旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

《手造の旅》五島列島~堂島教会前でお弁当、海上タクシーで中通島へ、マルゲリータ泊

2020-11-12 18:52:01 | 国内
十一月半ばとは思えないピクニック日和

五島列島に到着して最初の食事は堂島教会前の海辺にした

ここは1873年(明治6年)に禁教の高札が撤去された後、五島で初めてのクリスマスミサが行われた浜である。

長崎空港から福江つばき空港までプロペラ機
飛び立つとすぐに大村湾にうかぶ長崎空港。

機内で配られるCA手作りマップを楽しみにしていた。

裏表一枚だけれど、下手なガイドブックより気持ちが入って一読に値する。
今回は島ヴァージョンで対馬(右ページ)を大きくとりあげてあった。
左上にこれから訪れる堂崎教会、三日目に宿泊するカンパーナホテルが描かれている。

二十五分のフライトで福江つばき空港に到着

ターミナルまで歩く。
荷物をとってバスに乗り、福江島の北東部・その名も奥浦というところにある堂崎教会へ向かう。

まがりくねった海岸線。丸く見えるのはマグロの養殖。
近畿大学が手掛ける卵からの完全養殖システムは五島列島を主に活動しているので、各所で同様の施設にであった。
五年前に「年間四千匹の出荷を目指す」としていた。

バスが止まる場所から二百メートルほど歩く。
駐車場に教会のカタチをしたトイレがあるのだが↓

「この建物は前は『塔』があったんですよ」と言われた。
調べてみると・・・たしかに※こちらに写真を載せました


受付で料金を支払う。
「ちょっと海岸でお弁当たべさせてもらうよぉ」
と、ひと声かけてから、冒頭の写真の場所へ。

風もなく穏やかな日差し。
初日のランチをこんなふうに楽しめてほんとうによかった。

明治初期にやってきた神父はこの地で孤児院を運営した。

場所は移動したが今も引き継がれているのだそうだ。
このあたりの話は別の機会にもう少し調べてみたい。
※堂崎教会については2017年に訪れた時のブログもご覧ください
**

福江に戻る途中、ノアの方舟を模したという浦頭教会が見える。ここは今も修道院があるのだそうだ。
***
福江城(=石田城)の一角にある五島家第三十代当主が隠居するために造らせた「心字が池」と邸宅を訪れた

驚くべき巨木のある庭と時代も洋の東西も超えたデザイン感覚の邸宅、こちらからごらんください。
※庭 ※邸宅
****
16時半に海上タクシーを予約している。

福江から中通島の奈良尾港まで五十分ほどのクルーズ。

奈良尾から今晩泊まる小串のマルゲリータまで四十五分ほど。

18時過ぎにマルゲリータ到着。

シチリアの修道院をイメージしたという二十九室だけのホテル

明日朝、このロビーからの光景にみなさんきっとびっくりされるだろう。

夕食、今晩は洋食で。

サツマイモのスープ。
フォカッチャにハムにチーズ 

ヒオウギ貝が美しい。右上のレモンとトマトのマリネ、また食べたい(^.^)

焼き貝のペペロンチーノ

五島牛の赤ワイン煮込み

ドルチェはレモングラスの風味

大きなホテルではないが、良く選択された本が並んだこの空間が魅力。
※2017年の6月にはじめて訪れた時のマルゲリータをこちらからごらんください
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《手造の旅》五島列島~五島家の「心字ヶ池庭園」の邸宅

2020-11-12 11:23:14 | 国内
時代や洋の東西を超えた「趣味の良い」空間である。

↑殿様を引退した第三十代五島家当主・五島盛成(ごとうもりあきら)の部屋は、槍が振るえるように天井が高くしてある。



流行に左右されないというのは、幾何学的に心地よい空間。

イタリアのルネサンスと同じ精神が、気負うことなく体現されていた。

梅の花の裏と表をデザイン化している。
※天井の穴は通気口だとの解説

玄関先にあるこの板を三度叩くと、

障子がひらいてお迎えくださった。

すぐに屏風が目に入る。

京都から島流しでやってきた僧・全正の辞世の句

京都でやんちゃをやってこの地に流されてきたが悔しい身の上だがそれでも十分楽しい人生だった、と読めた。
心ならずも流されてきたけれど、地方だったからこそ才能を発揮できる庭園をのこせたのかもしれない。
※庭園についてはこちらに書きました

玄関を入ってすぐ左の部屋上部には「武者隠し」がある。
しかし、どうやってあがっのかしらん?


室内から見る庭園

五島盛成は亀が大好きでいろいろなところに亀が登場する。

この庭園自体も二匹の亀が出会ったカタチ。

釘隠し、こちらは江戸時代のオリジナルそのまま

↑こちらは復元品

欄間に遊ぶ亀たち。

障子の桟は七五三。

↑江戸末期にすでに流行っていた「氷割れ雪華(ひわれせっか)」の文様。

同時代イギリスのウィリアム・モリスの壁紙にも劣らない(個人的にはこちらの方が好き)。

この屋敷にはまだまだ見所がある。
次回訪れる時にはもっと時間をとって再訪しよう。
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《手造の旅》五島列島~五島家の「心字ヶ池庭園」へ

2020-11-12 04:21:10 | 国内
樹齢八百四十年を超えると推察される大楠が庭園を睥睨している。

五島家がまだ宇久家と称していた時代からこの地に育っていた木ということになる。

当時、この福江城(石田城)はまだなく、ご領主は数百メートル内陸の・今も「六角井戸」が残るあたりの屋敷に住んでいた。
幕末、外国船が頻繁にやってくる時代に日本国の南の備えとして築城された最後の城。

見事な石垣がほぼ完全な形でのこっている。

内堀の上

もともと天守のあった場所には

なんと高校が建てられている。

通常は跳ね橋になっているのが城だが、石のアーチ橋がかけられているのが時代の産物と言えるだろう。
十四年もかけて完成させたけれど、九年で幕末となり、第三十代藩主は城に隣接した館に隠居することになった。

そこがこの「心字ヶ池庭園」のある屋敷なのだ。
作庭したのは京都から島流しでこの島にやってきた僧・全正。

罪人なれどその才をみこまれ↑この石の上から二年間にわたり庭づくりを指導していたと伝わる。
そうか、全正が冒頭の大楠をこの庭の主役に据えたのか。

人の寿命からみれば「永遠」と呼べる年月を生き抜いてきた巨木。
庭園という人の技はほんのひと時巨木に寄り添わせていただいているだけ、ではある。


庭には三つの井戸があり、海が近いが真水をくみ上げることができた。
用途によって井戸が決まっていた。

野面積みの石垣は波に洗われた丸い石が積み上げられている。藩内外から力自慢が集まり、土つかずで浜辺から運んだのだそうだ。

この異国風な灯篭は、秀吉の朝鮮出兵の際の戦利品。
※オリジナルは一番下の台座の部分であとは復元と解説された
小西行長に従って朝鮮に渡り現地で戦死した第二十代五島家の当主が入手したと伝わっている。

この庭を楽しむことを目的に配置されたように建てられた館。

庭園の方にせり出してつくられている。

しかし、庭園を楽しむ装置というだけでなく、現代デザインの視点からも一見に値する空間になっている。

世が世ならお殿様であらせられる第三十五代五島家当主の方にご案内いただいた。

・・・屋敷内部のページに続く

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