下調べで地図を眺めている時に、湖沿い南北に細い緑の尾根があるのが気になった↓尾根の中ほど湖側に、今回とりあげた「西野水道」の小さな表記があるのが確認できる↓この地形を認識しないとこの話ははじまらない。
江戸時代、この山のせいでふもとの西野村には水が溜まって水害に苦しんでいた。
「ならば、山を打ち抜く穴を掘り水を抜けばよい」充満寺の僧、恵荘が発案した。
↑この山の向こうにびわ湖がある。
手掘りで二百メートルを超える水抜き穴をあけようと発案したのだ。
驚きのアイデアだが、周辺住民を説得し彦根藩に許可をとりつけた。
※上の写真で見えている穴は百年後の昭和二十五年に開通した二本目の水道。江戸時代の一本目は土手をはさんだ右手奥にある。
恵荘は天保十一年(1840年)能登から三人の石工を呼び、琵琶湖側から掘りはじめた。
三ヶ月かけて十八メートル掘り進んだが、岩盤が固くてギブアップ!
どうする?
一年弱のブランクの後、恵荘は諦めず三十九メートルまで掘り進む。
1841年12月には逆の東側(今見えている側)から掘りはじめ、
1842年2月には二十メートルに至る。
一日に六センチしか進まない状況についに能登の石工は帰郷。
1842年7月、伊勢から三名の石工が到着。
水が出たり崩落したりの難事は続くが1845年6月3日午後二時ごろ、水道が貫通!
↑上の穴がその入口。
※農林水産省のHPにもこの話の概略が載せられています
高さ二メートル弱、全長二百二十メートルの水路がほとんどそのまま残されている。
この水抜き穴は機能しはじめ、その後百年のあいだ西野村を水害から救った。
今も内部はほぼ当時のまま
灯りはまったくない。途中には灯火を置いたサザエの貝殻や、崩落事故の跡もあるそうだ。
双方向から掘り進んだ穴が連結された場所は少し曲がっている。
無事につながってよかった。
予約すれば長靴やヘルメットを用意しておいてくださる。
今日は下見なので隣の昭和の隧道を歩いて(こちらは向こうからの光がじゅうぶん届いている)、琵琶湖側に出た。
先人の切実な願いが実現させた西野水道、来年春の《手造の旅》でぜひ紹介したい場所です(^.^)
*
さらに、この細長い山の上には三世紀ごろからの百基を超える数の古墳がのこされている。
日本海側は、古代の大陸からの人・モノ・文化の入口だった。
琵琶湖を航行する船からいくつもの古墳が見えていた筈である。
江戸時代、この山のせいでふもとの西野村には水が溜まって水害に苦しんでいた。
「ならば、山を打ち抜く穴を掘り水を抜けばよい」充満寺の僧、恵荘が発案した。
↑この山の向こうにびわ湖がある。
手掘りで二百メートルを超える水抜き穴をあけようと発案したのだ。
驚きのアイデアだが、周辺住民を説得し彦根藩に許可をとりつけた。
※上の写真で見えている穴は百年後の昭和二十五年に開通した二本目の水道。江戸時代の一本目は土手をはさんだ右手奥にある。
恵荘は天保十一年(1840年)能登から三人の石工を呼び、琵琶湖側から掘りはじめた。
三ヶ月かけて十八メートル掘り進んだが、岩盤が固くてギブアップ!
どうする?
一年弱のブランクの後、恵荘は諦めず三十九メートルまで掘り進む。
1841年12月には逆の東側(今見えている側)から掘りはじめ、
1842年2月には二十メートルに至る。
一日に六センチしか進まない状況についに能登の石工は帰郷。
1842年7月、伊勢から三名の石工が到着。
水が出たり崩落したりの難事は続くが1845年6月3日午後二時ごろ、水道が貫通!
↑上の穴がその入口。
※農林水産省のHPにもこの話の概略が載せられています
高さ二メートル弱、全長二百二十メートルの水路がほとんどそのまま残されている。
この水抜き穴は機能しはじめ、その後百年のあいだ西野村を水害から救った。
今も内部はほぼ当時のまま
灯りはまったくない。途中には灯火を置いたサザエの貝殻や、崩落事故の跡もあるそうだ。
双方向から掘り進んだ穴が連結された場所は少し曲がっている。
無事につながってよかった。
予約すれば長靴やヘルメットを用意しておいてくださる。
今日は下見なので隣の昭和の隧道を歩いて(こちらは向こうからの光がじゅうぶん届いている)、琵琶湖側に出た。
先人の切実な願いが実現させた西野水道、来年春の《手造の旅》でぜひ紹介したい場所です(^.^)
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さらに、この細長い山の上には三世紀ごろからの百基を超える数の古墳がのこされている。
日本海側は、古代の大陸からの人・モノ・文化の入口だった。
琵琶湖を航行する船からいくつもの古墳が見えていた筈である。