熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「おくりびと」

2008年09月19日 | Weblog
ここまでわかりやすくしないといけないものなのかと溜め息が出るような作品だ。スポンサーや興行成績を意識せざるを得ない立場にある、製作に携わっている人たちの苦労が滲み出ているようにも思われた。仕事というものには自分自身思うところがあったので、その点では自分のなかの仕事観・職業観により強い方向性を得た気持ちがして、見てよかったと思う。しかし、映像作品としてはいまひとつの出来ではないだろうか。物語が出来過ぎていて展開が不自然だと思うのである。

死を穢れと感じるのは、おそらく世間一般の感情としては自然なのだろう。私は仕事の関係で葬儀会社や火葬場にお邪魔させて頂いたことがあるが、そうした会社を経営している人たちは、いかに社員に誇りを持たせるかということに腐心しておられる様子だった。今でもある種の職種に就いている人に対しての差別が現実にあるのだそうだ。

しかし、生まれたからには、遅かれ早かれ必ず死ぬのである。生が「ハレ」で死が「ケ」という単純な記号付けをするなら、その間にある人生は一体何であろう? 「ハレ」から「ケ」に向かう過程ということになるのではないか? そうだとしたら、我々の生は丸ごと否定的なものになってしまう。

おそらく多くの人は、他人の死は穢れだが、自分の死はハレだの穢れだのといった記号付けからは超越したものなのだろう。それは「考え」とか「良い悪い」というようなことではなく、文化や歴史に根ざした、感情の深いところに定着しているものの見方だと思う。それが、たとえば身内の死体をきれいにしてもらったくらいで容易に変わるものではないだろうと思うのである。

夫婦とか親子の関係という誰しもが必ず悩むであろう身近なことを、納棺という微妙な職業に乗せて、安易に描き過ぎていないだろうか? チェロ奏者だった主人公が、生活のためとはいえ、納棺の仕事にずるずると関わるようになるという設定は説得力があるだろうか? 主人公がチェロを演奏するシーンが不必要に多すぎるのではないだろうか? ほかにもいろいろ引っ掛かったところはあるのだが、要するに、話がきれいにまとまりすぎていて、現実味を感じないのである。映画なのだから、話はまとめなければならない。だからと言って、あまり物わかり良くまとめてしまうと、薄っぺらな話になり、観る側の思考が深くならないだろう。尤も、観る側に負荷をかけると興行成績に影響が出てしまうのだろう。映画をつくるという仕事もつくづく大変だと思う。