今、マルグリット・ユルスナールの本を読んでいるのだが、この人は初等教育を家庭で受けたのだそうだ。欧州のブルジョアジーや上流階級に属する人々は家庭に教育能力が備わっているので、高等教育以外は家庭で完結できてしまうのだという。
欧州のような階級社会なら、生まれによってその人が接する社会がある程度限定されるので、上流系の人ほど敢えて下流系と接点を持つ理由がないということだろう。当然、そうしたやんごとなき人々の通う高等教育機関も限られたものになるので、そこに不毛な詰め込みや無意味な競争は無く、所謂教養主義的な浮世離れした世界が形成されるのだろう。断っておくが、詰め込みや競争が無いとは書いていない。彼等の共通言語となる知識は詰め込まねばならないだろうし、彼等の間での競争はあるだろう。日本人や米国人が欧州社会に入り込めないのは、端的には欧州上流層の共通言語である哲学やその他諸々の教養を語る能力が欠如しているからだろう。
大学進学率が3割を超えた状況を教育の大衆化と呼ぶということを聞いたことがある。文部科学省の「学校基本調査報告書」によると、日本では2006年3月の高等学校卒業者の52.4%が大学または短大へ進学している。こうした教育の大衆化のなかで、有象無象に無理矢理序列を付けるために、例えば偏差値だのセンター試験だのといった規格化された知識の量のみを問うような不毛なシステムが登場する。日本の場合、大学は官吏や会社員を養成するための機関という程度の意味しかないので、不毛なシステムで十分なのだが、これでは国家元首とか多国籍企業の経営者というような器は養成できない。今の日本では、大学は高等教育機関というより大衆社会のなかの風景に過ぎない。
経済力に比して国際社会のなかでの発言力が弱いのも、その発言の実際的な当事者たる政治家がいないのも、こうした世の中のしくみに起因していると思う。かつて田中角栄が、真に政治家と呼ぶことのできる人間は自分と三木武夫くらいだ、というような発言をしたらしい。日本では人の上に立つ人物を養成するという発想が無いのだから、政治家がいないのは当然なのである。たまたま安倍、福田と非力な首相が続いたということではなく、これが日本の常態なのである。
ちなみに、今年で34回目となった先進国首脳会議の出席者を見ると、1975年の第1回から参加している6カ国のなかで、出席者の交代が最も少ないのはフランスとドイツである。34年間にわずか3回しか首脳が交代していない。逆に最も交代が多いのはイタリアで18回だ。しかし、イタリアは他の5カ国と違って、政権を退いた後に復帰した首脳が何人もいるので、サミット経験者の数は13人である。経験者の数が最も多いのは日本で16人(1980年、大平正芳首相の急死で代理出席した大来佐武郎外相を除く)、つまり同期間に少なくとも15回は首脳が交代したことになる。日本の場合、羽田孜や細川護煕のようにサミットに出席せずに任期を終えた首相もいるので、政権交代頻度は先進国の中で他を引き離して最も高いということになる。米英はどちらも5回である。
かつて日本は「経済一流、政治三流」などと称された時代もあった。そもそも企業活動の領域は、西洋社会ではやや下に見られる領域なので、人材の質において日本が優位に立つことができたということなのだろうか。有象無象どうしの比較なら、日本のほうがましであるということだろう。これは、こちらで生活していて実感として頷くことができる。
欧州のような階級社会なら、生まれによってその人が接する社会がある程度限定されるので、上流系の人ほど敢えて下流系と接点を持つ理由がないということだろう。当然、そうしたやんごとなき人々の通う高等教育機関も限られたものになるので、そこに不毛な詰め込みや無意味な競争は無く、所謂教養主義的な浮世離れした世界が形成されるのだろう。断っておくが、詰め込みや競争が無いとは書いていない。彼等の共通言語となる知識は詰め込まねばならないだろうし、彼等の間での競争はあるだろう。日本人や米国人が欧州社会に入り込めないのは、端的には欧州上流層の共通言語である哲学やその他諸々の教養を語る能力が欠如しているからだろう。
大学進学率が3割を超えた状況を教育の大衆化と呼ぶということを聞いたことがある。文部科学省の「学校基本調査報告書」によると、日本では2006年3月の高等学校卒業者の52.4%が大学または短大へ進学している。こうした教育の大衆化のなかで、有象無象に無理矢理序列を付けるために、例えば偏差値だのセンター試験だのといった規格化された知識の量のみを問うような不毛なシステムが登場する。日本の場合、大学は官吏や会社員を養成するための機関という程度の意味しかないので、不毛なシステムで十分なのだが、これでは国家元首とか多国籍企業の経営者というような器は養成できない。今の日本では、大学は高等教育機関というより大衆社会のなかの風景に過ぎない。
経済力に比して国際社会のなかでの発言力が弱いのも、その発言の実際的な当事者たる政治家がいないのも、こうした世の中のしくみに起因していると思う。かつて田中角栄が、真に政治家と呼ぶことのできる人間は自分と三木武夫くらいだ、というような発言をしたらしい。日本では人の上に立つ人物を養成するという発想が無いのだから、政治家がいないのは当然なのである。たまたま安倍、福田と非力な首相が続いたということではなく、これが日本の常態なのである。
ちなみに、今年で34回目となった先進国首脳会議の出席者を見ると、1975年の第1回から参加している6カ国のなかで、出席者の交代が最も少ないのはフランスとドイツである。34年間にわずか3回しか首脳が交代していない。逆に最も交代が多いのはイタリアで18回だ。しかし、イタリアは他の5カ国と違って、政権を退いた後に復帰した首脳が何人もいるので、サミット経験者の数は13人である。経験者の数が最も多いのは日本で16人(1980年、大平正芳首相の急死で代理出席した大来佐武郎外相を除く)、つまり同期間に少なくとも15回は首脳が交代したことになる。日本の場合、羽田孜や細川護煕のようにサミットに出席せずに任期を終えた首相もいるので、政権交代頻度は先進国の中で他を引き離して最も高いということになる。米英はどちらも5回である。
かつて日本は「経済一流、政治三流」などと称された時代もあった。そもそも企業活動の領域は、西洋社会ではやや下に見られる領域なので、人材の質において日本が優位に立つことができたということなのだろうか。有象無象どうしの比較なら、日本のほうがましであるということだろう。これは、こちらで生活していて実感として頷くことができる。