位を得て亀齡山明壽院を改山する認可を得た記念とするのが正いのではないか、とのこと。
開山の許可も相応の位も得たものの、幕末、明治維新、廃仏毀釈で多くの寺が壊されていく状況では、「亀齡山明壽院」をひらくことは叶わなかった。だから、明海上人は小さなお堂の中でずっと厨子に納められたまま、上人の弟の血をひく親族が護ることとなったのだ。
松本家では一般の人々に見せることはせず、厨子の前に木造を置いて代わりにしていた。
親族でも子供には見せなかったそうである。
昭和五十七年に新潟大学の協力を得て本格的な調査・改修。
厨子があけられ、はずれかけていた関節を治すなどお身体を整え、ぼろぼろになっていた衣もあたらしくなった。
信仰厚かった先代が決断し、求める人にはお参りできるように公開されるようになった。
「ひろく衆生を救いたい」と願った上人の意志を知ってもらうべきではないかと思ったそうである。
現在見るようなお堂に拡張され、納められていた上人使用の品々も納められた。
「これは上人様が履いていた足袋です」と慈英さんが見せてくださる。
移動する時の駕籠や、弟の持っていた十手なども納められている。
新聞でお堂の改修の記事を読んで祈った方から「病が癒えました」という手紙が届いたり
遠くからお参りにやってきた人からその功徳があったと知らされたこともあった。
上人のお堂はいつも開けられてはいない。
しかし、自ら苦難の人生を歩み、「衆生を救いたい」と祈願して即身仏となられた上人の助力を得たいと願う人々には丁寧に対応してくださっている。