旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

パヴィアからパヴィアの僧院を経てミラノへ

2017-11-25 20:42:40 | イタリア
大学の近くに中世イタリア王国・ロンゴバルド王国時代の教会遺構があるということで連れて行っていただいた。
地上にはなにもないのだが、地下に降りてゆく階段がある↓

ロマネスクアーチにシンプルなセミ型デザインがほどこわれた、ロンゴバルド時代の教会があらわれた↓

ROTAN王(636~652)の時代に、アリウス派の重要な教会として建設された教会は、カトリックに変更された時に聖エウセビオ教会になった。このかたちは11世紀ごろのものだろうと思われている↓

1923年に教会は廃寺となり地上の構造物は破壊され、地下は埋められてしまっていたようだ。

最近になってその価値が再認識されるようになり、こうして発掘・公開されるようになったということ。
↓教会外壁に沿って古い墓の跡が見える↓ここからは何か発見されたの乃があったのだろうか?それは、どこに収蔵されているのだろうか?まったく解説はない↓まだまだ分からないことだらけなのです

**
近くの大学中庭↓パヴィアは1485年に開設された大学が今でも存続している↓


***
古いアーチが続く旧市街を歩き↓

大聖堂のクーポラがみえてきた↓


15世紀末に建設がスタートした大聖堂はレンガ作りで、建設途中のような印象がぬぐえない↓
ギリシャ十字型プランは、かのレイオナルド・ダ・ヴィンチやブラマンテも設計にかかわったとされるが、クーポラもファサードも、19世紀になるまでたちあがらなかったのである↓

ファサードすぐ横には1989年に崩壊した塔の残存部分が見える↓

かつてはこんな塔が聳えていた↓

11世紀から16世紀にかけていくつもの段階で建設され72mの高さがあった塔は、1989年三月のある朝突然倒壊。四人が犠牲になった。
その記念碑↓

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ローマ時代からそうだっただろう真っ直ぐな通りをティチーノ川に向かってあるいていゆく。そろそろクリスマスの飾りつけがはじまっている↓


★コペルト橋はローマ時代にもこの場所にあったとされる橋の後を継いでいるものだ↓が、実は第二次大戦時に破壊された後に再建されたもの

※この橋の歴史を調べていくと、パヴィアという街について知ることにもなる⇒こちらに書きました

昼食は軽く。ピアディーナという、北イタリアではよく使われる生地のサンドイッチ、ちょうどよいです↓


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午後、世界遺産のパヴィアの僧院へ向かう。小雨と霧は変わらない。
●パヴィアの僧院は、ミラノの支配者ヴィスコンティ家のジャン・ガレアッツォが1396年に建設を命じた。日本では室町時代。金閣寺が建設される前の年と言えばわかりやすかもしれない。
霧の中に木立があらわれ、その奥に入口があった↓堀を渡って入る

門に描かれたメダルの中に書かれた「GRA」Gratiarum  「CAR」Chartusiae の文字↓

「祝福されしカルトジオ会」とでも訳しましょうか。
創立者ジャン・ガレアッツォの横顔↓ガイドさんに何度も言及していただいているうちに覚えました(^.^)↓

中庭に出ると、教会のファサードが豪華な装飾を見せる↓

二十年以上前、はじめて見た時には驚きしか感じなかったが、今日あらためて見るとそのバランスの悪さがどうしても気になる。これはぜったい完成していない。細かい装飾だけでなく、基本的な構造さえも設置されずに止まったのだと感じる↓

調べていただくと、当初の完成予定図がちゃんと残されていた↓なるほど、納得。

目の前に見えていることだけを追っていては、何も理解できはしないのだ。

★ファサードの浮彫彫刻は、オルビエート大聖堂のファサードのマイターニの浅浮彫を思いだした。
↓下の図はそのひとつ。ジャン・ガレアッツォが1396年8月27日僧院建設の最初の石を置く図↓

↓こちらはジャン・ガレアッツォが1402年に没した時の葬列図。彼の墓はこの修道院にある。


建物内部の多くのルネッサンス芸術はここでは触れない。

修道僧が暮らした中庭に出る↓

こちらは小さい方の庭。教会の尖塔が見上げられる↓


ここから修道僧達の個室がならぶさらに大きな庭に出ると…

実に広大な↓



それぞれの部屋にこもり、カルトジオ会の厳しい会則によって、耕し祈る暮らしを続けていたというのだが↓
こちらは一つの部屋の専用庭↓

ある意味とても贅沢な世捨て人生活だったのではないかしらん。

修道院は清貧な暮らしを目指す僧侶の暮す場所というよりも、世を捨てても裕福な実家が修道院に寄付しているのでもうとう粗末には扱われない人たちの隠棲場所、だったのかもしれない↓博物館に、かつてもっともっと広かった敷地の様子が描かれた絵があった↓

この博物館にはファサード彫刻のホンモノも一部移動されていた↓

それはそうだろう。繊細な彫刻作品を風雨にさらされるあの場所に置き続けるのは保存上あまりに問題。
修復を行ったタイミングでレプリカに置き換えるというのはあってよい。それはガイドブックや現場の解説版にもとりたてて書かれないがよく行われていることなのである。

******
大聖堂から200mのホテルにチェックインして、1時間ほど休憩。

レストランの開く少し前に徒歩でサルデーニャ料理の店に向かった↓

ここ、以前にも紹介してもらって行った(^.^)また、来られて嬉しい↓
⇒「宝島」というお店での食事、こちらに載せました

レストランを出てホテルに戻る前に、大聖堂の夜景を観に行った↓やはり、最初にこの姿を見ると感激しますね↓

ガレリアのショッピングアーケードもクリスマスツゥリーが飾られている。トリノ市の紋章の上でお約束のぐるり回り↓


明日は、ミラノのグループツアーがあまり訪れない・それでも見ごたえのある場所を訪れます
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パヴィアのミカエル教会~中世イタリア王国の首都

2017-11-25 12:16:50 | イタリア
クレモナから、霧のパダーニャ平原を走ってパヴィアについた。このあたりはたくさんの川がながれていて、よく霧が出る。
パヴィアもイタリア最長のポー川とティチーノ川の合流地点近く位置している。旧市街に面しているのはティチーノ川↓

少し雨も降っているから、市庁舎前広場に到着してすぐカフェでひと息カウンターで売っていたイリーのコーヒー豆は、ここがいちばん安かったそうな↓

歩きはじめるとすぐにレンガ積みの高い塔が何本もそびえている↓

ボローニャがそうであったように、それぞれのファミリーが繁栄の証に・緊急時の避難所に、こういう塔を建てていた中世。14世紀の書物には「百塔の町」という、どこかできいたような形容をされていたほどの数の塔が立っていたのだそうだ。

パヴィアの旧市街の道が碁盤の目のように交差しているのは、それが古代ローマの都市の名残を今も留めているということ。

その一角に、いきなり中世イタリア王国時代のロマネスク聖堂が姿をあらわした↓これは、サン・ミカエル・マジョーレ教会の北側部分↓

※あとから教会の案内冊子で知った事。この門はもともと12世紀からのものだが後年の改修で閉じられていたものを、1860年から1875年修復によって再びロマネスクのオリジナルのスタイルでオープンさせたものだった。そう思って見直すと、この門の前の空き地はかなり不自然。門から細長い構造物が、現在空地になっている場所に建設されていたのではないだろうか?まったくの仮説ですが。

最初にこの場所に教会を建設したのは、西ローマ帝国滅亡後にいくつかの異民族支配のあとにやってきたロンゴバルド族の王ロタール(AD636-650)とされる。
パヴィアを首都にして、宮殿付きの礼拝堂がこの教会だった。
ロンゴバルド王国は774年にカール大帝によって滅ぼされたが、王国はそのまま「イタリア王国」としてフランク王国に継承されていった。
そして、12世紀1155年に皇帝バルバロッサの戴冠が行われたのが、特に有名である。
この時に現在見られるかたちのロマネスクに大きく改修された。「黄金色に輝く砂岩」を用いたとされている。

ファサードは、この後にほとんど改築されなかったので、12世紀の形がよく残されている↓

擦り切れてはいるが、ロマネスクの彫刻群もたくさん残されている↓

内部はさて、どこまでオリジナルのスタイルを留めているのだろうか?


↑シンプルなロマネスクのアーチ。だが、天井部分は他と比べて新しい印象。先ほど外部から見た時、上部だけがレンガ作りになっていた野を思い出す。19世紀のオリジナルへの改修前には屋根が落ちてしまっていた時期もあったのではないだろうか。

また、別の可能性も考えられる。多くの教会が後年バロック様式に大改修されていたのだが、この教会はどこまでそれをのがれていたのだろう。19世紀にそれまでの装飾をとりはらう復元がおこなわれて、12世紀の姿をとりもどした?のか

後陣上部のフレスコ画「聖母の戴冠」は1491年バルトロメオ・ネグリの注文によって画かれた↓
画中の左下でひざまずいている人物が彼である↓

↑この絵の下に、ロマネスク時代のフレスコ画が隠されている???かもしれません(^_^;)

上のフレスコ画の下、内陣の床にあるモザイク画↓これがかなりめずらしい↓

12世紀前半のものとされる。
1863年の教会改修時にこのようなかたちで見られるようになった。モザイクの上に何か構築物があったので、壊されるのを免れて残ったのだと思われる。

中世の教会では床に巨大な迷路が描かれていたというが、その実物が残されているケースは非常にすくない↓
フランスのシャルトル大聖堂の床の巨大な迷図は特別だとしても、床に描かれているオリジナルはほとんどが失われている。
↓迷路とは、「真実にたどり着くための長く困難な道」をあらわしているそうな↓

迷路の上の人物。中央には「年の王」すぐ左に花を持つ「四月」、その左に角笛を吹く「三月」、一番左は乳を撹拌する「二月」

↑「年の神」の右は、鎌を持つ「五月」と続く

「六月」と「七月」の拡大図↓


迷図の四隅にはペガサスも見える。

後から調べてみると、このモザイク画がどのようなものだったのか、ヴァチカンの図書館に絵が残されているのだそうだ。
それによると、中央にはギリシャ神話の「テセウス」と「ミノタウロス」が描かれていたのだとか。
ううむ、12世紀という時代にあっても、異教的主題が教会のど真ん中に堂々と描かれていたとは、鷹揚なイタリア的だと感じる↑

柱頭の彫刻で他では見られないのが「善人の死」↓横たわった死者の魂(子供の姿)を左から奪おうとする悪魔、その口にヤリを突き立てて守る大天使↓


身廊床の中央に、これは19世紀の修復の時に設置されたのだと思われるが、皇帝バルバロッサが戴冠した場所とされる位置にある円形の印↓

神聖ローマ皇帝がイタリア王として戴冠する場所に選ばれたといういことは、まさに中世イタリア王国の首都を代表する教会だったのだ。
****
トランセプト(交差廊)右手には10世紀とされる木製の十字架を銀でカバーしたもの↓

「テオドーロのキリスト」という名前は、これがもともと「聖母マリアのテオドーロ教会」にあったものだから。17世紀にこの教会へ移された。伝承によると、エディッサのアブガル王のもとにあったとされる。アブガル王はキリストが奇跡で病を治すと伝え聞き、手紙を書いて自国へ呼び寄せようとしたとされる王。キリストに会った王の使者はキリストの肖像画を得たということになっている。

*****
地下にはさらに古い時代のクリプトがのこされている↓


↓ロンゴバルド時代8世紀ごろ?とおぼしき、より単純なロマネスク柱↓


まだまだ知るべきことがある教会だと感じるが、今日はここまで。次回には(いつ?)もう少し詳しい情報を得たいと思う。
再び外へ出て、ファサードの彫刻を見あげる↓


擦り切れているけれど、見る人がみればいろんな話があるのだろう…




↓この、ひげを引っ張られている人物、とっても気になります↓


パヴィアには他にもロマネスクの見るべき教会があるから、そのうちチャンスをつくらなくちゃ


ミカエル教会の見学がちょっと長くなった。
パヴィアの概観ももう少し見てから、「パヴィアの僧院」の方も見学することになっている。
こちらの方が世界遺産にもなっていて有名だ。

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ストラディヴァリ「ヴェスヴィオ」の演奏を聴く、ヴァイオリン工房を訪問する

2017-11-24 15:59:14 | イタリア

「ヴェスヴィオ」は、ホール全体を一つの楽器にしてしまった。
1727年(日本は八代将軍吉宗の頃)につくられた小さな木の箱が、464席のホール全体を震わせるような迫力で音楽を奏でている↓
※演奏の写真や録音は固く禁じられましたのでスタート前の写真↓

「ヴェスヴィオ」は、専用のガードマンを伴ってホールに入ってきた。もうひとりのケースを下げてきた男性が演奏者かと思ったら、彼は案内役だった。
↑上の写真で、テーブルの上に置かれているのが「ヴェスヴィオ」。ガードマン氏が常に目を光らせて立っております

演奏者は最後に入ってきた若いモルドバ国籍の女性Aurelia Macoveiさんだった。曲目を簡単に告げると、いきなり弾きはじめた。
※彼女自身のFacebookページにあがっていた、このホールでの演奏が十秒だけ見つかった
↑ホールが鳴っている雰囲気が伝われば幸いです

今日の曲名を書きとめられるだけ書き留めた。
あとから調べてみたが、不明なままの部分もあるのを容赦ください。
①バッハ、
ウォームアップ?
②ヴィヴァルディ「四季」冬
一人で弾いているとは思えない超技巧と音量。
一人の演奏なのに室内楽団ぐらいの厚みを感じさせる。
この曲はこれまでもいろいろな教会コンサートなどでの演奏を聴いていたが、まったくレベルの違う切れ味の演奏。
③クライスラー
④メランコリー
⑤カプリース「24の奇想曲」より 
パガニーニ作曲のヴァイオリン独奏曲。難易度がいっきに高くなっているのは素人でもわかる。
こんなにぶんぶん弾いて楽器が壊れないかなと思うほどの音量。
⑥ボレロ
お馴染みの曲を、ヴァイオリンのソロにアレンジしたのは誰だろう?
⑦アストゥリアス 
アイザック・アルベニス「スペイン組曲」のピアノ曲をヴァイオリンで。
⑧ポル・ウナ・カベサ Por una cabeza(元の意味は競馬の「首の差で」)
1935年の映画に挿入されたタンゴ曲。
⑨レッド・ヴァイオリン 
1998年の映画の音楽

あらためて曲目をならべてみると、年代順に選曲されていたのがわかる。
最後にRed Violinをもってきたのは、「ヴェスヴィオ」だったから?
※ヴェスヴィオについてはこちらに書きました

そして、バッハとヴィヴァルディを除くすべての曲が、「ヴェスヴィオ」がつくられてからずっと後に作曲されている。
モーツァルトの時代の楽器が、パガニーニのような超絶技巧の曲をものともせずに鳴らしているのは驚くべき事である。
「ヴァイオリンは未来を予見してつくられた、奇跡の楽器なのです」
ガイドさんのこの言葉の意味を、演奏は見事に裏付けていると感じた。
**
464席のホールを我々六人で貸し切って、ミニコンサートをしていただいたのは、今回の旅いちばんの贅沢。
ホール自体がヴァイオリンの力を引き出していることにも言及しておかなくてはならない。

設計したのは、日本のサントリーホールを手がけたのと同じ日本の永田音響の豊田氏。
ヴァイオリン博物館の建物は、もともと1941年ムッソリーニ時代に建てられたもの↓

1947年から50年代には国立弦楽器製作学校であった。コンサートホールにと提供されたのは学校の体育館。
そこを見せられた豊田氏は、コンサートホールにするには天井の高さが足りないと確信した。

妥協しない彼の姿勢はついに博物館側に理解された。
地面を四メートル掘り下げるという方法で天井の高さが確保され、求められた音響が実現したのだ。
確かにヴァイオリン演奏者の立つアンフィテアトロ(「円形劇場」の意味)のステージまでには、入り口からだいぶ降りていかなくてはならない。

↓ヴァイオリンと同じ木でつくられたホール全体の構造も、実に楽器のようではないか↓


全九曲のミニコンサートのあと、専任の日本人博物館員の方に案内していただいた。
ここの見学は二回目だったが、前回とはまたちがった内容を知ることができた。
※前回の写真日記はこちらからごらんください

先ほど演奏されていた「ヴェスヴィオ」はもうケースの中にもどされている↓

***
歴史的なヴァイオリンを数多く所有するここクレモナのヴァイオリン博物館だが、世界には弾かれずに骨董品化して朽ちていきかねない名品がたくさんある。
その所有者達も、楽器はテーブルウェアとは違うということを認識して、クレモナの博物館に管理をゆだねる人も多いらしい。
Friends of Stradivariとは、そんな楽器たちの展示↓


↓「ヘリアー」というバイオリンは、アントニオ本人からヘリアー氏にわたったことからその名前となっている
初期の製品に特長的なのが、こういったデザインなのだそうだ↓

このヴァイオリンはヘルバート・アクセロードのコレクションとなっていた。

調べてみるとヘルバート・アクセロードはロシアからアメリカに移民したユダヤ人一族の出身で
朝鮮戦争に従軍していた時に書いた熱帯魚類の本が評判となり
その後、その道のエキスパートとして巨万の富を築いていった。

個人的にヴァイオリンを弾いていて、
1975年48歳の時にはじめてのストラディヴァリを手に入れた。
いったい何台のストラディヴァリを所有していたのかわからない。
2003年にクレモナ市に寄贈したCLISBEEがあり、ワシントンDCのスミソニアンには名品四つが寄贈されて「アクセロード・カルテット」と呼ばれているようだ。

しかし、2004年に脱税で訴追されると、出廷せずにキューバに脱出。
ベルリンで逮捕され、18か月刑務所に入れられた。
その後はスイスで過ごしていたようで、
今年2017年の五月にスイスで亡くなっていた。

数々のストラディヴァリウスのストーリーを追っていくと、多くの富豪の生涯に出会う。
その全員が、(あたりまえだが)死を迎える。
その時、ヴァイオリンはお金とは別に、寄付されたり託されたりしている。
楽器の価値というのは、最終的にお金で測ることは出来ないと感じるのだろう。

*****
もうひとり。
富豪ではないが、ジョゼッペ・フィオリーニという人物の事を、今回の訪問で認識した。↓

アントニオ・ストラディヴァリの死後、残念なことに彼の技術を継承する人物に恵まれず、残された多くの製作器具は(さる事情から)売却されて使われることなく眠っていた。それを買い取ってクレモナ市に寄贈し、弦楽器製造学校の創立を依頼した人物。

ここまでストラディヴァウスを所有していた富豪の話ばかりきいていたので、
「彼もお金持ちだったんでしょうねぇ」と誰かが言うと
「いえいえ、彼はぜんぜんお金持ちじゃなかったんです。苦労してお金を集めて買い取ったんです。」
と、ガイドさんが説明された。

ジョゼッペ・フィオリーニはボローニャのヴァイオリン製作者で、ストラディヴァリの遺品の価値を認識し、使われず、研究もされずにあったその品々をなんとか生かしたいと思い、所有者の高額な提示金額を私費で調達した。
買い取った品々を自分の町ボローニャではなく、ストラディヴァリの故郷クレモナの町に託し、技術の復活を願って弦楽器製造学校の創立をクレモナ市に要請した。
彼は1934年に没したが、四年後ついにクレモナの地に弦楽器政策学校が設立された。1941年いわゆる「ファシスト様式」で建設された建物を、現在改築して博物館にしているのである。

******
クレモナの地は、アントニオ・ストラディヴァリをはじめとするニコロ・アマティの弟子たちの技術を継承するヴァイオリン工房がたくさんある。職人年鑑に登録されているマイスターだけでも百人に以上になるのだそうだ。
世界中のヴァイオリニストが、自分の生涯の楽器を探そうとする時クレモナにやってくるのである。

日本人の弟子をかかえる工房を訪ねることができた↓

こちらのマイスター氏は、自身も演奏家だったことがあり、何度も日本を訪れている↓

工房には、自分の作業台を持つ日本人のお弟子さんがおられた。ヴァイオリン作りというのは一台を最初から最後まで一人の職人が行う。それによって、工房ではあるけれど個人の製作したヴァイオリンがつくられていく↓


ニスは何十回も塗り重ねられ、二階の一室で乾かされてる↓


楽器というのは美しいから良い音を出せるとは限らないが、良い音を奏でられるものは傷がある無しや高い安いに関係なく美しさを持っているきがする
この工房から将来の名器がうまれていくかもしれない。
どんな名器も、買い取ってくれる富豪ではなく、弾きこなしてくれる演奏者に出会わなければその価値は生かされない。

*******
この日の夕食、こちらからごらんください
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クレモナ到着、大聖堂・洗礼堂を見学してトローネ祭りで試食

2017-11-24 12:13:16 | イタリア
朝、パルマ出発が09:45だったので、再び市街を散歩。こういう時間、大事ですね↓
⇒※こちらからごらんください

**
一時間ほどでクレモナへ到着。こちらでも大聖堂から近いホテルを選んでおいた。午前11時だったがホテルのご厚意でほとんどの部屋へチェックインすることができた。荷物を置いてすぐに大聖堂へ向かう。午前中の開いている時間に内部を見学しておきたい。

ホテルを出てすぐ、路地の向こうに見えた大聖堂のファサード↓

広場へ出て見上げるファサードと、横に聳える百メートルを超えるトラッツォと呼ばれる塔↓

人口が十七万そこそこの町でこれだけの大聖堂がある。パルマも、モデナも…イタリア小都市群の魅力、尽きません。
入り口のロマネスクのライオン像を見て、中へ入る↓

↓これを見て、驚かないわけにはいかない↓現在の装飾は16世紀のはじめに、12世紀の装飾を全面改装してこうなったもの。

↓こちらは1522年にイル・ポルデノーネ(本名はAntonio de'Sacchis 出身都市の名前で知られるようになったのはダ・ヴィンチと同じ)が、描いた、ファサード裏に描かれた短縮法のキリスト↓足が突き出しているみたいだ。

世はまさにルネサンス。
古臭い中世のフレスコ画など一掃しようと、クレモナ市は考えたのだろう。
その最初は1507年にボッカチオ・ボッカチーノがのアプス(主祭壇の後ろの部分)上部に描いた「聖母子とクレモナの四聖人」↓

現地のガイドブックを読んでいておもしろかったのは、ボッカチーノがこれを手がける前に、もうすこし小さい「受胎告知」を描いていたこと。これは、たぶんクレモナ市によるテストだったのではないだろうか。

大聖堂の地下には、ボッカチーノが描いた「クレモナの四人の聖人たち」が葬られている地下へ降りてゆくと、聖堂の心臓部に、まずは三人の聖人の遺体がガラスの棺の中によこたわっている↓床はローマ時代のモザイクを移してきたもの↓



※以下はクレモナ大聖堂のガイドブックより
前出の絵のいちばん左に描かれた●聖Himerius(南イタリアのカラブリア生まれ、ウンブリアのアメリアにあった遺骨を西暦965年にクレモナの司教Liutprandoがクレモナにもたらした)
左から二番目、法王の冠をかぶったのが●聖Marcellinus(西暦309年、マクセンティウス支配下のローマでごく短期間だけ法皇だった人物)
聖母子をはさんで向かって右の一人目●聖Omobonoオモボーノ(12世紀クレモナの服飾人。聖職者でなく一般人ではじめて聖人となった人物。この人はクレモナでは長く人気があったらしく、あのアントニオ・ストラディバリも息子のひとりをオモボーノと名付けております。 

もうひとりの守護聖人●悪魔祓いのピエトロの棺が向かいに置かれている↓

こういった石棺には生前の逸話が刻まれることが多い。じっと見ていると、女性の頭から逃げていく悪魔が描かれておりました↓


ロマネスク時代の名残は、今も大聖堂のところどころに見ることができる↓

バロックな絵画の後ろには、隠された中世の壁画もあるのだそうだ↓


***
洗礼堂は、大聖堂があたらしくなっても12世紀の基本構造を残している↓

内部は思ったよりひろびろしている↓中央に16世紀の洗礼盤↓

周囲にロマネスク時代の遺物が展示されている。これらは行き場をなくしてしまったのだ↓
これは、聖水盤?↓

もともと洗礼堂の頂上を飾っていたという天使↓

この石の馬は、古代からのものであるかのような印象をうけた↓いい顔してます↓


クレモナの税を軽減させた中世のボールゲームの主人公?↓

※これについてはまた書きます


旧大聖堂の礎石が置かれたのは1107年日本なら平安時代のおわり。年号を刻んだ石のレプリカが残されていた↓


****
大聖堂の入り口を飾る彫刻はロマネスク時代のものだというのが一目瞭然↓フランスのシャルトルを思い出させる。モデナのヴィリジェルモも思い出す。まだまだ興味は尽きない↓

彫刻もそうだが、建物全体が見飽きない↓




トラッツォもまだ登っていないし↓

またゆっくり訪れる機会がほしい↓


*****
広場の前に市庁舎↓




今回はトローネ祭りということで、たくさんお菓子屋さんがでております↓

⇒※こちらにもう少し書きました
つくっている方が手招きして↓


試食させてくれた↓「紙じゃないよ、そのまま食べて食べて」↓

ついつい買っちゃいました(^.^)


シチリアのお菓子カンノーロもあります(^.^)

******
ランチはごくかるくサンドイッチ。小さなお店のカウンターでいただきました↓

イタリアでは「トラメッツィーノ」と言った方が、日本人がイメージするサンドイッチがでてくる。




ホテルにもどって、ひと休み。
午後三時過ぎから、こんどはバイオリン工房とミニ・コンサートが待っている(^.^)







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パルマ、ピロタ宮殿内の博物館も見所

2017-11-24 09:08:48 | イタリア
午後三時過ぎに、パルマの旧市街ど真ん中のホテルにチェックインした荷物を置いて、すぐにガイドさんと共に歩きはじめる。
12世紀の大聖堂と洗礼堂が見えてくる。いつみてもわくわくさせられる八角形のピンク色洗礼堂だ↓

前回は鐘楼が修復中でカバーされて、どう写真にとっても様にならなかったが、今回は全体を見ることができた↓
※観光後にもう一度戻って撮影↓





入口上・ルネッタの彫刻、いいですねぇ↓

外側の彫刻は全部みえたのだが、
・・・代わりに、最近ちょっとした地震があったおかげで開館時間がみじかくなっていて、今回は内部に入れなかった…
⇒※前回内部に入った時の様子や、パルマ大聖堂のコレッジョの話は、前回こちらに書きました

説教台の下はもっと古い時代の石棺を再利用したものかもしれない↓

1178年に制作されたアンテラミの十字架降下↓


ローカルガイドさんによって、フォーカスするものは違う。それが面白い。今回のガイドさんは、大聖堂でコレッジョがクーポラに描いた聖母被昇天よりも、身廊部をうめつくすマッツォーラのだまし絵の方が気に入っているようだった↓これ、たしかにおもしろいです↓

↑上の写真、一番下の部分はファサード裏の壁なのだが、あたかもそこまで天井が続いているかのように遠近法を駆使して描いている
そのファサード裏の絵の一角に、カーテンをそっと開いてこちらを見ている男がいる↓

それが、マッツォーラその人だと推察されているのそうな↑

ガイドさんは聖歌隊席の背板にある、木製の切り絵細工にも注意を促した↓

たしかにすごい。これは?
「私の村の出身の人なのよ」
もちろん16世紀の、ですが(^.^)
***
夕暮れてきたが、大聖堂裏にあるヨハネ教会へも行こう↓

こちらのクーポラの方が小規模ながらコレッジョの良さが見やすい↓

出世作のヨハネの図⇒
****
真っ暗になって、ガイドの予定時間もぎりぎりになったが、ピロタ宮殿もちゃんと時間をかけて案内してくださった↓


ここにはファルネーゼ家とゴンザーガ家の集めたコレクションと共に、1618年のファルネーゼ劇場がある↓







裏側の構造も見られる↓


今回は劇場だけでなく、イタリアでも最古のひとつと言われる考古学博物館エリアも見ることができた↓この玄武岩の巨像!↓

⇒※こちらにもう少し載せました

絵画セクションの突き当りに、見覚えある大理石の全身像が…↓

ナポレオンに二度目の妃、ハプスブルグ家のマリー・ルイーズであります↓

さすがのカノーヴァ作↓

ローマのボルゲーゼ美術館にあるナポレオンの妹を彫ったものと比肩できるのではないかと思う
絵画の彼女もありました↓

パルマは、ナポレオンが失脚して離婚してから彼女に与えらて統治した町だから。遊ぶのは大好きだったので劇場を建設したり、文化事業にお金は使ったが、政治的な事には無関心で口出ししなかったから、パルマ市民の間では幸い人気があった(^.^)

★絵画館の最大の目玉は、パルメジャニーノの通称「トルコの女奴隷」と呼ばれている肖像画↓

これ、実物をじっくりゆっくり、我々だけで心ゆくまで見ることが出来て、絵画鑑賞の喜びを満喫した。印刷や、このコンピューターディスプレイではぜったいに伝わってこない表現力。無駄とおもいつつ、少し拡大したものを載せます↓

描かれているのは、奴隷ではなく高級娼婦であったという説をとりたい。
エキゾチックに着飾るというのは、どんな時代の女性でも楽しみとするところ。
そんな女性を絵に残そうというのは、どんな時代の男でも考えそうなことである。

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