俳句はどんなときに生まれる?

2005-10-09 00:37:56 | Weblog
      のち

  自分の場合,先人の句集を読んでいる途中からいつしか自分の世界に
  入る事が多い。句集を見ているようで見ていない。
  きっと,俳句のエンジンのかかる瞬間なのだと思う。
  
  先日のブログでも書いた、特選に選んだ佳句。
  「これ以上赤くはなれぬ唐辛子」
  このような句に出会うとますます触発されてしまう。
  
  作者がそうとうご自分に鞭をいれて,俳句をされている心境が伝わる。
  その作者の俳句心を動かしているのは、俳句の仲間の俳句心。
  何年か前に自分ももう俳句はいいかな?と思うときがあった。
  やめるとかするとか言うものではなく、適当に俳句にかかわって
  いたいが本音。
  普段は感じていないが、かなりのエネルギーがいる。
  日常生活で使っていない感性をフル稼働させなければ、詠む事も鑑賞
  することも出来ない。
  
  文法はテキストでも学ぶ事ができる、しかし本当の意味での俳句の力は
  やはり独学では無理だろう。
  多作多捨という言葉があるが、実際自分で自分の句を簡単に捨てられる
  わけもなく、やはり句座において切り捨てられる事が一番だ。
  
  何時しか自分の句が一人歩きをして、誰かの気持ちを揺さぶることが
  出来たなら本望である。


       ころころの今日の俳句

        灯の闇に深入りしたり風の盆 


       ころころの独り言

   客観的に自分の俳句を採点すれば51点だと思う。
   

       ころころのお気に入り


         秋深し鉄瓶に足す山の水   宮内志乃


     
コメント
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