先日、食事をしながらの会話のなかで、友人が「日本映画はちまちましていて、テレビの2時間ドラマみたいなやつが多い」とのたもうた。「そうかねぇ」と軽く流してしまったが、やはりテレビドラマと映画は違うような気がする。なにがどう違うのかと尋ねられれば、明快に答えることはできないのだが、細かな違いが満ちあふれているように思うのである。
例えば映像の構図が全く違う。映画は人物と同じくらい背景に重要な意味があることが多いが、テレビは人物中心に絵が作られる。端的には、映画は台詞のある場面でも人物の全身が画面に収まっていることが多いが、テレビは半身あるいは首から上ということが多い。他にも、台詞の振り方とか、平均的なシークエンスの長さとか、挙げればきりがないようにも思われる。
さて、「グーグーだって猫である」だが、これは映画というよりも、超長編CMである。不自然に「ニャンとも清潔トイレ」が散りばめられている。主人公の漫画家が飼い猫のトイレの脱臭抗菌マットを交換するシーンがあるが、交換用マットの入った袋の商品名がこれみよがしに見えるように手にしている。その漫画家がペットショップで猫の入ったケージを見ているシーンではケージひとつひとつの扉全てに「ニャンとも清潔トイレ」というシールが貼ってある。そのペットショップの至る所に「ニャンとも清潔トイレ」のパッケージが積み上げられてもいる。自分はペットは飼ったことが無いが、ペット用品の卸売業者の再生案件にかかわったことがあるので、ペットショップの様子というのは知っているつもりである。あんなに猫用トイレばっかり陳列しているショップなどあるはずがない。
これは些細なことのようだが、たとえ映像の一部であっても、不自然な部分が目に入れば、物語全体のリアリティが失われてしまうものである。それでもそうせざるを得ないほど多額の資金を花王が提供しているということなのかもしれない。
作品自体は可もなく不可もない。中途半端と言えなくもない。猫か吉祥寺か漫画家の世界のいずれかに興味がなければ、退屈かもしれない。私にとっては、吉祥寺が身近な場所であった時代もあるので、楽しく鑑賞できた。
例えば映像の構図が全く違う。映画は人物と同じくらい背景に重要な意味があることが多いが、テレビは人物中心に絵が作られる。端的には、映画は台詞のある場面でも人物の全身が画面に収まっていることが多いが、テレビは半身あるいは首から上ということが多い。他にも、台詞の振り方とか、平均的なシークエンスの長さとか、挙げればきりがないようにも思われる。
さて、「グーグーだって猫である」だが、これは映画というよりも、超長編CMである。不自然に「ニャンとも清潔トイレ」が散りばめられている。主人公の漫画家が飼い猫のトイレの脱臭抗菌マットを交換するシーンがあるが、交換用マットの入った袋の商品名がこれみよがしに見えるように手にしている。その漫画家がペットショップで猫の入ったケージを見ているシーンではケージひとつひとつの扉全てに「ニャンとも清潔トイレ」というシールが貼ってある。そのペットショップの至る所に「ニャンとも清潔トイレ」のパッケージが積み上げられてもいる。自分はペットは飼ったことが無いが、ペット用品の卸売業者の再生案件にかかわったことがあるので、ペットショップの様子というのは知っているつもりである。あんなに猫用トイレばっかり陳列しているショップなどあるはずがない。
これは些細なことのようだが、たとえ映像の一部であっても、不自然な部分が目に入れば、物語全体のリアリティが失われてしまうものである。それでもそうせざるを得ないほど多額の資金を花王が提供しているということなのかもしれない。
作品自体は可もなく不可もない。中途半端と言えなくもない。猫か吉祥寺か漫画家の世界のいずれかに興味がなければ、退屈かもしれない。私にとっては、吉祥寺が身近な場所であった時代もあるので、楽しく鑑賞できた。