石川淳の短編である。講談社文芸文庫で読んだが、表題作のほかに「八幡縁起」と「修羅」が収められている。たまたまフランシス・ベーコンの絵を見たばかりだったので、それを文学で表現したもののように思われて、どの作品にもそれぞれに引き込まれてしまった。
「紫苑物語」は、人の本性のようなものを語っている。人に化けた狐や、人に取り憑いた狼が登場する。しかし、獣も人も己の欲望に従って生きているという点では同じであり、化けるとは言っても、単に見え方の違いでしかないということだろう。さらに、仏は鬼であり鬼は仏でもあるというのも同じことである。仏とか鬼とかいうものが個々にあるのでなく、仏に見えるものも別の角度からは恐ろしげな鬼に見えるということだ。
主人公と父親との別れも興味深い。父親は高名な歌詠みであり、主人公も幼い頃から歌に並外れた才気を見せていた。しかし、ある時、7歳の主人公は自分の歌に入れられた父親の直しに納得がいかず、歌を詠むのをやめてしまう。父親は歌を詠まなくなったわが子を疎ましく思うようになる。子供を自分の自我の延長線上にしか認識していないからこそ、自分の思い通りにならない子供は憎悪の対象でしかなくなってしまう。親子といえども、特別な関係ではなく、自己と他者という数多の関係のひとつに過ぎないということをわかりやすく表現している。
また、歌詠みという職業が高貴で武芸者を下賤なものとする父の価値観も我々の多くに共通しているものの見方であろう。物事に序列をつけ、そのなかで自分の位置づけ、自分の身の回りの人々の位置づけを明らかにして、安心したり、誇ってみたり、蔑んでみたりするのである。犬や猿と変わるところがない。主人公のように自分自身の座標軸をきっちり持っている人間が稀であるからこそ、主人公の生き様に威風堂々たるものを感じ、憧憬の念すら起こさせるのだろう。
「八幡縁起」は神話のようであるが、神が単なる儀式に、すなわち本旨が枝葉末節に取って代わられる流れのようなものを表現しているようだ。要するに、人は自分が見たいと思うものしか目に入らないのである。物事はその時々の権力に都合に合わせて歪曲され変容する。その繰り返しが人の歴史でもある。
「修羅」は生きることを語っている。応仁の乱で荒れ果てた都を舞台に、一休宗純を語り部にして、生きるとは何かを紡ぎ出している。もちろん、それだけでは話にならないので、横糸に物欲とただ生きることだけに従っている獣とさして変わらぬ足軽の日常を描き、全体として、人が生きるとはどのようなことなのかということが浮き出るようになっている。真の人の生とは、結局のところは他者との心の交わりなのだと思う。己を知り、己の我を手なずけなければ、我が他人を食い物にし、己自身にもやがて牙をむく。世の理を悟り、そのなかで我を存分に生かし、他人の我にも敬意を払うことで、人は真の友を得、伴侶を得ることができるということなのだと思う。
どの話も心にしみる良い話ばかりだった。
「紫苑物語」は、人の本性のようなものを語っている。人に化けた狐や、人に取り憑いた狼が登場する。しかし、獣も人も己の欲望に従って生きているという点では同じであり、化けるとは言っても、単に見え方の違いでしかないということだろう。さらに、仏は鬼であり鬼は仏でもあるというのも同じことである。仏とか鬼とかいうものが個々にあるのでなく、仏に見えるものも別の角度からは恐ろしげな鬼に見えるということだ。
主人公と父親との別れも興味深い。父親は高名な歌詠みであり、主人公も幼い頃から歌に並外れた才気を見せていた。しかし、ある時、7歳の主人公は自分の歌に入れられた父親の直しに納得がいかず、歌を詠むのをやめてしまう。父親は歌を詠まなくなったわが子を疎ましく思うようになる。子供を自分の自我の延長線上にしか認識していないからこそ、自分の思い通りにならない子供は憎悪の対象でしかなくなってしまう。親子といえども、特別な関係ではなく、自己と他者という数多の関係のひとつに過ぎないということをわかりやすく表現している。
また、歌詠みという職業が高貴で武芸者を下賤なものとする父の価値観も我々の多くに共通しているものの見方であろう。物事に序列をつけ、そのなかで自分の位置づけ、自分の身の回りの人々の位置づけを明らかにして、安心したり、誇ってみたり、蔑んでみたりするのである。犬や猿と変わるところがない。主人公のように自分自身の座標軸をきっちり持っている人間が稀であるからこそ、主人公の生き様に威風堂々たるものを感じ、憧憬の念すら起こさせるのだろう。
「八幡縁起」は神話のようであるが、神が単なる儀式に、すなわち本旨が枝葉末節に取って代わられる流れのようなものを表現しているようだ。要するに、人は自分が見たいと思うものしか目に入らないのである。物事はその時々の権力に都合に合わせて歪曲され変容する。その繰り返しが人の歴史でもある。
「修羅」は生きることを語っている。応仁の乱で荒れ果てた都を舞台に、一休宗純を語り部にして、生きるとは何かを紡ぎ出している。もちろん、それだけでは話にならないので、横糸に物欲とただ生きることだけに従っている獣とさして変わらぬ足軽の日常を描き、全体として、人が生きるとはどのようなことなのかということが浮き出るようになっている。真の人の生とは、結局のところは他者との心の交わりなのだと思う。己を知り、己の我を手なずけなければ、我が他人を食い物にし、己自身にもやがて牙をむく。世の理を悟り、そのなかで我を存分に生かし、他人の我にも敬意を払うことで、人は真の友を得、伴侶を得ることができるということなのだと思う。
どの話も心にしみる良い話ばかりだった。