旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

奥琵琶湖長浜~大円寺、観音像、前田俊蔵

2020-09-01 10:44:54 | 国内
国内《手造の旅》で、滋賀北東部・長浜をとりあげたいと思っている。
高月駅近く、★大円寺の十一面千手観音像

室町時代の木彫。
賤ヶ岳の戦い(1583)の折、戦禍を避けるため地中に埋められて難を逃れた。

10:25に高月駅に到着、ちかくの大円寺をまず訪れる

巨大な杉が斜めに立っているのが目に入る

もとは二本あって「おしどり杉」だったのが、近年折れてしまった。

↑上の絵馬は、お堂の屋根の上に現れた観音様が参拝者を迎えている図。
↑二本の巨木が描かれている。
つまり、大円寺がずっと同じ場所で存在していることがわかる。
これはあたりまえのことではない。
戦国時代に戦禍や明治の廃仏毀釈において、廃絶・移転された寺は多い。
特に湖北地方はもともと比叡山の鬼門にあたるため立派な天台宗の寺が数多く存在したのだが、信長が叡山を焼き打ちしたのと同じころに破壊され、江戸時代以降には浄土真宗や曹洞宗の寺が主流となっている。


堂内に入ると、正面は幕があるだけだった。
お話がはじめると冒頭のお姿が見えた。
「写真、撮ってもろてかまいませんよ。このお像、きれいにするのに洗ろてしもたら色も落ちて学者センセにいわせると価値なくなってしもたんやそうですよ」と苦笑される。
それでも、信仰の対象としての意味はまったく変わらないし、こうして対して伝わってくる「何か」がかくじつにある。



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本堂の片隅に位牌がある「前田俊蔵」という人物について、世話人の方が言及されて驚いた。

境内にある供養碑より、事件の概要は以下のようになる。
「明治十六年夏、百日以上日照りが続き田畑は亀の甲羅のようにひび割れた。
八月四日、高月の三か村は緊急用のセキを切って水を流したが水は届かなかった。
高月の背後の山の頂上にある、夏でも枯れない夜叉が池に祈祷に行こうという話になったが、池を領有する美濃の国池田郡川上村の夜叉龍神社の神主某は「神の御怒りに触れては畏れ多い」と言って、登山をゆるさなかった。
俊蔵らは秘密裏に決意して山道をよじ登り池に到達し、三日間龍神に祈り続けた。
祈祷を終えて越前方面へ降り、村への帰路につくと雨がふりはじめた。
雨乞い祈祷は成功した。
八月十五日、衣服をあらためた前田俊蔵は、ひとり野神塚(この地方では巨木を「野神様」と呼ぶ)の上で覚悟の切腹をした。
すでに世は明治。誰も介錯をする者はなく、苦しみもがく俊蔵。
通報をうけて警官がやってきた時はまだ息があった。
事情を訊ねても舌が喉を塞いでしまって声が出ない。
身体からあふれ出る血を指に漬けて傍らにあった桐の葉になにやら血書したが字が乱れて読めない。
矢立を出したところ事情を記した。
「先日、雨を祈った時、『もし雨を恵まれたならば私の命をささげます』と誓った。約束を果たしたまでだ」
書き終えるとにっこりわらって(ママ)息絶えた。享年二十六歳。
父は仁右衛門、母は竹内氏の人である。
きわめて良い生まれをもち、清く正しい心を失わず父母には孝をした。」
※明治十七年(翌年)六月に立てられた碑文より


位牌の下に「自刃の刀」と書かれた箱が見える↑

明治十六年といえば、琵琶湖の南では疏水工事が進行しはじめている。
科学技術もじゅうぶんいきわたっていた時代の筈だが、人々の心理というのは簡単には変わらないのか。
信仰心というのは科学技術が進歩してもなくなったりはしない。
人々の暮らしがどんなに便利になっても、祈りたくなる物事は起こる。

百五十年近くを経ても、前田俊蔵の行為をきけば胸をうたれるのである。


コメント
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