ルーブル美術館のニケ像を思いだした。
※図録の写真より
長浜を訪れたら見ておくべきお姿である。
下はルーブル美術館の大階段にあるニケ(勝利の女神、英語風に発音するとナイキ)像
紀元前二世紀古代ギリシャにつくられたとされるこの像
時代も場所もちがうけれど、渡岸寺の十一面観音の前進姿勢・まとわる衣の表現に同じものを感じる。
**
渡岸寺の像は平安時代前期9世紀ごろにつくられたとされる。
最澄が天台宗をひらいたタイミングでひろまった仏像製作のひとつかもしれない。
比叡山の鬼門=北東に位置する長浜には天台宗の立派な寺がたくさんあった。
当時どのように祀られていたのかまったくわかっていないが、16世紀後半↑姉川の合戦の折に「ここに埋めて戦禍を逃れた」という解説版があった。
信長に憎まれた天台宗から浄土真宗に宗旨替えして「向源寺」となったが、(浄土宗系ではみとめられていない)観音像を祀るため「渡岸寺・観音堂」でもあるというややこしい形態ではある。
かつては本堂の阿弥陀如来の隣に置かれていたが、平成六年に専用の新しいお堂=展示スペースが開設された。
二メートル近い巨像だが周囲三百六十度どこから見ても隙がないことを感じられる場所だ。
特に、頭の真後ろにあるこの「暴悪大笑面」
「悪を笑い飛ばす」豪快な観音様の裏の顏と対面できる。
国宝指定の十一面観音は全国に七つあるが、
これだけ独創的な表情を大胆に見せているものは他にない。
現代の目からさえ斬新だということは、同時代の人々には「やりすぎ」に見えた?
だから「同じようにつくろう」と思った仏師はそれほどいなかった?
または真後ろにあるのでこれを見ることができた人は少なかった?
目立たない真後ろだから仏師も好きなように彫った?
様々な想像をめぐらせてしまう。
同じ堂内に(※「堂」というより博物館的な空間になっている)、
厨子に入った四十センチほどの「御前立」も公開されている。
こちらは八月に東京上野の「観音ハウス」にお出ましになっていた。
同じお像なのに上野で見た時より少し小さく見える。
お厨子に納められているからかしらん。
他に誰もいないので「小さいけれどこちらも端正できれいですねぇ」と、係員の方とお話していると、帰り際に東京上野で展示されていた時のポストカードをもって追いかけてきてくださった。御前立の方をしっかり見る人は案外少ないのかもしれない。
小松としてはその隣に置かれていた半分朽ちたゾウの像もずいぶんおもしろかった。
京都・東寺にあるイケメンの帝釈天が乗っている白象と似ていた。
※2019年5月の東京での展覧会で撮影
渡岸寺のゾウも残っていたらこんなお姿だったのかもしれない。
*
寺を出てすぐのところにあった巨木に目が留まった。
この地方では「野神様」と呼ばれる巨木が十本以上もあって、この「槻の木=ケヤキ」もそのひとつ。8月16日には囃子も入った盛大な祭りが行われるそうな。
こういったケヤキが多いのでこの地は「高槻」と書かれていたが、11世紀平安後期に大江匡房(おおえのまさふさ)が名月の里だと和歌に詠んだことで「高月」と現在の名前に変えられたのだと解説版に書かれていた。
**
次に訪れた●安念寺の「いも観音」は、国宝の十一面観音とはまったくちがうお姿をしている。
山の際に位置する無住の寺。堂守をしている方に連絡しておいたので開けてお待ちいただいている。
この先の階段をのぼってゆくと
左の先の方が「いも観音」の納められているお堂。
由来は守っておられる皆さんがつくられた紙をそのまま読んでいただくのがよいだろう。
伽藍の跡は森にのみこまれてしまったのか
※小松が訪れた時の話をこちらに書いています
★お堂修復のためのクライドファンディングをしておられます!
小松も微力ながら協力させていただきました(^.^)
すぐとなりの神社が覆いをかけられている
内部に祠
何百年かの想いが宿っているという意味において、渡岸寺の国宝「十一面観音」も安念寺の「いも観音」も同じである。旅人として訪れる我々に必要なのは、その想いを伝えてくださる人にお会いすることだ。
※図録の写真より
長浜を訪れたら見ておくべきお姿である。
下はルーブル美術館の大階段にあるニケ(勝利の女神、英語風に発音するとナイキ)像
紀元前二世紀古代ギリシャにつくられたとされるこの像
時代も場所もちがうけれど、渡岸寺の十一面観音の前進姿勢・まとわる衣の表現に同じものを感じる。
**
渡岸寺の像は平安時代前期9世紀ごろにつくられたとされる。
最澄が天台宗をひらいたタイミングでひろまった仏像製作のひとつかもしれない。
比叡山の鬼門=北東に位置する長浜には天台宗の立派な寺がたくさんあった。
当時どのように祀られていたのかまったくわかっていないが、16世紀後半↑姉川の合戦の折に「ここに埋めて戦禍を逃れた」という解説版があった。
信長に憎まれた天台宗から浄土真宗に宗旨替えして「向源寺」となったが、(浄土宗系ではみとめられていない)観音像を祀るため「渡岸寺・観音堂」でもあるというややこしい形態ではある。
かつては本堂の阿弥陀如来の隣に置かれていたが、平成六年に専用の新しいお堂=展示スペースが開設された。
二メートル近い巨像だが周囲三百六十度どこから見ても隙がないことを感じられる場所だ。
特に、頭の真後ろにあるこの「暴悪大笑面」
「悪を笑い飛ばす」豪快な観音様の裏の顏と対面できる。
国宝指定の十一面観音は全国に七つあるが、
これだけ独創的な表情を大胆に見せているものは他にない。
現代の目からさえ斬新だということは、同時代の人々には「やりすぎ」に見えた?
だから「同じようにつくろう」と思った仏師はそれほどいなかった?
または真後ろにあるのでこれを見ることができた人は少なかった?
目立たない真後ろだから仏師も好きなように彫った?
様々な想像をめぐらせてしまう。
同じ堂内に(※「堂」というより博物館的な空間になっている)、
厨子に入った四十センチほどの「御前立」も公開されている。
こちらは八月に東京上野の「観音ハウス」にお出ましになっていた。
同じお像なのに上野で見た時より少し小さく見える。
お厨子に納められているからかしらん。
他に誰もいないので「小さいけれどこちらも端正できれいですねぇ」と、係員の方とお話していると、帰り際に東京上野で展示されていた時のポストカードをもって追いかけてきてくださった。御前立の方をしっかり見る人は案外少ないのかもしれない。
小松としてはその隣に置かれていた半分朽ちたゾウの像もずいぶんおもしろかった。
京都・東寺にあるイケメンの帝釈天が乗っている白象と似ていた。
※2019年5月の東京での展覧会で撮影
渡岸寺のゾウも残っていたらこんなお姿だったのかもしれない。
*
寺を出てすぐのところにあった巨木に目が留まった。
この地方では「野神様」と呼ばれる巨木が十本以上もあって、この「槻の木=ケヤキ」もそのひとつ。8月16日には囃子も入った盛大な祭りが行われるそうな。
こういったケヤキが多いのでこの地は「高槻」と書かれていたが、11世紀平安後期に大江匡房(おおえのまさふさ)が名月の里だと和歌に詠んだことで「高月」と現在の名前に変えられたのだと解説版に書かれていた。
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次に訪れた●安念寺の「いも観音」は、国宝の十一面観音とはまったくちがうお姿をしている。
山の際に位置する無住の寺。堂守をしている方に連絡しておいたので開けてお待ちいただいている。
この先の階段をのぼってゆくと
左の先の方が「いも観音」の納められているお堂。
由来は守っておられる皆さんがつくられた紙をそのまま読んでいただくのがよいだろう。
伽藍の跡は森にのみこまれてしまったのか
※小松が訪れた時の話をこちらに書いています
★お堂修復のためのクライドファンディングをしておられます!
小松も微力ながら協力させていただきました(^.^)
すぐとなりの神社が覆いをかけられている
内部に祠
何百年かの想いが宿っているという意味において、渡岸寺の国宝「十一面観音」も安念寺の「いも観音」も同じである。旅人として訪れる我々に必要なのは、その想いを伝えてくださる人にお会いすることだ。