旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ジブラルタル~THE ROCKの上から

2016-03-16 11:46:09 | イギリス

晴れた! ケーブルカーで登るとTHE ROCKの象徴的なカタチが楽しめた



**朝、七時。ホテル八階のダイニングから見晴らす街は黒い雲の下だった


21㎞先のアフリカのアトラス山が見える。雨が降っているのかも、朝陽に照らされたタンカーも見える。


屋上プールのまわりも濡れていたから、夜にはけっこう降っていたようである


**午前九時少し前にガイドさんと観光スタート。わずか1.6㎢の狭い半島だが見どころは詰まっている。


この写真、100t大砲のお尻がうつっているのです⇒


岩肌をくりぬいた道がたくさんつくられている この道はもともと線路のためのもの。街を建設する石を運んでいたのだそうだ。


19世紀以降THE ROCKの中は岩の中を要塞化。 地下の道の方が30マイル超と穴だらけになり、地上の道24マイルより長い。みえない地空間の方が多くなっているのだそうだ。


トンネルを抜けると斜面からどうどうと水が流れ落ちている⇒これは自然のモノではなく、海水浄化装置を使った後の排水。つまり、とても塩辛いはず。この装置が出来た1994年以前、水にはとても苦労していたジブラルタル。雨水をためたものではとても足りず、各国から輸入していた。


先端の「ヨーロッパ・ポイント」に到着↓



モスクはサウジアラビアの国王が資金を出して建設されたもの。意外な気がするが、ジブラルタルには二千人のモロッコ系住民・イスラム教徒も平和に共存している。こんなに目立たないが、彼らの日常の為のモスクも市内にある。


海抜426mの頂上部分を拡大してみると⇒砲台が設置されている。


半島の東側へ抜けるトンネルは、イギリス軍基地のすぐ横をぬけてゆくこのトンネルと並行して市内からVIP緊急避難用の直線トンネルが敷設されているのだそうだ。


東側の斜面は1990年代まで水を溜めるための装置だった すぐ近くにカタラン湾と小さな村


**晴れて日も射してきたからケーブルカーで上まで登ろう。ここはヨーロッパで唯一野生のサルがいる場所。「ポリ袋や食べ物に反応するので気を付けて。何か盗られても責任は負いかねます」 ゴンドラが動き出すと、THE ROCKとスペイン領にはさまれた街が見えてきた 



↑すごい埋め立てが行われて、マンション群がにょきにょき建っている。小松がはじめてやってきた二十年近く前とくらべても、明らかにひろくなって、景気も良いジブラルタル。失業率は一パーセント。つまり、働きたくない人以外はほぼ仕事につけるという状況。失業率二割以上のスペインとは別世界だ。


頂上に到着 また、サル注意の看板



THE ROCKの向こうにジブラルタル空港の滑走路が見える。

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空路ジブラルタル到着・泊

2016-03-15 16:06:18 | イギリス

ヨーロッパ最南端にあるイギリス領ジブラルタル。ここへ空路で入るにはほぼイギリスから飛ぶしかない。一日四便しかない飛行機到着のうち三便までがイギリスから出ているから。※例外はモロッコのタンジールから一便。 

ロンドン・ヒースローからは12:40発の一日一便だけ 実質飛行時間は約二時間半。満席である。

フランスのブルターニュ半島を横切り、ビスケー湾上空を通り、北スペイン・バスク地方にさしかかると、雪山が見えてきた。

ジブラルタル空港へ降りる時、窓からTHE ROCKが見たいと思っていたのだが・・・小松が座った右側からでは見えなかった。

それでもしかし・・・機外に出て、おもわず「おお~!」と声をあげさせる、巨大な岩山THE ROCKである↓

 

ターミナルに入っても、とにかくTHE ROCKの存在感はすごい

入国はのんびりしているここからジブラルタルへ入ってくる日本人はほとんどいないのだろう、係官は小松に向かって「SEA MAN?(船乗りか?)」と訊いてきた。 いや、船乗りには見えないと思うんだけど・・・。

 

ターミナルの外へ出てミニバスに荷物を積む。そして、有名な滑走路の遮断機へ向かう。

ジブラルタル飛行場の滑走路は、スペイン側とTHE ROCKの間を分断するように敷かれている。なので、飛行機の離発着の際には遮断機が下りて、飛行機が横切るのである。このゲートがそこ⇒ 

 

いよいよTHE ROCKのふもとに出来たジブラルタルの街に入る 地中海と大西洋を区切るたった14㎞の海峡を見張る戦略拠点でありつづけているので、19世紀ごろまで普通一般人の住むの街ではなった。 現在みられる城壁のほとんどは1713年にイギリス領になってから建設されていったもの城壁の中には市民ではなく兵士が駐屯する特殊な街だったのである。イスラム支配時代からと思われる古い城塞も見える。 普通の街に変わってきたのは、平和が定着してきた20世紀に入ってからのことではないだろうか。

この観光用のロープウェイも1966年にスイスの技術によって建設されたもの明日も晴れていたら登ってみたいなぁ。

**城壁内のホテルにチェックインし、街歩きへでかける。南の門のすぐ外に★「トラファルガー墓地」があるこれは1805年にトラファルガー沖で行われたフランス・ナポレオンの艦隊をやぶった歴史的な海戦を指す。 ネルソン提督の乗った旗艦ヴィクトリー号でさえ57人が死亡した激戦で、多くは水葬された。埋葬されている遺体は実は二体だけだそうな。

トラファルガー海戦では、イギリス海軍の伝説の提督=ネルソンも狙撃されて亡くなった。彼の遺体は水葬されずコニャック入りの樽に詰められてジブラルタルへ寄港した。ここでブランデーで満たした特注の棺桶に入れ替えられ鉛で密閉し、故国イギリスへむかったのだった。片目片腕の提督の像がある⇒

 ネルソンの乗ったヴィクトリー号は自力で航行することが出来ないほど破損していてネプチューン号に曳航されていた。

★現役の戦艦ヴィクトリー号のあるポーツマス(イギリス)の写真日記⇒こちらからごらんください

****細長い旧市街を中心部へ歩いてゆく

●ザ・コンベントは、その名の通り元は1531に建設された修道院だった。現在は総督府となっている。

ここにはグレイ・レディと呼ばれる幽霊が出ると噂されている。 伝説⇒父の意に沿わぬ男と結婚しようとしたスペイン貴族の娘が、尼僧としてこの修道院に幽閉されていた。 ある夜、修道士に化けた男が彼女を連れ出し、港から船に乗ろうとしたが捕まってしまった。不始末を隠すために、彼女はこの館のどこかの部屋に生きたまま埋め込まれたという。

となりには16世紀からの礼拝堂がある⇒

★ジブラルタルの紋章は、スペイン・イベリア半島をあらわす赤い城の下に下げられた鍵⇒ジブラルタルは確かに鍵の様なかたちをしている。カギの様に重要な場所である。

★ジブラルタル議会議員は十七名。独自に立法することが出来る自治領。1960年代に各国の植民地が独立していったときにもイギリス領にとどまる理由のひとつになった。

★カソリック教会⇒イスラム時代にモスクのあった場所に建てられた教会。現在の建物は1811年のもの、塔は1820年に付設され、時計がとりつけられたのは1874年。さらにファサードも1931年の改修時に新しくされた。ひとつの教会が「いつ」出来たのか、簡単には言えない。

★聖三位一体教会(英国国教会)⇒1825年に建築がはじまったが、その年の台風で立ち上がった壁が倒れた。土台が軟弱なのが判明し補強、予定よりも厚い壁に変更、難工事となる。 1828年の黄熱病流行・工事の中断、1832年一応完成したが屋根の不具合が発覚、修理。同年、有名な総督ジョージ・ドンが最初の埋葬者となるも、まだ教会として聖別されてない。 正式に教会となったのは1838年である。外観がちょっとイスラム的なのはデザイン面だけ。

***まだまだ見どころはあるが、夕食にしましょうジブラルタル独自のお金であるジブラルタル・ポンドもはじめて手に入れた⇒※これについてはまた別に書きます。

明日も晴れますように!

 

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ウィンザー、朝の散歩

2016-03-15 09:08:12 | イギリス

 

ウィンザー城の「ロングウォーク」を歩いてみたいと、ずっと思っていた。

****

朝、七時に階下へ降りる朝食の場所はウィンザーのハイストリートに面しているこの時は少し曇っていたが、散歩にでる八時にはきれいに晴れてきた。

空港が近いので巨大な飛行機が数分おきに頭上を飛ぶ。この青いお腹の機体はBA英国航空 ハイストリートは、14世紀にはすでにあって、小さな村の古い建物がたくさん残されている。

印象的な傾いた家が目につく↓

●「マーケット・クロス・ハウス」

看板に1718と書かれているが、建てられたのは1592年だそうだ。※1634年と書いた地元ガイドさんもあり、このあたり仔細は不明。 もとはちゃんと建っていたのに1718年に改修をした時から傾き始めた。理由は建材に適さない生の樫の木を使って改築たため。 さらに●この家にはウィンザー城とつながった隠しトンネルがあるそうだ。17世紀「陽気な王様」として知られたチャールズ二世が、愛人のネル・グィインと会うのに使ったとか。オレンジの売り子だったネル・グィンは最初城下の一角に住まわされていたたくさんの愛人のひとりだったが、後には堂々と寵姫争いをした。

●青いポスト

イギリスのポストは赤いものと思っていたら、こんな青いポストにでくわした。よく見るとNOT IN USEいまは使われていない様子。調べてみると1930年から1938年の短い間だけ使われた「航空便」用のポストだった。 その後すぐに飛行郵便が普及したので、蒼いポストを置く意味がなくなったが、記念に残されて現在に至る。

左奥には古い井戸も見える。

●二人のビール業者の店

この家のいちばん古い記録は1709年で、第五代オーバン公の所有になるロンドンからの馬車が停車する場所だったそうだ。当時唯一ちゃんと宿泊できる宿をかねたパブだった。

今でも普通に営業している。届けられた食材が無防備に入口に配達されていた⇒

ここからすぐに●ロング・ウォークに入ることができる1670年に前出のチャールズ二世によってつくられた2.5マイルの長さの散歩道。適度な坂道になっている。振り返るとウィンザー城が映える

犬を散歩する人、ジョギングする人、行進する兵士。さまざまな人が交差する公園

それにしても、イギリスの犬たちは幸せだ。ちゃんと教育されているから出来るのだが、繋がれず楽しそうに走り回っている。

一時間の散歩を終え、ゆっくり準備をして朝十時に空港へ行くミニバスが迎えにきた

今日は、一日一便しかない12:40発のジブラルタル行き英国航空に乗る。日本からは同日に乗り継いでジブラルタルへ入ることが出来ないので、ウィンザーに一泊したのだが、充分にその価値があった。

ウィンザー、またゆっくり滞在したい(^・^)

 

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《手造の旅》スペイン火祭への旅、一泊目はイギリスのウィンザーで

2016-03-14 14:31:58 | イギリス

スペインへ行くのに、なぜ一泊目がイギリスのウィンザーなのか?それは明日の日記で分かる事として、今日はイメージしていたような夕陽に染まるウィンザー城を見ることができた。

***雨の羽田空港からロンドン行に乗る。二回目の食事、今回はスープストック⇒トマト味のとろりミネストローネ鶏肉入りの中に、お好みでペンネのジェノヴェーゼ風味を入れる。

飛行機は早く飛びすぎたようで、空港へ入る前に旋回、その様子は飛行データでも見える。緑色の線がぐるぐる二回まわってます⇒ 今回の飛行機には日本の中学と高校から語学研修のグループが乗っていた。 ヒースロー空港へ到着

ヒースロー空港からウィンザー城まではロンドン市内へ行くよりもずっと近い。青空で気持ち良い。高速道路が少し混んでいたが、二十分ほどでお城が見えてきた気温は12度ほど。

「いいおてんきですねぇ~」と、ドライバーのグラハムさんに話しかけると、「ちょっとChilly(ひんやりする)だけど、気持ちいい日だねぇ」と言う。

そりゃぁ、半袖シャツ一枚ならChillyでしょうねぇ(^^) 我々コート着てますから。

空港から三十分もかからず、ウィンザー城すぐまえのホテルにチェックイン。せっかくイギリスに泊まるならばこの一泊も生かしたいと思って空港近くにした。手配会社の方にお勧めいただいた、旧市街ど真ん中のホテル、建物は古いけれど、とてもきれいに改装されていて、デザインも美しい。小さなロビーはガラス張りでこんなふう⇒ 荷物を置いてすぐに散歩に出たのは17:20。あぁ、ほんとに気持ちのよい初春の夕暮れ。ウィンザー城の中を見学するような時間はなくても、この時と場所を楽しもう。

歩き出してすぐ、19世紀末に開通した鉄道の駅がある⇒コンコース内までそのまま入っていける。夕方のこの時間ならお店もすいている。

 突然、頭上にごぉ~っという音が響いて、巨大な飛行機が姿を見せる↓

テムズ川の河畔まで降りて行って見上げると、その砦としての姿を少し思い起こさせる ウィンザー城は11世紀末にノルマン王家のウィリアム征服王が建設をはじめ、現在にいたるまで使い続けられているイギリス王室で最も歴史ある城である。

ホテル近くのスーパーマーケットは19時まで。じゃがいもは安いですね

★時差はあるけれど、散歩してちょっとお腹減らして、パブでビールといっしょにちょっと軽食。

「イギリスだからフィッシュ&チップス~」というお声もあったのでん、わるくないです。ステーキを注文する方も、お、これもいいです いちばん当たりだったのは、このマリネしたソーセージ⇒これ、もう一回食べたい!間口は狭くても奥に長くつながっているパブで、当然生ビールの種類もたくさん親切にいろいろおしえてくれたおねえさまもいて楽しい夕食になった。店を出ると夕暮れは終わり、ウィンザー城はライトアップしている。手前の像はヴィクトリア女王↓

ホテルまで三十メートルほどシャワーオンリーでも、この立地で快適なホテルでよかった

明日朝も10時出発だから、朝のウィンザーを散歩しよう(^^)。おやすみなさい(-_-)zzz

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ロサンゼルス弾丸視察2日目

2016-03-02 08:13:42 | アメリカ西部

ロサンゼルス弾丸視察、二日目朝は定番のダウンタウンを目指す。むこうのビル街がそこ ロサンゼルスは1871年にできたエル・プエブロ・デ・ヌエストラ・セニョーラ・ラ・レイナ・デ・ロス・アンヘロス村(日本語にするなら「天使たちの女王・我々の聖母の村」とでもなりましょう)が起源となっている。あのビル街の近くオリベラ街にその名前が書かれた十字架がある⇒スペイン人たちがやってきた時、最初につくるのは教会。今もその流れをくむ教会がある⇒ ここにヨーロッパの旧市街のような場所はない。今は観光客が集まるお土産とメキシコ料理の軽食がならぶ。そこで朝食にした マチャカ・ブリトー⇒ となりに「ロサンゼルスでいちばん古い家」がある※ここについてはまた別に書きます。

最近出来たという騎馬像誰だか分からなかったが、あとでしらべて理解した。開拓時代のなんかじゃ、まったくありませんでした⇒こちらからお読みください

**そのままユニオン・ステーションの駅へあるいてゆく。1939年に建設されたもの 飛行機ではなく列車が主要な長距離移動の手段だった時の雰囲気が感じられる。

****

丘を上がったところにあるディズニー・コンサート・ホール。スペイン北部ビルバオの街にある有名グッゲンハイム美術館と同じく、建築家フランク・ゲイリーの設計。なるほどぉ↓

6月の《手造の旅》でご一緒するドライバー・ガイドさんと共に⇒

**ダウンタウンの端にあるリトル東京へも久しぶりに行ってみた。二十年ぐらいまでのLA観光では定番の訪問地でDFS(デューティ・フリー・ショッパーズ)やいろんなお土産屋が並んでいた場所。一時期治安が悪くなって、観光客がいかなくなり寂れたときいていたのだが・・・「今はぜんぜんそんなことないですよ。むしろ地元の人たちが好んで出かけていくおしゃれな場所になっています」との事。

・・・やぐらはそのままだが、歩行者エリアにはいってゆくと、アメリカ人の好みそうな日本的食堂がならび、以前の「おみやげ物街」の雰囲気はまったくなくなっている。DFSももうないのだそうだ。 いちばんびっくりしたのは、このアーケードができていたこと→そうか、こういう場所の存在が大きいのですね。いわゆるアキハバラ的オタクショップが何軒もはいっているちょうど開店時間で、アメリカ人たちが何人も待っていた。

すぐ近くにある「日系人博物館」は、日本人なら訪れておく価値がある。いつでも、日系人の方が待機していて求めれば説明してくださる。太平洋戦争中の収容所の事がいちばん大きくとりあげられている。ここは、過ぎ去った過去の説明をしているのではない。今も続いている日系人をつなぐ場所として活動している。そのことを知らしめてくれる場所もある→こちらに書きました。

 ←日系人博物館

****

LAには、きのう訪れたゲティ・センターのほかにもいくつも見るべき美術館がある。お勧めいただいたけれど、中まで見学する時間がなかった美術館、庭だけ→

★サイモン・ノートン美術館は、ずいぶんまえに一度だけ入ったことがあったが、今回やっとその真価を理解できた。道路に面して「考える人」の、オリジナルブロンズの一体がある→ ロダン作品はほかにも「洗礼者ヨハネ」や「カレーの市民」「バルザック」といった、超有名作が入り口に並べられている。その展示環境は、作品が生きるようにしっかり考えられている。小さくとも散歩したくなる庭園にも、そのセンスが生かされている

館内一階の所蔵品は19世紀フランスモノが多い。ドガの踊り子のブロンズ像もオルセーにあるのと同じものがあった 一点だけをあげるのは難しいが、やはりゴッホの「プロバンスの百姓」は見ておく価値がある 地下にはアジアの遺跡からの石造がたっぷり→

ううん・・・六月はゲティ・センターよりもここをお見せしようか知らん。

 

 

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