世界遺産の教会がある無人島=野崎島にある通称「サバンナ」の風景
二回目に訪れた時、ここで百年前のコインを見つけたっけ
※こちらに詳しく書きました
※2018年の訪問記はこちらから
※2017年の訪問記はこちらから
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夜明け、中通島のホテル・マルゲリータから三日月を見上げた
六時半に少し明るくなったダイニングで朝食
朝食後のロビーには朝の光があふれていた。
八時に出発、四十分ほど北へ走ると津和崎港に着く
ここからチャーター船で渡るのが野崎島へ行くいちばん早い方法。
「好洋丸」のNさんとは同級生だと言うホテルのスタッフが送ってくれた。
この集落の子供はNさんのところだけ。タクシーで学校まで通っているそうな。
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十分ほどで野崎島の南の端にある舟森集落の跡がみえてくる。
段々に耕された跡が山の上まで続いている。
ここは最盛期には百七十人ほどが暮らし、教会も学校もあった。
★舟森集落の起源
1850年ごろ、小値賀の漁師が大村で異様にぼろぼろな三人の男を見つけた。
訊ねると「わしらは切支丹で明日には処刑される」と答えた。
不憫に思った漁師は彼らを船の網に隠して出航しようとした。
不自然な時間に出航する船を見咎めた役人がやってきて船内探索。
槍で網を突いたのではらはらしたが、幸い無事だった。
漁師は三人を野崎島の南端に降ろした。
「ここなら水もあるから生きていけるだろう」
その後も宗教を越えて三人を援助し、舟森は集落になっていった。
これは伝説ではなく書き残された史実とされている。
仏教徒とキリスト教徒は対立していただけではなく、むしろ共存していたと理解した。
野崎島南南北6㎞ほど。
中央部がくびれた形をしているので「野首」と呼ばれ、そこにも切支丹の集落があった。
海上から見えてきた教会はその住民たちが食べるモノも食べずに節約した金で建設を依頼した。
1908年に二十九歳の鉄川与助によって完成。昭和四十六年(1971)に住民がいなくなった時から何度もの取り壊し危機をのりこえ、現代に継がれて、世界遺産指定されている。
近くに上陸するのは、今は出来ない。
野崎集落に上陸。あとであそこまで歩こう。
まずはビジターセンターで解説。
2001に一人を残して無人となった野崎集落を歩いてみよう。水場は共用だった。
最後まで留まっていた神主一家の家。
↑武家屋敷の家を移築したものらしく、殿様専用の広い入口が中央にある。普通の出入りは左にちょっと見えている通常の玄関をつかった。
↑ここに移築されてから付け加えられたのが遥拝殿↑
※冒頭2017年に訪問した時のリンクにて内部を見た時の写真があります
野崎島には古代から神域とされた「王位石(おえいし)」がある。
沖ノ神島神社として704年に創建され、遣唐使船が海上から航海の安全を祈っていたとされる。
神域を守るため、ここの神官は最後まで島に残っていたのである。
村から坂をのぼると開けた「サバンナ」に出る
ここでは塚原さんが(※2017年訪問時にガイドをしてくださいました。冒頭リンク参照)、鹿を飼ってビジネスにしようとした。金網はその時の夢の跡だ(^.^)
この高台には室町時代あたりから何百年も邸宅があったのではと推察されている。
大陸との交流が禁じられた江戸時代には衰退し、貧しい田舎の藩領になっていた。
貧しい藩をなんとかしようと、切支丹であることを知りながら開拓団を誘致して野首の集落がつくられた。
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丘を越えて野首集落まで歩こう。
見えてきたのは学校の教員宿舎だった建物。
南北6㎞の小さな島だが最盛期には三つの集落に七百人が住み、南端の舟森と北に近い野崎に二つの小学校があった。やがて人口が減り統合されて野首に新しい学校が建設された。それが現在は自然塾となっている建物。小学校としては昭和六十年に閉校となっている。
砂浜も見えるすぐ近く、斜面の林の中からこちらを見ている鹿ちゃんが↓けっこうたくさん出会う。
海上から遠望した野首教会が見えてきた。
これは三代目になる建物で、最初の教会は別の場所の民家、二代目はこの場所に木造で建てられていた。
今日は自然塾には行かず、直接集落と教会を目指す。
ちょっと高台だけれど、みなさんがんばって登りました!
1908年に建設された姿がよく留められている。
昭和六十二年には巨大台風で半壊したが取り壊されなくてよかった。
だが、昨年の台風十九号で屋根瓦がはがれている。
小値賀アイランド・ツーリズムの方によるとやっと先週からまた中に入れるようになったのだそうな。
ふたたび、野崎集落まで歩いて戻る。
野崎集落の港に面した社も、以前の台風の夜にすごい音がして屋根が落ちたと、たった一人住民登録している管理人の方に伺ったことがある↓
↑人が住まなくなって二十年で集落はこんなになってしまった。
ふたたび好海丸さんに迎えにきてもらった。
小値賀島へ渡ろう。