旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ブルゴス大聖堂、夕暮れにまちにくりだす人々

2017-04-07 20:53:51 | スペイン

ブルゴス大聖堂の北側は山になっているので、巡礼たちの道も上り坂(右の道)↓

かつての巡礼者用の入口(右の坂を上って大聖堂にたどり着いてすぐにある扉から)は、堂内へ入ってからすぐに階段を降りなくてはならない。ディエゴ・デ・シロエの制作したこの階段はすばらしいものだが、多くの巡礼にここを使わせるのは効率が悪いし?↓

なので、15世紀になってから、階段の右手にみえる扉が建設され↑巡礼たちは坂を登らずに大聖堂に到達できるようになった↑

上の写真で右端に見える扉を外から見下ろすと、こんなかんじ↓

***現在は両方の入口ともに使われていないので、我々は南側の入口から堂内に入った。内部はブルゴスがカスタリアとレオンの首都だった時代から、何世紀にもわたる彫刻が詰まっている。これは↓樫の木にオリーブオイルを沁みこませて柔らかくして彫刻したのだそうな↓

アラバスタ―を使った豪華な棺光をよく通すので大理石とは違うのだと分かる↓

聖アンナ礼拝堂の正面祭壇は、ヒル・デ・シロエの作↓左下の部分に自分自身が眼鏡をかけて仕事をしている姿が彫り込まれている↓

 ↑この眼鏡の人物はヒル・デ・シロエ。1440年ごろに遠く・現在のアントワープあたりの生まれとされている。ブルゴスからアントワープへ赴任していた「偉い人」にスカウトされてブルゴスへやってきた職人である。

ブルゴスで働くうち、五十才をすぎてから息子が出来た。父のそばで育ち、同じ彫刻家になった彼はディエゴ。前出の階段をつくった人物になる。彼の作品は聖堂付きの博物館にもいくつもある

外国からスカウトされて、ブルゴス大聖堂のために働いていた人物はたくさんいた。この礼拝堂の驚くべき天井をつくったのはシモン・デ・コロニアというドイツから来た職人。あ、市内にあった「縄の家」を建設したのも彼だったのか↓

堂内には18世紀に寄付された椅子も現役で使われている↓

ああ、きりがない・・・****ホテルへ戻り部屋で休憩。七時半から男三人で夕食に出た

七時半でもバルはがらがら。カウンターにならんだピンチョス《爪楊枝にささっているのでこう呼ぶわけですね)からいろいろ選んで、安いけどびっくりするほどおいしい赤ワインとともに↓

一時間ほどのうちに、人の出入りが多くなってきた。ひとりでやってきてカウンターでつまんで・飲んで、さってゆくお客もたくさんいた。ははぁ、こういうのがスペインのバルの使い方なのか。日本人が居酒屋でながながやっているのとはずいぶんちがう。

そして、働き盛りの男ばかりではなく、年配の女性も、子供をつれたお母さんも、さらにはこどもたちも、どんどんやってくるのがスペインのバルなのだ↓彼女、なにしてる?

道へ出ると、すごい人、夕暮れのブルゴスを楽しんでいる。

「こどもは早く寝なさい」なんて言われない

  明日も晴れそうな予感

 

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ブルゴス、ラス・ウェルガス修道院と旧市街、バルで昼食、巡礼宿も覗く

2017-04-07 14:02:42 | スペイン

ビルバオを出発してブルゴスへ向かう。


 

バスクは山がうねうねと連なる地形。この山がローマ人やイスラム教徒の侵攻を阻み、バスク人の土地となっていったのか↓

 

 

 

 ブルゴスはメセタと呼ばれる標高八百メートルを超える台地に位置している

 

 

 

ブルゴス旧市街すぐ近くのACホテルに荷物を置く まずは、旧市街から少しだけ離れた王立ラス・ウェルガス修道院を訪れた↓

 

 

 

 

 

 

12世紀、カスタリア王アルフォンソ八世とその妃レオノールによって創立された大きな修道院は、今でも現役である。ロマネスクとゴシックのアーチが続く。

 

 

 

入口のアーチとなっている塔では、「残酷王」と言われたペドロ一世が1334年に誕生している。彼はまたここにあるサンチャゴ礼拝堂でサンチャゴの騎士にも叙任されている↓

 

 

 

 

 

 

 ロマネスクのアーチが連なるクロイスター↓

 

 

 

 

 

 

中庭から見る↓

 

 

 

 

 

 

コウノトリが↓

 

 

 

 

 

 

売店にも ※写真撮影不可の場所が多いが、もうひとつのミラ・フローレス修道院とはまた違う魅力がある場所だった。ロマネスクを見るのならばこちらだろう

 

 

 

**ブルゴス市内へ戻る

 

 再び大聖堂の塔だけをかつての城壁の向こうに見てブルゴス博物館を見学↓

ここは三つの邸宅をぶち抜いて博物館にしてある。入口はかつての貴族の邸宅だが、新しく整備された展示空間だ↓

七宝で装飾されたビザンチン風の金属の小箱 象牙の小箱

★ここでいちばんの見ものはエル・シッドの剣「TIZONA」あのエクスカリバーのように剣そのものに妖力がやどっていたといわれる↓
長くトレドの軍事博物館に展示してあったが、十年ほど前に買い取られて、エル・シドの故郷近くに移動してきた。近年の分析の結果、もとはダマスカスで鋳造されたイスラム圏からのものだとされている。
***
ブルゴス博物館の目の前にある市場にも寄ってみよう。いろんなモノ、試食させてくださいました(^^)

ブルゴス名物の「モルシージャ」は血と米のソーセージ↓


いよいよ、サンタ・マリア門から旧市街へ入っていこう↓





***午後二時はスペインのお昼時間、混みあうバルの一角に場所を見つける。 簡単においしく食べるのにスペインのバルは最適 

 

さっき市場で見かけた「モルシージャ」も食べてみよう↓血と米を使ったソーセージは、好き嫌いあるかもしれないけれど

 

 

***ふたたび旧市街を歩く。スペインの多くの街にある「マヨール(大きな)広場」↓

 

 

広場への入口柱のひとつに、川が氾濫した時の水位が刻まれていた↓

 

リベルタード広場に面して、15世紀の★コルドニア・ハウスがある。名前は「紐の家」ほどの意味で、そのデザインに由来することがひと目でわかる↓ポルトガルならば「マヌエル様式」と呼ばれることだろう↓ 

 

建築したのは、 シモン・デ・コロニアSimón de Colonia。父と共にブルゴス大聖堂の建設にも携わっていた人物で、いちばん有名なのは大聖堂の中にある星形にデザインされた天井。 ●注文主はペドロ・フェルナンドと妻のメンシア・メンドーサ。ブルゴス城代。

 

ここで起きた世界史的に有名な出来事は★1497年4月27日に、二度目の航海から帰国したコロンブスがイサベラ女王とフェルナンド王に謁見したこと。記念プレートがはめられている↓

 

 

コロンブスは合計四回新大陸への航海に出ているが、この二度目がいちばん華やかな帰国であった。(※三度目には罪人としての帰国、四度目は船を失いなんとか帰国)

 

もうひとつ。新大陸の先住民たちの権利をまもろうとしたはじめての集会もここで行われている。だから、なのか、先住民の展示が行われている。現在の所有者は銀行 内部は外見とは全く違い、完全に新しく建設されたもの↓後ろからみるとそれがよくわかる↓

 

 

***近くの広場に、「牛乳だけ飲んでそだった子羊の丸焼き」が名物の店がある ガイドさん、我々を連れてずんずん店に入っていくと、窯の前に焼きあがっていた現物をみせてくれた↓

 

 

****大聖堂へ行く途中で、巡礼の為の宿「アルベルゲ」にも連れて入ってくれた。観光客の見学地ではないのだが、少人数だからこんな事もできてしまう。この入口をはいると巡礼宿「アルベルゲ」↓

 

 

※中もちょっと見せてもらいました→こちらからごらんください

 

 

 

 

 

 

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ビルバオのおいしい午後

2017-04-06 19:05:28 | スペイン

グッゲンハイム美術館を出てイパラギーレ通りを歩きながらふりかえる↓

ホテルへの道を歩いていると、交通規制にあたった。ちょうど今日はバスクを走る自転車レースの最終日。サンセバスチャンを出て175キロを走り、ゴールがビルバオなのだ。もうすぐ到着というグッドタイミング。せっかくだからゴール直前を見ていきましょう↓五百メートル先がゴール↓

頭上を報道のヘリコプターが飛び始めると・・・すごいスピード!↓

 一度ホテルへもどって、夕食へ。タパスをいろいろとって楽しみましょ(^^)↓

ハムはどこでもはずれがない

↓ワインはバスクの若い発泡白ワインTXAKOLI(チャコリ)を↓

 二本目はリオハの赤にしましたが↓

デザートに、今日のガイドさんが話していたバスクのお菓子「カロリーナ」を探す。どこのお菓子屋さんも復活祭の卵型チョコを置いている。たまに、ピカチュー型も↓

メレンゲを盛り上げてチョコでコーティングしてあるというと・・・あ、これか↓

いっしょにサンチャゴのケーキも→ ポルトガルのこれも→みんなで楽しみました。

 

 

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ビルバオ旧市街とグッゲンハイム美術館

2017-04-06 17:00:03 | スペイン

ゲルニカから三十分ほどでビルバオへもどってきた。

西暦1300年に、それまで漁村だったビルバオをビスカヤ公の街としたディエゴ・ロペス五世の像↓

この広場でバスを降りた↓

ネルビオン川が蛇行する場所につくられた旧市街が橋の向こうに見えてきた。アリアガ広場に建てられた劇場がある↓

アリアガとはパリでも活躍した若い音楽家の名前、夭折したので「バスクのモーツァルト」と呼ばれているのだと、ガイドさんが言った↓

ふりかえると19世紀から20世紀初めアールヌーボーの様式でつくられた駅↓

写真左端に見える塔もその少し後にできたアールデコ調。長くビルバオでいちばん高い建造物だったのだそうだ↓

旧市街の細い道へ入る↓

お土産店に飾られていたバスクの大きな旗↓「EUSKADI」とは、バスク語でバスクを指す言葉↓

お土産屋さんのショーウィンドーには民族スポーツの「ペロタ」をする像↓「ペロタ」とはバスク語でボールのことを指す。

↓「きれいな図書館があるんですよ。さっきの劇場をつくったのと同じひとがつくったもの。ちょっと見ていきませんか?」

とガイドさんがさそってくれた↓なにげない普通の空間だが居心地良さそう↓

路地の向こうにサンチアゴ教会が見えてきた↓

道には巡礼路をあらわす印→

「最初につくられた旧市街は並列する七つの道からできている」と資料で読んでいたのが、歩いてみると実感できた。

ビルバオは西暦1300年当時の計画都市だったのだ。ディエゴ・ロペス五世(アロ家)は、合理的な都市造りを目指していたのかも。

劇場のところまでもどり、グッゲンハイム美術館までトラムに乗る事にした。少人数だからこういうことも出来る↓切符は一回券1ユーロ50セント↓

停留所には次のトラムが何分後にくるかも表示される最新の設備がある。乗車してみると、車内がとても明るい↓

右に見える川に、カラトラバ設計の橋が見えてきた↓ビルバオは街のいたるところでモダンな建築が目につく。

トラムを降りて→いちどグッゲンハイム美術館と逆に歩き、美術館が見晴らせる橋にでる。パノラマ風景↓銀色にもりあがったのがグッゲンハイム美術館↓

この写真を撮影した橋は、大学の本館と図書館を結んでいる↓下の写真で橋の向こうに見えているのが大学本館↓おもしろ橋でしょう(^^)↓歩いて楽しい↓

図書館は、下の写真で左側に見えている建物↓ 印象的にそびえている塔は電力会社のものだそうだが、現代のビルバオでいちばん高いものになる↓

さぁ、いよいよグッゲンハイム美術館へ↓

★グッゲンハイム美術館は今年で開館二十周年をむかえる。1983年に街を襲った大水害の後、この場所にあった古いドックをネルビオン川河口に移動させ、そこにそれまでにない美術館を建設することにした。

すでにニューヨークとヴェネチアに美術館をつくっていたアメリカ人の大富豪グッゲンハイムに声をかけた。 グッゲンハイムというファミリーはもともとドイツ系のユダヤ人で、19世紀にアメリカに移住して鉱山開発で財を成してきた。同じく鉱山で栄えたビルバオを再生させる計画にも興味があったのかもしれない。 

美術館は数人の建築家へのコンペの結果、フランク・ゲイリーが担当することになった。この時イソザキも参加していた、のだそうだ。※今回の旅ではガリシアのア・コルーニャにあるイソザキの建築も見られるのが楽しみ

チタンの薄いパネルで覆われた姿が印象的↓むこうに見える赤いアーチは、グッゲンハイム美術館会館十周年を記念して付け加えられた。橋自体は美術館計画以前からここにあったが、この赤いアーチが加わることによって、調和した↓

↓手前に見えるピカピカの風船はジェフ・クーンズの「チューリップ」↓

内部はこんな吹き抜け空間がそびえている↓これを見るだけでここへやってくる価値がある。ここは美術館それ自体が見るべきものなのだ↓

この空間を中心にして「展示室」が三階僧につくられているのだが、小松の思うところでは、ここでどんな規制モダンアートをもってこようが、建物に負けてしまうのではないだろうか。ロスコ―も、キーファーも、建物の存在感を越えられない。

ここで見るべきなのは、この場所の為につくられた、こんな作品だろう↓英語やスペイン語の文字が下から上へどんどんながれていく↓

それが・・・一歩内側・裏側へ入ると、空間の雰囲気は一変し、流れていく文字はバスク語に変わる↓「バスクは隠されてきた」という歴史を暗示している↓なるほど

 そして、多くの人に忘れられない印象を残すだろう、巨大な鋼鉄の迷路↓上から見下ろしたところがこれ↓

遠くに小さく見える人間から大きさを想像してほしい。

↑★サンフランシスコ出身のリチャード・セラによってつくられたTHE MATTER OF TIMEと名付けられた作品。この空間は「フィッシュ・ホール」と呼ばれ、この作品が入る以前には展示室のひとつとして使われてたそうだが、どんな作品をもってきてもこの空間には負けてしまっただろう。

この巨大な鋼鉄はドイツで鋳造してここへ運ばれた。形状、大きさ、配置、それぞれ慎重に選んでこのかたちになったのだ。どの位置から見ても、クジラのあばら骨のような天井と呼応している↓

この間を歩く人は、旧市街の路地をあるくように感じるかもしれない→ 八枚の鉄板がつくりだす七つの細い空間は、さっき訪れた旧市街の七つの道を思い出させた。思い込み、でしょうか。

この作品、とっても重い。千二百トンもあるのだそうだ。ところが、展示室が最初に想定していたのはわずか40トン。ガイドさんに指摘されて床を見ると、そこここに亀裂が出来ているのがわかった。

***最後に正面入り口へ。この美術館でいちばんカワイイのはこの巨大な「子犬」かもしれない↓

 

 

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ゲルニカの誓い

2017-04-06 13:51:25 | スペイン

ゲルニカ市の紋章がこれ↓

これとおなじ風景が、ビスカヤ議会のそばに見られる↓

ゲルニカはピカソの画いた絵で有名になったが、それだけの街ではない。バスク地方の支配者となった者はこの木の下で、バスク人の自主権を尊重する誓いをたててはじめて、領主として認められてきた。1476年のその様子を画いた絵が、象徴的に飾られている↓

大きな木の下に地域の代表が集まってモノゴトを決める、というのはキリスト教時代以前からの習慣だったと思われる。洋の東西を問わず、大きな木というのはそういう役割を持つことが多い。ゲルニカではそれが脈々と現代まで受け継がれているのである。

この木のすぐとなりに、現代のビスカヤ県下院の議事堂がある↓楕円形すり鉢状に座席が配置され、現在も使われている。五十一人の議員が集まる頻度は一か月に二回程度だとしても↓

周囲をとりまく全身肖像画は、中世からゲルニカの木の下で誓いをたててきた領主たち↓その上には、歴史的に重要な誓いがいつ行われてきたのかを文字にしてある↓

この議事堂は1830年に建設されたもの。できるだけバスク産のものを使ってある。 教会としても使われていたので、当時の入口には聖水を入れた器がみられる↓貴重な赤大理石?のようにみえるが、近くのエレーニョという場所でとれる赤い石灰岩を磨いてそんなふうに見せているのだそうだ↓化石が含まれている↓

となりの部屋はかつての中庭だった場所。中庭の天井部分をステンドグラスにして、そこにゲルニカの木を大きく描いてあった↓

木の下に並ぶのはバスクの歴史的な職業。おもしろいのは左奥に船のオールを立てて持っている鯨取りの漁師たち。19世紀はビスケイ湾でたくさんの鯨がとれていた↓

ステンドグラスの端に描かれたたくさんの建物は、ビスカヤにある歴史的建造物。 南米解放の英雄であるシモン・ボリバルの祖父母の家もある。ボリバルは革命運動のなかで、ビルバオに一年住んだ事もあったのだそうだ。

ゲルニカの木すぐ近くに、今は使われていないLUMOの議会だった建物がある↓LUMOとは隣接した別の市だったのだが、19世紀にゲルニカと合併している。冒頭の紋章にも名前がのこされている↓

現在のゲルニカの木の「おじいさん」にあたるものが、一部大事に保存されている↓

この議事堂は学校の見学もたくさんやってくる↓

***ゲルニカ平和館を訪問↓市庁舎のあるこの広場に面している↓下の写真で左側の旗の出ている建物は市庁舎。この写真は平和館のすぐ前から撮影したもの↓

入口を入ったところ。七夕みたいな飾りがあった→二階へあがっていく階段に、また「ゲルニカの木」

バスク語で「平和」はBAKEAなんだそうだ→

世界の紛争に関しての展示も多いが、ここで必ず体験しておくべき展示は、1937年4月26日の爆撃を体験した一市民の「その日」を再現した部屋↓入ると、ブラインドの下りた。年配の婦人の部屋。家族がどんなふうに過ごしていたのか、静かに語られはじめ、やがて「その時」がやってきて、瓦礫となった街の様子が映し出される↓

  この部屋を出ると、当時に至るゲルニカの現代史を様々な角度から解説した展示がはじまる。

市民への無差別爆撃に怒ったピカソがパリで画いた「ゲルニカ」の解説ももちろんある↓

ピカソが支持した共和国スペインは敗れ、フランコ将軍が支配するスペインにこの絵の居場所はなかった。世界各所で展示され、1958年にニューヨークのMOMAに預けられた。「スペインに平和が戻ったらこの絵をもどしてくれ」と、ピカソは言ったが、1973年に彼が死ぬまでにそれが実現することはなかった。 実現したのはフランコ将軍の死後六年を経た1981年である。

「この絵は、ゲルニカの街にこそあるべきだ」という意見もある。街に設置されたレプリカの下には「ゲルニカを ゲルニカへ」と読める言葉が書かれていた。フランス人の学生たちが説明を聴いている↓ ずっとこの町に展示するのがよいかは分からないが、一度ぐらいこの町にホンモノを展示する機会があってもよいのではないでしょうか。

今回、ゲルニカ平和館の地下で行われていた特別展は、「ゲルニカ」を現代の絵描きがあたらしく解釈した作品たち。これがなかなかおもしろい。そのひとつ↓アメリカが世界で行っている事を糾弾しているのだと、ひと目でわかる「ゲルニカ」↓

***

正午を少し過ぎ、スペインの昼食にはまだまだ早い時間。なので空いたバーでピンチョスの軽食タイムにした↓

地元のビールBOGA。なにげないハムがめちゃくちゃおいしい! 

バーの奥に「ペロタ」の選手を囲むひとびとの古い写真があったバスクのシンボルのひとつであるベレー帽をかぶった姿もたくさん見える。

「パブロ・ピカソ通り」

駅前からバスに乗り、ビルバオへ戻ります。午後三時過ぎにグッゲンハイム美術館の予約を入れてもらっている。

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