企業活動においては、売上とそれを得るための費用とが対応することが原則である。何の費用もかけずに売上だけが発生することはないし、費用ばかりかけて売上がなければ、その企業は破綻する。また、売上と費用とが同額なら、その企業活動は拡大せず、不測の事態に直面しようものなら、やはり破綻する。健全な企業というのは「収入=費用+利益」という式で表現できる。
このように書くと、誰もがそんなことは当然だと思うだろう。しかし、被雇用者という立場にある人の中で、自分が所属する企業においては自分自身が費用そのものであるという自覚を持っている人がどれほどいるだろうか? 自分の職場での行為がどれほどの価値を生み出しているのか、考えたことがある人はどれほどいるだろうか?
企業組織が大きくなればなるほど、そこで発生する個々の作業は細分化され専門化されるものである。その結果、収益獲得に直接関与しない部門も多くなる。そうしたコストセンターが肥大化すると、先に示したような式は成り立たなくなる。つまり、企業は健全な状態ではなくなってしまう。しかし、個々の被雇用者にしてみれば、企業の目的など眼中にないので、たとえコストセンターでも自分の所属する部門を肥大化させることに自分の存在意義があるという妄想に取り憑かれしまう人も珍しくない。無用の仕事を創造し、増殖させ、そこに自分の既得権を根付かせ、極めて限られた領域のなかで自己主張を通すことに喜びを得ている輩である。それは癌細胞のようなものなので、早期発見早期根絶という方針で対処しないと、やがて組織全体が崩壊してしまう。
ところで、先の式は個人の生活あるいは家計にも当てはまる。家計においては「利益」という概念は無いので、これを「貯蓄」に置き換える。「費用」は「労働」のことである。自己の労働力を行使することで、その対価としての収入を得るのである。それが健全な生活というものだ。労働力を行使するというのは、自己の身体能力を活用するということで、なにも四肢を使うことだけが労働ではない。そう考えると、不法行為や理不尽な行為をしない限り、不労所得というものは存在し得ないということになる。不動産経営も資産運用も知恵を働かせているのだから、立派な労働である。まず、働く。それが生きることの基本であるということだ。
働くことが生きることの基本であるということは、それが生きる上でのもうひとつの支柱である自尊心と密接に関係するということでもある。このことが企業内で組織の行動目標と個人のそれとの間に葛藤や対立を引き起こす一因となることもある。つまり、個人が与えられた職域で過剰に存在意義を主張することが、組織全体の利益を毀損することになる場合もあるということだ。こうした組織内部の利害対立を調整するのも経営管理の重要な役割なのだが、それを自覚できない管理職が少なくないのが現状だろう。組織論や人心掌握のできない管理職とエゴ爆発社員との狂騒があちこちで繰り広げられながら、世の中はまわっているのである。誰もが善かれと思って行動しているので、余計に始末が悪い。
表題の「与えよ、さらば与えられん」という言葉は、新約聖書のなかのルカの福音書のなかにある。相手からの見返りを期待せずに、自分がして欲しいと思うことを相手に施せば、相手からも感謝されるし、自分も気分がよくなる。それが神の祝福でもある、ということなのだそうだ。収入を得るには、まず働け、などという下世話な話ではない。ただ、自分のほうから先に行動を起こす、ということが似ていると思ったので表題に使っただけのことだ。さすがに聖書には良い言葉がたくさん詰まっている。ありそうであり得ない、というところがまたいい。
参考:「Holy Bible English standard version Collins」より
The New Testament, Luke 6:38
‘Give, and it will be given to you.’
「与えよ、さらば与えられん」というのはこの部分のことだが、その前段に似たような意味のことが繰り返し書かれている。例えば、この直前にはこのような文言がある。これもしばしば引用されるところだ。
The New Testament, Luke 6:35
But love your enemies, and do good, and lend, expecting nothing in return, and your reward will be great, and you will be sons of the Most High, for he is kind to the ungrateful and the evil.
このように書くと、誰もがそんなことは当然だと思うだろう。しかし、被雇用者という立場にある人の中で、自分が所属する企業においては自分自身が費用そのものであるという自覚を持っている人がどれほどいるだろうか? 自分の職場での行為がどれほどの価値を生み出しているのか、考えたことがある人はどれほどいるだろうか?
企業組織が大きくなればなるほど、そこで発生する個々の作業は細分化され専門化されるものである。その結果、収益獲得に直接関与しない部門も多くなる。そうしたコストセンターが肥大化すると、先に示したような式は成り立たなくなる。つまり、企業は健全な状態ではなくなってしまう。しかし、個々の被雇用者にしてみれば、企業の目的など眼中にないので、たとえコストセンターでも自分の所属する部門を肥大化させることに自分の存在意義があるという妄想に取り憑かれしまう人も珍しくない。無用の仕事を創造し、増殖させ、そこに自分の既得権を根付かせ、極めて限られた領域のなかで自己主張を通すことに喜びを得ている輩である。それは癌細胞のようなものなので、早期発見早期根絶という方針で対処しないと、やがて組織全体が崩壊してしまう。
ところで、先の式は個人の生活あるいは家計にも当てはまる。家計においては「利益」という概念は無いので、これを「貯蓄」に置き換える。「費用」は「労働」のことである。自己の労働力を行使することで、その対価としての収入を得るのである。それが健全な生活というものだ。労働力を行使するというのは、自己の身体能力を活用するということで、なにも四肢を使うことだけが労働ではない。そう考えると、不法行為や理不尽な行為をしない限り、不労所得というものは存在し得ないということになる。不動産経営も資産運用も知恵を働かせているのだから、立派な労働である。まず、働く。それが生きることの基本であるということだ。
働くことが生きることの基本であるということは、それが生きる上でのもうひとつの支柱である自尊心と密接に関係するということでもある。このことが企業内で組織の行動目標と個人のそれとの間に葛藤や対立を引き起こす一因となることもある。つまり、個人が与えられた職域で過剰に存在意義を主張することが、組織全体の利益を毀損することになる場合もあるということだ。こうした組織内部の利害対立を調整するのも経営管理の重要な役割なのだが、それを自覚できない管理職が少なくないのが現状だろう。組織論や人心掌握のできない管理職とエゴ爆発社員との狂騒があちこちで繰り広げられながら、世の中はまわっているのである。誰もが善かれと思って行動しているので、余計に始末が悪い。
表題の「与えよ、さらば与えられん」という言葉は、新約聖書のなかのルカの福音書のなかにある。相手からの見返りを期待せずに、自分がして欲しいと思うことを相手に施せば、相手からも感謝されるし、自分も気分がよくなる。それが神の祝福でもある、ということなのだそうだ。収入を得るには、まず働け、などという下世話な話ではない。ただ、自分のほうから先に行動を起こす、ということが似ていると思ったので表題に使っただけのことだ。さすがに聖書には良い言葉がたくさん詰まっている。ありそうであり得ない、というところがまたいい。
参考:「Holy Bible English standard version Collins」より
The New Testament, Luke 6:38
‘Give, and it will be given to you.’
「与えよ、さらば与えられん」というのはこの部分のことだが、その前段に似たような意味のことが繰り返し書かれている。例えば、この直前にはこのような文言がある。これもしばしば引用されるところだ。
The New Testament, Luke 6:35
But love your enemies, and do good, and lend, expecting nothing in return, and your reward will be great, and you will be sons of the Most High, for he is kind to the ungrateful and the evil.