大学の近くに中世イタリア王国・ロンゴバルド王国時代の教会遺構があるということで連れて行っていただいた。
地上にはなにもないのだが、地下に降りてゆく階段がある↓
ロマネスクアーチにシンプルなセミ型デザインがほどこわれた、ロンゴバルド時代の教会があらわれた↓
ROTAN王(636~652)の時代に、アリウス派の重要な教会として建設された教会は、カトリックに変更された時に聖エウセビオ教会になった。このかたちは11世紀ごろのものだろうと思われている↓
1923年に教会は廃寺となり地上の構造物は破壊され、地下は埋められてしまっていたようだ。
最近になってその価値が再認識されるようになり、こうして発掘・公開されるようになったということ。
↓教会外壁に沿って古い墓の跡が見える↓ここからは何か発見されたの乃があったのだろうか?それは、どこに収蔵されているのだろうか?まったく解説はない↓まだまだ分からないことだらけなのです
**
近くの大学中庭↓パヴィアは1485年に開設された大学が今でも存続している↓
***
古いアーチが続く旧市街を歩き↓
大聖堂のクーポラがみえてきた↓
15世紀末に建設がスタートした大聖堂はレンガ作りで、建設途中のような印象がぬぐえない↓
ギリシャ十字型プランは、かのレイオナルド・ダ・ヴィンチやブラマンテも設計にかかわったとされるが、クーポラもファサードも、19世紀になるまでたちあがらなかったのである↓
ファサードすぐ横には1989年に崩壊した塔の残存部分が見える↓
かつてはこんな塔が聳えていた↓
11世紀から16世紀にかけていくつもの段階で建設され72mの高さがあった塔は、1989年三月のある朝突然倒壊。四人が犠牲になった。
その記念碑↓
****
ローマ時代からそうだっただろう真っ直ぐな通りをティチーノ川に向かってあるいていゆく。そろそろクリスマスの飾りつけがはじまっている↓
★コペルト橋はローマ時代にもこの場所にあったとされる橋の後を継いでいるものだ↓が、実は第二次大戦時に破壊された後に再建されたもの
※この橋の歴史を調べていくと、パヴィアという街について知ることにもなる⇒こちらに書きました
昼食は軽く。ピアディーナという、北イタリアではよく使われる生地のサンドイッチ、ちょうどよいです↓
****
午後、世界遺産のパヴィアの僧院へ向かう。小雨と霧は変わらない。
●パヴィアの僧院は、ミラノの支配者ヴィスコンティ家のジャン・ガレアッツォが1396年に建設を命じた。日本では室町時代。金閣寺が建設される前の年と言えばわかりやすかもしれない。
霧の中に木立があらわれ、その奥に入口があった↓堀を渡って入る
門に描かれたメダルの中に書かれた「GRA」Gratiarum 「CAR」Chartusiae の文字↓
「祝福されしカルトジオ会」とでも訳しましょうか。
創立者ジャン・ガレアッツォの横顔↓ガイドさんに何度も言及していただいているうちに覚えました(^.^)↓
中庭に出ると、教会のファサードが豪華な装飾を見せる↓
二十年以上前、はじめて見た時には驚きしか感じなかったが、今日あらためて見るとそのバランスの悪さがどうしても気になる。これはぜったい完成していない。細かい装飾だけでなく、基本的な構造さえも設置されずに止まったのだと感じる↓
調べていただくと、当初の完成予定図がちゃんと残されていた↓なるほど、納得。
目の前に見えていることだけを追っていては、何も理解できはしないのだ。
★ファサードの浮彫彫刻は、オルビエート大聖堂のファサードのマイターニの浅浮彫を思いだした。
↓下の図はそのひとつ。ジャン・ガレアッツォが1396年8月27日僧院建設の最初の石を置く図↓
↓こちらはジャン・ガレアッツォが1402年に没した時の葬列図。彼の墓はこの修道院にある。
建物内部の多くのルネッサンス芸術はここでは触れない。
修道僧が暮らした中庭に出る↓
こちらは小さい方の庭。教会の尖塔が見上げられる↓
ここから修道僧達の個室がならぶさらに大きな庭に出ると…
実に広大な↓
それぞれの部屋にこもり、カルトジオ会の厳しい会則によって、耕し祈る暮らしを続けていたというのだが↓
こちらは一つの部屋の専用庭↓
ある意味とても贅沢な世捨て人生活だったのではないかしらん。
修道院は清貧な暮らしを目指す僧侶の暮す場所というよりも、世を捨てても裕福な実家が修道院に寄付しているのでもうとう粗末には扱われない人たちの隠棲場所、だったのかもしれない↓博物館に、かつてもっともっと広かった敷地の様子が描かれた絵があった↓
この博物館にはファサード彫刻のホンモノも一部移動されていた↓
それはそうだろう。繊細な彫刻作品を風雨にさらされるあの場所に置き続けるのは保存上あまりに問題。
修復を行ったタイミングでレプリカに置き換えるというのはあってよい。それはガイドブックや現場の解説版にもとりたてて書かれないがよく行われていることなのである。
******
大聖堂から200mのホテルにチェックインして、1時間ほど休憩。
レストランの開く少し前に徒歩でサルデーニャ料理の店に向かった↓
ここ、以前にも紹介してもらって行った(^.^)また、来られて嬉しい↓
⇒「宝島」というお店での食事、こちらに載せました
レストランを出てホテルに戻る前に、大聖堂の夜景を観に行った↓やはり、最初にこの姿を見ると感激しますね↓
ガレリアのショッピングアーケードもクリスマスツゥリーが飾られている。トリノ市の紋章の上でお約束のぐるり回り↓
明日は、ミラノのグループツアーがあまり訪れない・それでも見ごたえのある場所を訪れます
地上にはなにもないのだが、地下に降りてゆく階段がある↓
ロマネスクアーチにシンプルなセミ型デザインがほどこわれた、ロンゴバルド時代の教会があらわれた↓
ROTAN王(636~652)の時代に、アリウス派の重要な教会として建設された教会は、カトリックに変更された時に聖エウセビオ教会になった。このかたちは11世紀ごろのものだろうと思われている↓
1923年に教会は廃寺となり地上の構造物は破壊され、地下は埋められてしまっていたようだ。
最近になってその価値が再認識されるようになり、こうして発掘・公開されるようになったということ。
↓教会外壁に沿って古い墓の跡が見える↓ここからは何か発見されたの乃があったのだろうか?それは、どこに収蔵されているのだろうか?まったく解説はない↓まだまだ分からないことだらけなのです
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近くの大学中庭↓パヴィアは1485年に開設された大学が今でも存続している↓
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古いアーチが続く旧市街を歩き↓
大聖堂のクーポラがみえてきた↓
15世紀末に建設がスタートした大聖堂はレンガ作りで、建設途中のような印象がぬぐえない↓
ギリシャ十字型プランは、かのレイオナルド・ダ・ヴィンチやブラマンテも設計にかかわったとされるが、クーポラもファサードも、19世紀になるまでたちあがらなかったのである↓
ファサードすぐ横には1989年に崩壊した塔の残存部分が見える↓
かつてはこんな塔が聳えていた↓
11世紀から16世紀にかけていくつもの段階で建設され72mの高さがあった塔は、1989年三月のある朝突然倒壊。四人が犠牲になった。
その記念碑↓
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ローマ時代からそうだっただろう真っ直ぐな通りをティチーノ川に向かってあるいていゆく。そろそろクリスマスの飾りつけがはじまっている↓
★コペルト橋はローマ時代にもこの場所にあったとされる橋の後を継いでいるものだ↓が、実は第二次大戦時に破壊された後に再建されたもの
※この橋の歴史を調べていくと、パヴィアという街について知ることにもなる⇒こちらに書きました
昼食は軽く。ピアディーナという、北イタリアではよく使われる生地のサンドイッチ、ちょうどよいです↓
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午後、世界遺産のパヴィアの僧院へ向かう。小雨と霧は変わらない。
●パヴィアの僧院は、ミラノの支配者ヴィスコンティ家のジャン・ガレアッツォが1396年に建設を命じた。日本では室町時代。金閣寺が建設される前の年と言えばわかりやすかもしれない。
霧の中に木立があらわれ、その奥に入口があった↓堀を渡って入る
門に描かれたメダルの中に書かれた「GRA」Gratiarum 「CAR」Chartusiae の文字↓
「祝福されしカルトジオ会」とでも訳しましょうか。
創立者ジャン・ガレアッツォの横顔↓ガイドさんに何度も言及していただいているうちに覚えました(^.^)↓
中庭に出ると、教会のファサードが豪華な装飾を見せる↓
二十年以上前、はじめて見た時には驚きしか感じなかったが、今日あらためて見るとそのバランスの悪さがどうしても気になる。これはぜったい完成していない。細かい装飾だけでなく、基本的な構造さえも設置されずに止まったのだと感じる↓
調べていただくと、当初の完成予定図がちゃんと残されていた↓なるほど、納得。
目の前に見えていることだけを追っていては、何も理解できはしないのだ。
★ファサードの浮彫彫刻は、オルビエート大聖堂のファサードのマイターニの浅浮彫を思いだした。
↓下の図はそのひとつ。ジャン・ガレアッツォが1396年8月27日僧院建設の最初の石を置く図↓
↓こちらはジャン・ガレアッツォが1402年に没した時の葬列図。彼の墓はこの修道院にある。
建物内部の多くのルネッサンス芸術はここでは触れない。
修道僧が暮らした中庭に出る↓
こちらは小さい方の庭。教会の尖塔が見上げられる↓
ここから修道僧達の個室がならぶさらに大きな庭に出ると…
実に広大な↓
それぞれの部屋にこもり、カルトジオ会の厳しい会則によって、耕し祈る暮らしを続けていたというのだが↓
こちらは一つの部屋の専用庭↓
ある意味とても贅沢な世捨て人生活だったのではないかしらん。
修道院は清貧な暮らしを目指す僧侶の暮す場所というよりも、世を捨てても裕福な実家が修道院に寄付しているのでもうとう粗末には扱われない人たちの隠棲場所、だったのかもしれない↓博物館に、かつてもっともっと広かった敷地の様子が描かれた絵があった↓
この博物館にはファサード彫刻のホンモノも一部移動されていた↓
それはそうだろう。繊細な彫刻作品を風雨にさらされるあの場所に置き続けるのは保存上あまりに問題。
修復を行ったタイミングでレプリカに置き換えるというのはあってよい。それはガイドブックや現場の解説版にもとりたてて書かれないがよく行われていることなのである。
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大聖堂から200mのホテルにチェックインして、1時間ほど休憩。
レストランの開く少し前に徒歩でサルデーニャ料理の店に向かった↓
ここ、以前にも紹介してもらって行った(^.^)また、来られて嬉しい↓
⇒「宝島」というお店での食事、こちらに載せました
レストランを出てホテルに戻る前に、大聖堂の夜景を観に行った↓やはり、最初にこの姿を見ると感激しますね↓
ガレリアのショッピングアーケードもクリスマスツゥリーが飾られている。トリノ市の紋章の上でお約束のぐるり回り↓
明日は、ミラノのグループツアーがあまり訪れない・それでも見ごたえのある場所を訪れます