熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「山の音」

2008年09月16日 | Weblog
川端康成の作品はあまり読んだことがなかった。たぶん、若い頃によんでもその良さがわからなかったと思う。私も山の音を耳にする年齢に達してきた所為か、これは面白くて一気に読んでしまった。

良いものを自分のものにする喜びというのは誰にでもあるだろう。その「良い」を何に求めるかは人それぞれだが、それが何であっても、ほんとうに良いものというのは何がどのように「良い」のか理屈では説明できないものだ。良さを言語化できるというのは、その程度のものでしかないということだ。私は「山の音」が何故面白いのか全く説明できない。説明した瞬間、その面白さも消滅してしまいそうだ。

この作品が発表されたのは1954年4月である。私はまだ生まれていないが、ここに描かれている社会の様子はある程度想像できる。多くの人が戦場で、銃後で、地獄のような時代を経験し、戦後の混乱がようやく治まってきたものの、人々が心に受けた傷はまだ癒えてはいなかったであろう。そもそも心の傷というのは生きている限り癒えることはないものだ。折りに触れて疼き出す得体の知れない傷を抱えながら、それぞれが必死にあるべき日常を模索していたのがこの頃だったのではないだろうか。

当時の習俗として、当り前のように2世代が同居し、結婚した女性は専業主婦である。結婚は、もちろん当人同士の意志によるものもあったろうが、家というものを中心に人間関係が結ばれることが多く、不本意ながらも親が決めた相手と所帯を持つということが珍しくない時代である。それが当り前であったから、よほどのことが無い限り、夫婦関係が破綻していようが、家庭が実態として崩壊していようが、家庭とか家族が社会を構成する基本単位として機能していた。個人という概念は希薄で、家族という関係のなかで自分が守るべき立ち位置があり、しかるのちに社会における位置というものがあった。しかし、人間の心理というものは、時代が違うほどには違わないものである。親孝行だの家庭円満だのという、個人のエゴとの葛藤を生むことが明らかな価値観が尊重されるべきものとして社会にあれば、どこかしかに歪みが生じるのは自然というものだ。

その歪みの自然がこの作品の世界であるように思う。成人した子供の個人的な問題まで我が事のように扱う老親や、エゴをむき出しにしながら肝心なことは親に頼るその成人した子供たちの姿はグロテスクですらあるが、それが当り前の世界である。歪みがあるのだから、そのままではやがて崩壊する。その静かな崩壊を、季節の移り変わりとか身の回りの些細な出来事の成り行きによって饒舌に語っている。歪みや崩壊を通して浮き彫りにされるのが、人間とはいかなる動物であるのかという普遍性のあるテーマであることに小説としての技巧の妙も光る。登場人物の誰を主人公にしても成立する深さをひとりひとりが与えられている。文章のリズムは音楽のように心地よい。ほんとうの小説というのはこのようなものかと目の覚める思いがした。