
3ヶ月ぶりの句会、やはり顔を見ながら、俳句や俳句のまわりの話を
しながらの句座は楽しい、ついつい多弁になってしまう。

今日も話題の中に類想類句について話がおよぶ、いつも思う事だが
類想はしかたのないこと、たった17音の中に季語として5音近くを
とられていることだし、残りの12音で物語や景色や心情を詩にするわけだから。
大切なのは俳句作家としての意識だと思っている,「自分らしく」が大切なわけで
「自分らしく」がなければ俳句を詠む意味が無いのだと思う。
また、季語というのは,詠者にも読者にも初手から,日本人特有の情らしきもの
の擦り付けがあると思う。紅白の曼珠沙華で結婚式を詠んでも、出水でカヌーを
詠んでも事実であればそれは構わない、むしろ七夕で恋、夕焼けで郷愁を詠む
よりよっぽどいいと思う。しかし俳句の世界では正解はなく、多数決という一応
の決着をつけ、どうしてもの正解を求めるのであれば結社で主宰の正解を得る
方法を求めることになる。
無季の俳句を詠んでみるとその辺がよくわかる。
つまり、読者に季語の持っている各自の背景の前に詩を置くのと、全く
白紙の状態に詩が忽然とあるのでは大いに差がある。
歌舞伎を鑑賞するのと、前衛舞踊を見るほどの違いが出る。
こんなことを書いてもそれも正解ではなく個人の意見でしかない。

ビロードの拳つきあげ鶏頭花

48畳の句会場はさすがに広い、陽射しにテーブルを移動しつつ
楽しい句会でした。ゴーヤのお菓子は後を引きます.ご馳走様でした

これ以上赤くはなれぬ唐辛子 あのさ
ちちははの比翼の日々やとろろ汁 あいさ
今日の句会でころころが特選に頂いたお句です。