旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

亀齡山明壽院明海上人

2020-06-27 17:30:06 | 国内
《手造の旅》山形。初日にお参りした大日坊の真如海上人は最高齢の九十七歳での入定。今日お会いした明海上人は最も若い四十四歳。若くして、永遠に人々を救う即身仏になると決意した人の人生とはどのようなものだったのだろう。


「盲目の明海上人が即身仏となる決意をしたのは、ずっと世話をしてくれていた父の死がきっかけだったのかもしれません。」

↑お堂のちかくにひっそり残る、文字もかすんでしまった丸い墓石が上人様の父のものだと、慈英さんがおしえてくださった。
**
明海上人は林の中にぽつんと残る小さなお堂におられる。

何故、お寺もなく小さなお堂なのか。日本唯一、子孫の方が護っておられるのか。

お堂近くにある上人の子孫の松本さんの両親がお住まいだった家で、松本さんと慈英さんにお会いした。
上人と同時代の友人が残した「明海上人の生涯」を記した手書きの本を開いて解説してくださった。
これらの書き物はお堂に「お蔵入り」していたもの。
ある時訪ねてきた慈英さんが読んで感銘を受け、上人の人生を調査するようになった。「大阿闍梨」の称号のある方だが、若くてきさくで、威圧感などまったく感じさせない。今日も遠路会津から我々のために来てくださった。

鈴木嘉左衛門という農家の長男春治は十三歳の時川で泳いでいて眼病を患った。一時は治癒したが天保七年(1836)の飢饉がきっかけで再発し翌年には盲目となってしまった。
父母と弟二人を自分のせいで極貧に落としてしまったのを悔いて仏門に入る、湯殿山で修業し「明海」の名を得た。祈祷師としての評価は高まり近在の人々に敬われるようになった。評判をきいて上杉家の瑞松院の病気平癒を祈祷する依頼がくる。出向かずに遠方からの祈祷にもかかわらず平癒を成就し、その評判はいや増してゆく。
逆に、他の寺社からは妬まれるようになり、身に危険が及ぶようなことも起きた。
寺社奉行が調停にはいり、身辺警護の為に上人の弟に十手が下された。

嘉永五年(1853)亀齡山明壽院を創建する許可を得た書状がきれいに残されていた↓

書状の宛先に明海上人の称号は「権僧正」となっている。
これは十一ある僧侶階級の上から三つ目にあたる高位のもの。
貧農出身の明海上人がそれだけの人脈と人望を得ていた証である。

三十九歳の時に母親が亡くなり、その後身の回りの世話をしていた父も文久三年(1863)に亡くなる。
明海上人が即身仏となる決意をしたのはその一か月後だったとされる。


お堂の近くに巨大な石碑があり「入定の場所」と伝わっているのだが

↑石碑の文字と年号をよく見てみると安政六年と書かれている。

表面の文字から、「権僧正」という位を得て亀齡山明壽院を改山する認可を得た記念とするのが正いのではないか、とのこと。

開山の許可も相応の位も得たものの、幕末、明治維新、廃仏毀釈で多くの寺が壊されていく状況では、「亀齡山明壽院」をひらくことは叶わなかった。だから、明海上人は小さなお堂の中でずっと厨子に納められたまま、上人の弟の血をひく親族が護ることとなったのだ。
松本家では一般の人々に見せることはせず、厨子の前に木造を置いて代わりにしていた。
親族でも子供には見せなかったそうである。

昭和五十七年に新潟大学の協力を得て本格的な調査・改修。
厨子があけられ、はずれかけていた関節を治すなどお身体を整え、ぼろぼろになっていた衣もあたらしくなった。
信仰厚かった先代が決断し、求める人にはお参りできるように公開されるようになった。
「ひろく衆生を救いたい」と願った上人の意志を知ってもらうべきではないかと思ったそうである。
現在見るようなお堂に拡張され、納められていた上人使用の品々も納められた。
「これは上人様が履いていた足袋です」と慈英さんが見せてくださる。
移動する時の駕籠や、弟の持っていた十手なども納められている。

新聞でお堂の改修の記事を読んで祈った方から「病が癒えました」という手紙が届いたり
遠くからお参りにやってきた人からその功徳があったと知らされたこともあった。

上人のお堂はいつも開けられてはいない。
しかし、自ら苦難の人生を歩み、「衆生を救いたい」と祈願して即身仏となられた上人の助力を得たいと願う人々には丁寧に対応してくださっている。


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寒河江の慈恩寺、小野川温泉泊

2020-06-27 17:27:02 | 国内
庄内平野から米沢へ向かう途中、少し時間がありそうだった。
「途中でどこか見どころありますか?」とドライバーのマキさんに訊ねると、

「寒河江に雰囲気のある三重の塔がありますよ」と即答。
おお、これはなかなか。
江戸時代初期、1606年に山形城主最上義光が最初に建立。

鎌倉時代の大日如来を本尊としていたが、1823年に焼失。
現在のものは1830年の再建。七年で再建できたのだから十分財力があった。

この塔を境内にもつ寺は、かつて山の半分をうめるような一大寺院勢力だったようである。

見えてきた山がそれ↓

ここに三か院四十八坊がたちならんでいた。
※現在は十七坊

山門も重要文化財。1738年建造で、上階に奉納舞のための舞台があるのが特徴。

仁王像は鎌倉時代からのもの。

寺の起源は奈良時代にさかのぼるとされる東北屈指の名刹。

茅葺の屋根を保存している本堂

数々の秘仏があるのだけれど、今回はゆっくり見られませんでした。
宿題がまた増えました。
***
米沢についてすぐに「紅花音羽屋」を訪れる

この時の話はこちらに書きました
****
明海上人への訪問記はまた別に書きます。
※米沢下見の時のブログをこちらから

今晩の泊まりは小野川温泉


米沢牛、おいしうございました。
夜の散歩でほたるも楽しめました(^.^)






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紅花「音羽屋」

2020-06-27 11:05:51 | 国内
《手造の旅》山形二日目
紅花の葉にこんなに刺があることなどしらなかった。
夏になって咲く花を摘むのだが、楽に摘ませてはくれない。

慣れた人で一時間に一キログラム程度なのだそうだ。
6月27日、月山の近くから米沢に移動してまず、紅花の畑に連れて行っていただいた。


米沢の紅花は江戸時代18世紀中ごろに盛んに栽培されていた。

音羽屋さんは一時壊滅していた紅花を、偶然みつかった種から復活させて、商品化するところまで手掛けておられる。
★紅花音羽屋さんのホームページ、是非ごらんください!

訪れた時にはまだ咲いていなかった花が、五日後の七月一日にぽつんと一輪咲いたと知らせてくださった

「同じ時期に同じように蒔いて育てたのに、なぜか一輪だけが半夏にぽつんと先駆けるのです」とのこと

今度は咲いている花も見てみたい(^.^)

紅花はまず「紅餅」をつくってそれを染料にしてゆく。これひとつに三千枚の花弁が必要になる。

摘んだものを弱酸性で洗って、まさに餅のように杵でつき、それを発酵させたもの。
名前の通りの紅色だが、これを使って染め上る布は黄色。あとでご紹介します。

では、「紅花」の紅はどうやって生まれ出るのだろう?
「この『うばい』が決めてなのです」
と、黒い球をみせてくださった↓

これは烏梅(うばい)=梅を炭化させたもの。昔からの漢方薬だがそれだけではない。
※こちらのページに詳しく解説してありました
紅花の色素のうちの99%は黄色で1%だけが紅色。
貴重な紅色の色素を取り出すためにこの烏梅がどうしても必要になる。
こちらでは手に入れるために山奥の作り手さんのところまで訪ねていかれたそうな。
都の高貴な人々に珍重される美しい紅。


紅ではなく黄色に染められた米沢織

品よく、使いやすい品々です(^.^)
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ここで「紅花御膳」の昼食も用意していただいた↓

ホンモノの朱塗りの器。
紅花おひたし、菜の花のてんぷら、ふき…

もう一膳あとから登場!左のお茶漬けは特に秀逸

みなさんに歓待していただき、米沢の地がぐぐっと身近に感じられます(^.^)

ひとつ、裏話。
奥様方が饒舌に説明してくださっている後ろでやさしく微笑んでおられる痩身の男性が気になった。
料理に紅に布に化粧品と女性たちが主役のおもてなし。
だが、裏には東京に生まれ育って奥様の故郷米沢に移り住んだご主人の支えがある。
最上川に近い紅花畑を日々手入れをし、暑い夏には朝四時から収穫に精を出しす。

木の間に渡したこのハンモックは、合間に休憩するために設置されたのだそうだ。
一家で仲よくささえあってつくりだされる音羽屋の品々。
安価ではないけれどその価値はゆっくりひろがってゆくにちがいない。

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月山筍を食べて、翌早朝「つたや」から湯殿山へ参る

2020-06-27 07:46:34 | 国内
月山筍をいろいろなかたちで調理してくださった

ゆたかな香りところっと柔らかい食感が繊細。
この時期限定で、収穫がとてもたいへんな食材ときいた。
※こちらのリンクに説明がありました注:「つたや」さんと関係ある店ではありません

「あの雪渓の方までのぼってとるんですよ」
この宿ではオーナー自ら採りにいかれる。




他の山菜類も多彩で日本的味わい。
秋のキノコもぜひ味わってみたいものだ(^.^)

鮎は洋風に。でも、頭からぜんぶ食べられた。
日本酒だけでなく、山形産のワインもこだわって選んでおられる。

味噌汁にもちゃんとはいっております(^.^)

このシャルドネ、とっても軽くて山菜料理をじゃましません。
おかみさんの手作りプリンで〆るまで、たっぷり多様な山の幸を味あわせていただきました(^.^)

雨模様の日にはよけいに楽しく感じられるロビー

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翌朝、05:50、現役の山伏でもあるオーナーさんの運転する車で道路が開く前の湯殿山に朝参り。

この先は「見るなかれ、語るなかれ」の場所。

古代から、人々がどのように湯殿山に対してきたのかを感じさせてくれる、特別な参拝になります。




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