旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

《手造の旅》五島列島 二日目~久賀島(ひさかじま)

2018-04-21 00:06:22 | 国内
福江港を朝09:30に出発するチャーターした船で久賀島に渡る。久賀島にはランチをつくってくれるようなお店がまだないので、今回も福江でお弁当をお願いした。
★前回はスペシャルなサンドイッチを坪内製パンさんにつくっていただいた※こちらからごらんください
今回は作り手さんが事情あってどうしても難しいということで、丸宗水産さんがこんなのを↓つくってくださった!

「しゃじゃん」とは何? 
若い社長さんがバスに乗り込んで説明してくださった「しゃじゃん」は「さざえ」だったのです!ささえご飯楽しみ!帯をとった姿は久賀島に入ってから(^.^)

港できのうガイドしてくださった永冶さんが、自らがたずさわっている「五島椿」からつくった石鹸を説明してくださった「こま通信」からひとつずつプレゼント(^.^)
永冶さんは「五島雑学事典」という、五島を解説しているいちばん詳しい(と、小松が思っている)本の著者であります

久賀島のガイドをしてくださる、長崎巡礼協会ガイドの平山さんも福江までお出迎えくださって、今回前半の案内役の方がそろったので、全員写真を撮影しました

海上タクシーに乗船



海上から島々を見ると、五島列島には平地がとても少ないのが分かる。少ない平地にはすでに仏教徒が住んでいたから、入植した切支丹たちは必然的に厳しい場所に集落をつくることになった。昭和の終わりになってこれらが次々と放棄されていく際、そこにキリスト教徒の村があった事を記憶させる十字架の像を残してあるのだそうだ↓


***
「U」字型をした久賀島←地図を載せてあります

外海に面した高台に浜脇教会が見えてくる。残念ながら緑色のネットをかぶっている現在修復中↓

コンクリート建築なのだが、海砂をつかったことによって基礎の部分がゆらいでいるのだとか↓

今回は内部もはいれませんでした。

「U」字型の内海部分にある「牢屋の﨏」に到着

ここは明治初期の切支丹弾圧のなかで最も苛烈な事件があった場所↓
二百人の信徒が押しこめられた場所につくられた教会↓

その前から入江をはさんだ場所に代官所があって、そこから牢屋の状況を監視していたと、前回話していただいた。
その場所は藤原家という庄屋の家だったのだが、今年四月からそこが久賀島の観光拠点として整備されはじめた↓
村落を見下ろす神社の下、左手下の一角に見える↓

「世界遺産・長崎と天草の潜伏切支丹関連遺産」候補リストに「久賀島の集落」として登録されているこの島。
実際に認定されたらどうしても観光拠点になる場所が必要になる。だが、その場所にかつての切支丹弾圧の拠点だった場所が選ばれたのは皮肉なことかもしれない。

同じく世界遺産候補リストになっている「旧五輪教会」まで行くにはここから歩かなくてはならない↓


「この道がいちばんの文化遺産だと、学者先生は言うんですけどね」
たしかに車が走れる道などは新しいものなのだ。

十分ほど下って海に出た↓


ちょうどテレビ撮影が来ていて旅メンバーがインタビューを受ける

風のない穏やかな午後。海は透きとおっている↓


こりこりサザエの炊き込みご飯と鯨カツサンドのおべんとう、いただきます↓


***
再びチャーター船に乗り、若松島を目指す。波が穏やかだったので「キリシタン洞窟」にも上陸できてしまいそうに近づくことができた↓




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《手造の旅》五島列島 第二回_一日目福江島

2018-04-20 16:46:17 | 国内
※昨年九月の一回目の旅はこちらから
ORC(オリエンタル・エア・ブリッジ)機は、五島福江空港に向かって降下してゆく

昨年九月に注目した手書きの機内誌、

第二号が出ていた。楽しみにしてました(^.^)↓

なんと、小松が是非訪れたいと思って行程にいれた「日の島の墓石群」と「三井楽」をとりあげてあった↓

いつも島を見ているORCのスタッフもお勧めなのか。
他の対馬、壱岐でとりあげてある場所へも是非行ってみようとおもう。

五島つばき空港到着。歩いてターミナルへ。
天気が良いのでまずは鬼岳(おんだけ)へ↓

今年は山焼きをしたのでやっと緑がもどってきたのだそうだ。
↓この球体は?
穴からのぞくと島が見えるオブジェだそうな↓




↓このつつじが植えられているのはなぜ?


カルデラが見渡せるところまで皆で登った





十一時半には椿茶屋で塩づくりを見学↓
そして昼食。羽田発06:55の飛行機だったからおなかも減ってますね(^.^)


今日の海の色は格別


福江城は日本で最後につくられた城↓外国からの侵略に備えて函館と共に建設されたとされる。幕末となり、取り壊されるまでたったの九年しか存在していなかった。石垣などはそのまま。ここまで江戸時代のオリジナルを見られる城は全国でも稀↓

城の敷地に、城の形を模してつくられた建物に歴史博物館がはいっている↓キリシタン文化はもちろんだが、他にも地元の祭がしっかり紹介されている。「ヘトマト」という祭りはこの巨大なわらじに女性を乗せて歩く、不思議なお祭り↓※こちらに長崎市の紹介ページ

こういうローカルなお祭りを間近で見に行く旅、つくってみたいです(^.^)

「弘法大師の手形」は調べてみると全国に同様なものがあるのがわかる
**
くねくねと入り江をめぐる

同じような丸い柵なのに「あれはマグロです」というのは、柵のまわりが一メートル程海面から高くなっているから。

堂島教会↓


水ノ浦教会を横目に↓

三井楽へ向かう。
ここは万葉の時代には中央にも名前がしられた寄港地だった。「ふるさと遣唐使館」の展示より↓


こだわりでコースに入れた渕の元の墓地は海岸の印象的な場所にある↓



**福江島の南西端にある大瀬崎へ向かう
立谷教会の跡地を示す看板↓

今日は入江に写る島影がとくに美しい

こういう入江で漁をするのに使う「魚見やぐら」が頂上にあることを、以前おしえていただいた。
展望台にあがって望遠レンズで見る↓

あ、これだ↓


大瀬崎は日本の灯台百選にも選ばれた場所




****18:40にコンカナ王国(ホテル)到着。ワインの試飲をちょっとできました。
今回の夕食は古民家風の別棟にて↓

長崎の博覧会での展示館として建てられたのを移築したのだそうだ。

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ミラノの「EATALY」、聖アンブロージョ教会、アンブロジアーナ図書館 ヘルシンキ経由成田帰着

2018-04-15 11:12:08 | イタリア
ミラノのガリバルディ門そのとなりにあるイタリアの食材屋EATALYへ↓ここは元劇場だった建物を改装して使っているのだそうだ↓

内部は広い吹き抜けになっている↓

二階部分に突き出したテラス部分、かつてのステージ↓なるほど


地上階には生鮮野菜がずらり↓

奥には牛乳の味がするジェラート風アイス屋さんをはじめ甘いモノもたくさん。
ワインはこんなふうに↓自分で瓶に入れて買うスタイルもある↓

安いけどきっと普通においしいんだろうなぁ

入口のこの犬は「ぼくはこれより大きいから入口で番してるね」と言っている↓
つまり、「この大きさより大きい犬は中に連れて入ってはいけません」という意味↓


***
定番ツアーのミラノ観光はすでに経験したことがある皆さんなので、聖アンブロージョ教会へご案内↓ミラノは「最後の晩餐」なしでも十分に見所がたくさんあるのです↓
ローマ時代の町の門のところで降りて↓

くぐると二つの塔に挟まれた本堂が見える↓

今日は花市をやっていて、緑多い庭園の中の教会になっている↓

★教会内部について、昨年書いたブログをお読みいただけます


↓「悪魔の角が刺さった柱」についてはこちらに書きました


****
アンブロジャーナ図書館は、カルロ・ボロメオのいとこにあたるフェデリコ・ボロメオ枢機卿が設立した↓彼の立像↓

何度来ても発見のある場所
ヴァチカンの「アテナイの学堂」の実物大下絵は今回修復中↓修復部屋が公開されている。寝かされているのがそれ↓いつもは突き当りの壁一面に展示されている

デジタル解説版より↓


レオナルド・ダ・ヴィンチの弟子やレオナルド派と呼ばれるひと目でそっくりの絵画もたくさんある↓

↑ベルナルディード・ルィーニはレオナルドと直接一緒に仕事をしていたと言われる。この作品はレオナルドが構図や下絵を描いたのではないかと言う人もあるそうな。
ルイーニの描いた壁一面のフレスコ画もここにある↓


あ?これはパリのルーブルにあるレオナルドの「洗礼者ヨハネ」とそっくり↓

モデルはレオナルドのお気に入り弟子だったサラーイ(本名ジャン・ジャコモ・カプロッティ)だった。容姿端麗でレオナルドに愛されていたが、レオナルドのモノを度々盗むなど素行には問題があって「サライ(小悪魔)」のあだ名で呼ばれるようになった。
絵描きとしての技量はこれまでたいしたことはないとされていたのだが、下の絵がサライの自画像と考えられるところから、実は腕前もかなりのモノだったのかもしれないと、近年評価が変わってきているとか↓ううむ、そう確かに巻き毛の表現など近くで見ると迫真↓

↑この顔が前出の「洗礼者ヨハネ」のモデルだった美少年が中年になった姿なわけですな。

巻き毛といえば、ここにはルクレツィア・ボルジアの巻き毛が所蔵されている↓

ルクレツィアは毎年一度自分の髪の毛を探しにやってきて、自分の髪の毛にもどして洗っているので(笑)ずっときれいなのだそうです。

アンブロジャーナ図書館の必見は、レオナルドの遺稿、通称「アトランティック・コード」↓
最後の図書館らしいへやに飾ってある↓

展示替えを常にしているので同じものは見たことがない↓

間近にみるデッサン、鏡面文字、四百年以上を経てもその知的で端正な雰囲気が伝わってくる

*****
大聖堂近くのホテルにチェックインし、夕方のガレリアへ


夕食の代わりにカフェで一皿いただきました


マロッキーノ


******
翌朝、この朝食があるのでこのホテルにしたのです(^.^)


今回はヘルシンキ経由のフィンランド航空を利用。
成田上空が強風で着陸をやりなおし、三回めに二時間遅れで到着できた


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「世界遺産」カステル・セプリオ

2018-04-13 22:32:23 | イタリア
ストレーザからミラノへの途中寄り道で、あまり行かない「世界遺産」~イタリアのロンゴバルド族:権勢の足跡 を構成する九つの要素のうちの一つ「カステル・セプリオ」を訪れた↓

●サンタ・マリア・フォリス・ポルタスは「門の外のマリア」という意味。実際かつてあった町の外に作られた。
ぽつんと、ロマネスクの聖堂があった↓

内部はがらんとしている↓

近代・現代の装飾をはぎとって、ロマネスク時代の装飾をなんとか見てわかるものとして残した↓
正教会的な表現が多い↓

↑イスタンブール(旧コンスタンチノープル)の教会でよく見られる表現スタイル



↓オリジナルの床面がこれ↓





ロンゴバルド族とは、中世前期に北イタリアを支配した部族。
世界遺産の項目では「(568-774年)」と年代が付記されている。北からイタリアに侵入して王国をうちたて、フランク王国のカール大帝に滅ぼされるまでの期間になる。
この遺跡は発掘当時にはロンゴバルド時代とされていたが…最近では9世紀ごろのものかも…と推定されているそうな。いまさら認定取り消しにはならないらしい(笑)

**少し移動すると、城壁内の教会の壁が見えてきた↓

「復員者ヨハネ教会」は、古くは5世紀から6世紀のものだと推察されている↓古い時代の教会跡

14世紀の墓からは拍車がみつかって、騎士の墓と推察されている


***バスに乗ってもうひとつの世界遺産構成要素になっているトルバの修道院跡へ↓

修道院が終わった後はずっと農家の納屋として使われてきた塔↓写真左↓

二十世紀末になって研究者が入手して調査した。
壁の裏からは修道女を描いたフラスコが↓

かつての城壁の残骸↓


そばの教会はロマネスク↓ずいぶん改修された様子がわかる

内部↓


*****
ミラノへ到着してすぐにピッツェリアへ↓


イイッタリーは誰でも楽しめるスーパー




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マジョーレ湖の崖にある修道院へ

2018-04-12 15:25:14 | イタリア

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イゾラ・ベッラ(美しき島)のすぐとなりにあるイゾラ・ペスカトーレ(漁夫の島)へ向かう↓

とがった岩山だったイゾラ・ベッラにくらべてこちらは平たんだったので早くから人が住み魚を捕って暮していたと考えられている。
一周しても五分もかからない細長い島。島を縦断する路地から湖面が見える↓

「道に迷ったら『ヴァレリア~迷っちゃった~』と叫べば聞こえるわよ(笑)」とガイドさんが言ったほど小さい

島の教会はかつて小さなロマネスクの礼拝堂だった。その痕跡が見られる↓改修されて大きくなる前にはこの丸い部分が奥のつきあたりだった


島にかつてあった学校が、今は「漁師博物館」になっている↓

これまで何度かこの島を訪れたがここへ案内してくれたガイドさんははじめてだった。だが、話を聴いてこの小さな島にとって大事な場所なのだという事を理解した。

ここはかつてウーゴ・アラというヴァイオリニストの家だった
★彼がこの島に遺したものについてもう少し書きました

現在、島の漁師は五人しかいない。が、かつては島民すべてが漁民だった。
「水を吸うと重たくなるコットンの網は、三人がかりでないとひきあげられなったのよ」↓

ナイロンの網が出来てひとりでも漁をできるようになり、モーターボートが登場して漁師も毎日家に帰って来られるようになった。

***昼食を島のレストランで食べることにした↓

★魚ソースを使ったカヴァテッリ(パスタの種類)にタッジアのオリーブを加えている★

★湖のトラウトサーモン★丁寧に小骨が取り除かれており、香ばしいパン粉と甘い温野菜

この二品、あまりにおいしくて、三人前ぐらい食べてしまいました


午後になって青空がひろがってきた。ミモザの花も咲いている↓

小さな港を見守るマリア様の向こうにスイスの雪山?


今日は午後から、対岸の
★サンタ・カタリーナ修道院へ向かう


崖にへばりつくようにして建設された建物が見えてきた↓

以前、波が高い時には上陸できないこともあったが、今日は大丈夫↓

小さな船着き場から階段を上り、修道院の回廊へ入る↓

☆漁師アルベルトは1195年のある日嵐に遭遇した。聖カタリーナに祈って九死に一生を得た彼は、残りの生涯を流れ着いたこの崖に住むと決意した。アルベルトが暮らした岩屋は教会の一番奥に残されているが、その手前には16世紀後ごろの修道院がある。まずはその部分に入る↓

新しいほうの修道院部分に残るフレスコ画↓牛馬のために蹄鉄を考案した聖者の図↓

ここの主な「檀家」さんたちは、崖の上の小さな村の農夫たちだったのだ。納得。

さらに、回廊を進む。壁の上部に「死の勝利」または「死のダンス」のフレスコ画↓

ワインプレス機↓

教会に入ったところのフレスコ↓

上には別の新しいフレスコ画があったのを剥がして見つかったのだろう↓


下の写真で左に写っている場所がアルベルトが祈り、亡くなった場所↓

右側にガラスケースに入った彼自身が見える↑
ガラスの棺の上・天井部分に穴が開いているのは17世紀のある日、崖から落ちてきた石がつくった↑
幸いアルベルトの遺体は無傷だったのも「奇跡」のひとつとされる。

祭壇の新しい花崗岩はここ十年ほどの修復時にマジョーレ湖近くに古くからある採石場から奉納されたもの↓


再び船に乗り、ストレーザへ戻る。
↓港に白い像が立っているのが見えた。これは・・・大道芸人でした(^.^)


今日はお昼をしっかり食べたので夕食はあえて全員いっしょにはしなかった。ストレーザの中心広場↓










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