旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

神戸市立博物館~ザビエルの肖像も南蛮屏風も年に数度の公開

2021-08-14 15:28:39 | 国内
大雨の日、伊能図上呈200年記念特別展へ

伊能忠敬が足掛け十七年をかけて完成した日本地図は、死後三年経った1821年に孫の忠誨(ただのり)よって幕府に上程された。今年はそれからちょうど二百年にあたる。※訪問した日の小松のブログはこちらからごらんください
**
常設展も見応えがあった。

室町時代の↑木製の狛犬

↑江戸時代の薩摩切子にこんな美しいエメラルドグリーンのものがあったなんて↑

筆を洗うための器まで↑島津斉彬の娘が所蔵していた?

外国の品を模倣したデザインなのだろう、細部に小さな祖語はあるがよくできている。

↑チェコのお土産によく見るボヘミアカットグラスとよく似ている↑

↑こちらはブリストルの青いグラスにそっくり↑実際ホンモノをモデルにしたとされる↑
神戸で薩摩切子のこんなコレクションを見られるとは思っていなかった。
**

神戸周辺は遺跡も弥生から古墳時代の遺跡も多い。完璧なかたちで様々なデザインの銅鐸が多数発掘されている↑



↑明治の開港後にできた居留地にあった商館の瓦↑
「C and J Trading Company」↑
「神戸の歴史」という展示は無料公開されている。またゆっくり見学に来たい(^^)
**

↑この有名なザビエルの肖像画もここが所蔵している↑
※そのいきさつをこちらに書きました
さらに、南蛮屏風も多く所蔵している博物館なのだけれど、
残念ながら限られたときにしか公開しておりません…。
***
外を歩いていると旗がめについた

↑これって、ユダヤ教徒のシンボル「メノーラ=七つの燭台」ではないか!↑

先月「神戸歴史ウォーク」に参加していたからこそすぐに理解できた(^^)
多くのことがリンクしていきます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2000年シドニーオリンピック女子マラソンのスタジアム

2021-08-11 21:03:43 | オーストラリア

シドニーオリンピック、女子マラソンをスポンサーした企業の招待客を引率した
早朝、ホテルを出発し、沿道に弾幕を張ってまちかまえた。
場所を探しているときに、どこかでみかけた小柄髭ズラのおじさんがすわっている
か、監督もこんなところにおられるのですね。


スタートはラジオで放送された。が、オーストラリアではマラソンの中継などしない。
日本人選手はどのぐらいの位置にいるのか?
ネットもSNSも発達していない時代、ついに携帯で日本に電話。
日本選手三人ともが先頭集団にいるとわかった。わくわく。
やがて…


「がんばれー!」と声をかけたら、あっ!という間に後ろ姿を見送った。

我々もすぐにスタジアムに移動してゴールに先回りしよう。
道路は規制されているので電車移動。

マラソンファンが集まる席へ急ぐ・・・と、あれ?
フィールドではのんびりした雰囲気で走り高跳びとかをやっている。

お客さんも「日曜のお昼前にのんびりしたいなぁ」という雰囲気。
ここにほんとにマラソンランナーたちが入ってくるの?とさえおもった。

フィールド種目の予選が行われている途中で時々、「女子マラソンがこちらへ向かっています」と、画面が切り替わる。
ほっ、やっぱりゴールはここでした(笑)


高橋尚子優勝のシーンは、どこでも検索すれば見ることができるからここでは書かない。
書いておきたいのはこの日最後から二番目(三番目?)のランナーについて↓
**
高橋尚子が優勝のテープを切って一時間近く経ったがまだぽつりぽつりとランナーがもどってくる。
あと数人だろうか。

と、ポリネシア系?の選手がふらふらとスタジアムに入ってきた。
「もうゴールした」と思い込んだようでへたりこみ、
その場で神様に祈りをささげはじめた。

係員がおそるおそる近づいて
「もう一周ですよ」と声をかける。
はっとして立ち上がりトラックを走りはじめた。

オーストラリア人たちは大歓声をおくり、まるでウィニングランの様にゴールした。
この日いちばんの盛り上がりだった。

彼女は東チモールの選手だった。
当時はインドネシアが国家と認めていなかったのでIOCが「インディヴィジュアル・オリンピク・アスリート(個人的オリンピック競技者)」という名前で参加を可能にした選手の一人。
2020東京オリンピックでの「難民選手団」のような扱いである。

チモール島はオーストラリアの北岸から三百キロほどしか離れていない。
西半分がインドネシア領だが
東半分は旧宗主国がポルトガルなので言語も宗教もインドネシアとは違う。

オリンピック前年の1999年にインドネシアから独立を宣言し内戦が起きた。
首都のディリでは何百人も殺され、彼女も四人の子供たちと逃げた。
紛争に国連が介入し、
オーストラリア軍がはじめての国際貢献として派遣された。

そうだったのか。
オーストラリア人にとって彼女は
自分たちが助けた東チモールを象徴していたのだ。

翌日、オーストラリアの新聞は
優勝した高橋尚子の写真はあんまりよく撮れていない一枚だけ。

東チモールの選手には五枚使って、
「故郷を遠く離れ、ゴールまであと一周。私たちの心にも近づく」
と暖かい小見出しを書いた。

東チモールのAguida Fatima Amarals選手本人のコメント。
「歓声に包まれ夢の様だった。これは祖国にとって大きな瞬間だ。もちろん私個人にとっても」


「オリンピックを国威発揚の場にしてはならない」
「オリンピックに政治的な問題を持ちこまない」
そんな言葉をきくたびに
小松はあの東チモールの選手を思い出す。

あの時彼女はあくまで個人として全力を尽くしていた。
東チモールのために走ったわけではないけれど、
必死に完走したことで結果的に危機にある祖国のことを
少しでも世界に知ってもらうことができた。
それはオリンピックという場の力にちがいないが、
「政治利用」とは言えないと思う。

是非ではなく、
人は自分がかかわった誰かが勝てばうれしくなる。
自分自身がその勝利に何ひとつ貢献などしていなくても応援したくなる。

「人間」はその文字のとおり誰でもどこかに属して生き、
属する人種、民族、性別、あるいは国家などが危機にある時、
個人がそれぞれの立場で声をあげることは自然な権利ではないかしらん。
アスリートだけがその権利を否定されなくてはならないのはおかしくないか?

増長すればやっかいな愛国主義、民族主義、愛社精神、家族主義。
国家や宗教や、あるいは企業といったシステムがそれを利用しようと介入した時
個人は圧力をかけられ、何かを強いられることになる。

2000年のシドニーでの彼女は
純粋に自分自身のために全力を尽くしていたようにみえた。


★当日の様子を書いたブログをこちらからお読みいただけます文中で「イスラム教徒」と書いたけれど、Aguide Fatima Amaralという名前からするとキリスト教のカトリックのよう。ミドルネームの「ファティマ」はポルトガルの、20世紀に聖母マリアが出現した一大巡礼地。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チェスターのタウンクライアー

2021-08-08 08:48:42 | イギリス
2009年イギリスの旅より


中世のイギリスでは町々にニュースを伝える「タウンクライアー」という人々がいた。

※現代に復活させた動画を2009年に一分ほど撮影していました

チェスターの「タウンクライアー」がやってくるのはTHE CROSS(交差点)と名付けられたローマ時代からの中心↑
←中世にはあっただろうTHE CROSSのシンボル

※当時書いたブログにその時の様子を解説しています
今は観光用のトークをしてくれるけれど、昔はコワイお役人さんのおふれだったのではないかしらん。

チェスターにはその時代から残る木組みの家々もたくさんのこされている。

特徴的なのは二階部分がアーケードになっていること。

雨の日もずっと濡れずに歩ける。

こんなカタチにつくられたのは商店が効率よく衛生的に商売をするためだっただろう。

↑アーケードを歩きながら向かいの古い木組みの家を見たところ↑


↑チェスターは今もぐるりと城壁に取り囲まれている↑

↑古代ローマの時代⇒中世⇒19世紀と、城壁も姿を変え↑この城壁の上の時計はヴィクトリア女王の行幸を記念して設置された。
※城壁とノルマン様式の大聖堂については2016年に書きました

↑ローマ時代の遺構は今も発見・発掘され続けている。

小さな町に不似合なほど大きな教会がいくつもあり↑中世ノルマン時代=ロマネスク様式の名残も見られる。
聖職者たちの座席周辺の木彫は↓じつにおもしろい

↑これって↑誰がなにをのんでいるのかしらん?
※こちらに近影を載せました。下に小さな悪魔がいたんです(^.^)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世界はグリニッジ天文台で東西に分けられた

2021-08-06 10:43:11 | イギリス
2011年5月イギリスの旅より
1833年以来、「タイム・ボール」と呼ばれる赤い玉が「フラムスティード・ハウス」の屋根に設置されていて、毎日午後一時に落ちる↓テムズ川に停泊している船はそれを見て、搭載するクロノ・メーター(今では「時計」と呼ばれる)を合わせたのだった。

※2011年5月に書いたブログはこちらからごらんください
北極星をつかった南北緯度の計測は古代から行われていた。緯度は自然科学の問題だから誰がどこで行っても似た結果が出る。
一方、緯度と違い経度は人間が決めること。東西経度を正確に測る方法は19世紀に世界の海を支配した大英帝国においてもなお課題だったのである。
いったいどこを世界東西の基準と考えればよいのか?

↑王立協会の天文学者ジョン・フラムスティードJohn Flamsteed, (1646-1719)がここグリニッジに住み・観測し・亡くなったのは、日本なら元禄の徳川綱吉の時代。その場所が世界の東西位置の基準=本初子午線と認められたのは1884年のこと。

ニュートン(1643-1727)は自分の仮説を証明するのにフラムスティードの観測データを使おうとしたが、提供されたデーターは予想と違った。ニュートンはフラムスティードが間違っているかわざと間違ったデーターをよこしたのだと疑ったが、今ではニュートン発見できなかった法則によってフラムスティードの観測の方が正しかったことが判明している。

ハレー彗星を発見したエドモンド・ハレー(1656-1742)からも観測データーの公表を求められたが「まだ未完成」として応じなかった。1712年ハレーはしびれをきらしてフラムスティードの古い観測データを無断出版して訴訟となる。勝利したフラムスティードは無断刊行四百部のうち三百部を回収して焼却してしまった。あくまで実直な科学者であろうとしたフラムスティードの残したデータは現代でも基準になっている。各国の天文台は自分たちの観測データをフラムスティードのものと比較してその経度を割り出すことができるのだ。

フラムスティードはここグリニッジで1719年に亡くなる。
後任・第二代観測所長に就任したのは、かつてフラムスティードのデーター無断出版したハレーだった。

↑「世界の本初子午線」で、世界は東西に分けられた。

↑天文台入口には1852年世界ではじめての電動二十四時間公共時計が設置されている↑正午Ⅻは真下を指す
当時のヤードやインチなどの長さ基準器も下に設置されている。


テムズ川を見下ろす丘の上、グリニッジは今ではロンドンの中に飲みこまれてるほど近い。

**
冒頭の「タイム・ボール」はスコットランドのエディンバラでも見た記憶がよみがえった↓

カールトンヒルに登ると、市外からは見えない港が見える↓

↑この港に停泊していた船に見せるために設置されていたのか。
調べてみるとこれと同タイプの「タイム・ボール」はインドのムンバイや大西洋の孤島=セント・ヘレナ島(ナポレオンが亡くなった島)にもあったと知った。訪れる機会があるかしらん。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

18世紀のバース、古代ローマのバース

2021-08-03 15:23:34 | イギリス
2008年イギリスの旅より
パリの街並みはバースをモデルにしたとされている。
計画都市バースの中でももっとも印象的な「ロイヤル・クレセント」↓

↑弓なり=三日月(クレセント)型のアパートは1767年から1775年に建設された。日本なら江戸、田沼意次の時代。

地震のない英国。この時期はまだ基礎なしで建設されたので短期間で完成した。
三十戸の住宅が地下一階から地上三階まで縦割りで入っている。
常時住むというよりも、
貴族や金持ちがバースという歓楽都市にやってきた時のいわば別荘として使っていた人が多かったそうな。

産業革命がすすみ煤煙で真っ黒のロンドンやバーミンガムなどから逃れたい当時の「ニューリッチ」もやってきた。

街を流れるエイヴォン川にかかる「パルトニー橋」も1774年に建設された↓

およそ百年後に大改造されたパリが、このバースをモデルにしていた空気感じられます(^^)↓

社交の中心になっていたのは「パンプ(=ポンプ)・ルーム」↓

何がポンプから出ているのかというと、温泉!今も試飲させてくれるのです↓

社交場の服装やマナーを決めて仕切っていた↑リチャード〝ボーBeau(=フランス語で「伊達男」の意)”ナッシュの石像(二つ前の写真で壁に埋め込まれている全身像)が今も部屋を見張っている(^^)
↑だるだる二重三重顎の肖像画も

これらの街が建設された当時のイギリス王はハノーヴァー王朝のジョージ一世・二世・三世。同時代に生きた作曲家ヘンデルは人生の後半をイギリス皇室に庇護されていた。彼はこのバースに来ているのかしらん?
2012年にガイドしてもらったキャロラインさんとそんな話をしたことを↓当時のブログに書いていた
※元のページこちら
「褒められたらがっかりしよう」そのまま↓載せておきます↓
写真はバースの街を案内してもらったガイド、キャロラインさん。いかにもイギリス人的な雰囲気の物腰やわらなか彼女の印象が、今回のみなさんにはバースの街の印象とイコールになる。ガイドする人それぞれの持つ雰囲気はとても重要。(我々もそう言える、自戒)。
時間も足りない滞在だけれど、それでも通りいっぺんのガイドブックに載っているような話ではないものを話してほしくて、いろいな質問をしてみる。
「ヘンデルはバースに来たのでしょうか?」
「そうねぇ、ヘンデルは近くの街に四回ほど来た記録があるようよ。バースは大建設中だったけれど、きっと王様に拝謁にきたでしょうね。」
こういう言い方は優れた回答である。つまり、バースに来たという記録はないという事実ははっきり告げたうえで、隣町に四回滞在したという事実から自分の推察を付け加える。聴き手に誤解をあたえない言い方だ。
いろいろコミイッタ話を英語で質問するのに、小松もつまりながら単語をさがしながら、表現を考えながら話す。それを辛抱強く待って、彼女は回答してくれていた。
昼食レストランまで送ってくれて、別れ際に彼女が言った。
「いろいろお話できて楽しかったわ。また、お会いしましょう。それと、あなたの英語は上手でしたよ。」
こう褒められたら、がっかりしなければならない。
だってそうでしょう?本当に日本語がうまい外国人にあったら、その人に「日本語お上手ですね」なんて、言う気にもならない。
語学を褒められたら、それはつまり、たいして上手くないと証明されたという事になるのです。


ヘンデルのコンピレーションCDを買った旅だった

イギリスゆかりの音楽として小松が選ぶものに、ヘンデルの「水上の音楽」がある。
今回やはり持ってくるのを忘れてバースの街のHMVで買った。四枚組の二枚目がほとんどまるごと「水上の音楽」である。※写真参照
他の三枚についてはなにが入っているのか確認しなかったが、帰国してからゆっくりかけてみると、おお!知っている曲がぽつりぽつりとあるのです。
特に、一枚目にはOmbra Mai Fuオンブラマイフ。ずいぶん昔にCMでキャスリーン・バトルが歌っていたのを聴いて耳に刻みつけられていた。
オペラ的歌唱をほんとうに素晴らしいと感じたはじめての事だった。そうかこれも、ヘンデルの作曲だったのか。
※以前からの教会トラディショナルのメロディと詩だという話もある。
その次の曲、See The Conqu'ring Hero Comesも、題名は知らなくても聞けば誰でも知っているメロディだ。
そう、運動会の表彰式あたりで表彰状授与の時にかけられる定番曲。そうか、これもまたヘンデルの作曲だったのか。


**
18世紀のバースに人々が集まる基礎は古代ローマ時代にBATH=浴場が建設されていたから。

↑19世紀に元のかたちとはだいぶちがって再建された施設だが、すばらしい博物館になっている。

プールを囲む雰囲気のある建物は完全に19世紀の創作なのがわかる↑それでも良いのです(^^)
入場のためのトークン↑

古代ローマのバースは↑こんな城壁のある軍団都市だった↑

中心にあったのは「アクア・スリス」という女神にささげられた神殿でそこがイコール温泉場の中心↑発見されたブロンズの女神像が展示してある↑この博物館は展示物も解説も超一級で何度訪れても新しい発見がある。

↑もっとも印象的だったのはこの「カメオ」↑当時のブログからそのまま転記します↓
今回もいくつも面白いものに出会えたが、この美しい石もそのひとつ。多くの発掘品と同様にこれらも十九世紀の下水工事の際に発見された。キリスト教以前、バースの湯には「アクア・スリス」と呼ばれる女神が住んでいると信じられていたので、その神に奉納する目的で湯の中に投じられたのかもしれない。
もうひとつの説は、単に古代の入浴客が入浴中に紛失したものだというもの。
十九世紀では発見当時の状況をしっかり記録などしていないから、まったく意味の違う推察も成り立ってしまうのだろう。
いずれにしても美しい細工の石で、古代ローマのバースの様子がこの石から垣間見えるようだ。


中世のバースに建設された大聖堂もあるのだが↓

いつも古代と近代にばかり目がいって、ちゃんと見る時間がとれていません。
いつかちゃんとした解説付きで見学できるチャンスが…やってくるかしらん。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする