県をまたいでの移動自粛が解除。時折霧雨の降る日光を訪れた。
日光というと東照宮ばかりが有名だが、今日は三代家光の墓所である「大猷院(たいゆういん)」をじっくり。
「日光」は、もともとあった二荒山(ふたらさん)を音読みして漢字をあてた地名。
八世紀からすでに修験道の場であったので古刹もたくさんあるが、家康の廟がおかれてからの繁栄が今に引き継がれている。
祖父家康を厚く祀った徳川三代将軍家光。家光自身の廟への境内。
ひとつめの門をくぐった広い参道突きあたりにみごとな水場。
四隅の柱は八角と四角を組み合わせている。
天井にはかすれているが龍。
引きこむ水の出口に聖堂の龍と不動明王?
これらは鍋島藩の献上だと解説されていた。
ここから階段をあがり仁王門。
手前に青銅の燈籠。
1651年、家光が没した翌年に設置されている。
苔むした石垣を左に見てのぼると展望所
十万石以下の大名は階段の下までの参内だったのだそうだ。
↑★上の写真で左に少し見える屋根は家光の小納戸役(生活全般の世話をやく・いわば秘書室長のような役どころ。時には月代を剃ったりもする。)だった梶定良が主君の没後、なんと四十八年を暮らした場所。
家光より八歳年下で、少年時代からもっとも身近に家光を見てきた人物。
※今回の訪問でこの「梶さま」(地元に貢献して、そう呼ばれていた)のことを知ったのが収穫だった。
別に書きます。
展望所を過ぎると、次の「夜叉門」がみえてくる。
くぐってすぐ右を振り返る
ここで番をする四体の夜叉のひとりが「烏摩勒伽(うまろきゃ)」
手に持っている矢が凶事を破る「破魔矢」~この神様の像は日本でほぼこれだけなのだそうだ。
膝当てがゾウのカタチをしていて、これが「膝小僧」の語源になっていたゾウ。
へぇ~!知りませんでしたぁ~
ここをすぎるといよいよ本殿。狩野派の獅子などが画きこまれた金ぴかの室内は撮影禁止。
今年は家光の木造が十年ぶりのご開帳をしている。
この豪華な建物は拝殿。
では、家光が埋葬された廟はどこにあるのか?
すぐそとにある竜宮城の様な小門をあがっていったところにあるのだそうだ↓
ここは立ち入り禁止。
忠臣梶定良も家光の墓所のすぐ近くに葬られているのだそうだ。
日光というと東照宮ばかりが有名だが、今日は三代家光の墓所である「大猷院(たいゆういん)」をじっくり。
「日光」は、もともとあった二荒山(ふたらさん)を音読みして漢字をあてた地名。
八世紀からすでに修験道の場であったので古刹もたくさんあるが、家康の廟がおかれてからの繁栄が今に引き継がれている。
祖父家康を厚く祀った徳川三代将軍家光。家光自身の廟への境内。
ひとつめの門をくぐった広い参道突きあたりにみごとな水場。
四隅の柱は八角と四角を組み合わせている。
天井にはかすれているが龍。
引きこむ水の出口に聖堂の龍と不動明王?
これらは鍋島藩の献上だと解説されていた。
ここから階段をあがり仁王門。
手前に青銅の燈籠。
1651年、家光が没した翌年に設置されている。
苔むした石垣を左に見てのぼると展望所
十万石以下の大名は階段の下までの参内だったのだそうだ。
↑★上の写真で左に少し見える屋根は家光の小納戸役(生活全般の世話をやく・いわば秘書室長のような役どころ。時には月代を剃ったりもする。)だった梶定良が主君の没後、なんと四十八年を暮らした場所。
家光より八歳年下で、少年時代からもっとも身近に家光を見てきた人物。
※今回の訪問でこの「梶さま」(地元に貢献して、そう呼ばれていた)のことを知ったのが収穫だった。
別に書きます。
展望所を過ぎると、次の「夜叉門」がみえてくる。
くぐってすぐ右を振り返る
ここで番をする四体の夜叉のひとりが「烏摩勒伽(うまろきゃ)」
手に持っている矢が凶事を破る「破魔矢」~この神様の像は日本でほぼこれだけなのだそうだ。
膝当てがゾウのカタチをしていて、これが「膝小僧」の語源になっていたゾウ。
へぇ~!知りませんでしたぁ~
ここをすぎるといよいよ本殿。狩野派の獅子などが画きこまれた金ぴかの室内は撮影禁止。
今年は家光の木造が十年ぶりのご開帳をしている。
この豪華な建物は拝殿。
では、家光が埋葬された廟はどこにあるのか?
すぐそとにある竜宮城の様な小門をあがっていったところにあるのだそうだ↓
ここは立ち入り禁止。
忠臣梶定良も家光の墓所のすぐ近くに葬られているのだそうだ。