また子供の妊娠話か、と思ってはいけない。子供が主役なので演技面は荒削りなのだが、話の深さがこれまでの類似作品とは比較にならないのである。
自分がこれまでに観た類似映像作品としてすぐに思い浮かぶのはテレビドラマ「3年B組金八先生」であり、最近の作品だと日本でも今年6月に公開された「Juno」である。どちらも、周囲の大人たちが妙にものわかりが良いことに違和感を覚え、みんなで命を大切にしましょう的な説教臭さが鼻についた。
「コドモのコドモ」は、小学生が出産するという話だが、要するに子供だの大人だのという区別がいかに無意味であるかということを語っている。産むという決断を下す過程に甘さがあることが、この作品に対する批判を大きくしているように思われるが、産まれてくる命を大切にしようという主人公の素朴な思いがあるからこそ出産に至るということだろう。勿論、不用意に妊娠するというのはあってはならないことだと思う。しかし、あってはならならないことが起きるのが現実というものだ。その時に、その現実をいかに受け容れるかということが、それこそ「大人」に問われるのである。この作品は危機管理のいろはについても語っているのである。
印象的だったのは主人公の担任教師や「自分の腹から出てきた子供のことは何でもお見通し」と豪語する母親が、分娩に至るまで妊娠に気付いていないことである。そこには「子供が妊娠するはずがない」という先入観がある。腹が出てきたのは、単に太ったとしか見ないし、食欲が強くなって食べる量が増えても、成長期にはよくあることと気にも留めない。主人公の異変に最初に気付くのは、主人公と特別親しい関係にあるわけでもない学級委員の女子児童である。彼女は優等生であり、学級委員という立場上、クラス内のことに人一倍注意を払っているという事情があるにせよ、このことの持つ意味は大きい。人は自分が見たいと思う現実しか見ないということなのだ。小学生の妊娠という、教師や親にとって都合の悪い現実は彼等の目に入りにくいのである。
しかし、担任教師に問題があるというわけではない。ここに登場する教師は、誰もがそれぞれに職務に熱心である。結果として、担任は辞任させられることになるが、彼女は間違ったことは何一つしていない。それは親や家族も同じことである。主人公の家は2世代同居の農家であり、主人公は高校生の姉と部屋を共同利用している。妊娠後期まで誰も気付かなかったが、さすがに祖母、そしておそらく祖父も、分娩に至る前にはそれとなくわかっていたように見える。子供のことは何でもわかると豪語した母親はとうとう気付かない。
ただ、主人公が妊娠初期に、担任教師に妊娠の可能性があることを告げているにもかかわらず、担任はそれを主人公のわるふざけと解釈し、相談に乗るどころか、事実や発言の真意を確かめようともせずに主人公を叱責している。自ら教頭に許可を求めて性教育の授業を実施しているほどの教師なのだが、まさか自分のクラスの子供が妊娠することはないという先入観があるということだ。理想の教育を目指しているが、現実の教育に目覚めるには人生経験と感性が決定的に不足しているということでもあろう。だが、彼女を責めるわけにもいくまい。
これは映画なのでデフォルメされた部分があるが、それでも我々の日常生活は根拠のない「べき」とか「はず」のことが満ちあふれている。それは習慣と呼べるほどのものでもあり、要するに考えもなしに従っているだけの社会規範なのである。平均的な人の行動の8割は習慣に拠っていると言われる。
さすがに子供たちだけで分娩まで処理してしまうとうことは、よほどの安産でもない限り無理だと思う。作品のなかでも産婦人科医に「稀に見る安産で…」と語らせて、その無理を意識しているようである。しかし、日本においても小学生の分娩はあり得ないことではない。私は中部地方の或る国立医大の先生に、その附属病院で8歳の子が出産したという話を伺ったことがある。発展途上国のなかには子供が子供を産むことなど珍しいことではないというところもあるだろう。
しかし、子供というのは日々刻々成長を続けて、さまざまな事を意識するとしないとにかかわらず学習しているのである。小学5年生ともなれば、成人並みの体力・知力・精神力を発揮する子だって珍しくはないだろう。尤も、その能力が周囲に認められるか否かは別の話である。
一方で、ある年齢を過ぎれば、人の能力は日々刻々衰退し、さまざまな能力が意識するとしないとにかかわらず失われていく。人生経験といったって、人様々で、いくつになっても自立できない人だって珍しくはない。世間体を気にすることが思考することだと思いこんでいる人、つまり、習慣を守ることと思考することの区別がつかない「大人」など数限りないのではないか。
この作品の子供たちは、少なくとも子供を産むということについて、それぞれの経験と能力に応じて思考することを余儀なくされたことだろう。だからこそ、学級委員を中心に一致団結して新しい命を守ろうとしたのである。考えのない奴なら、教師や親に恫喝されれば、たちまち態度を変えてしまう。それが一糸乱れぬ団結を見せたということは、彼等がそれぞれに考え抜いて主人公とその新しい命を守ろうと決断したということなのである。だから、彼等の軸が振れないのである。なかでも、主人公の分娩に立ち会った子供たちは、自分たちの手で命を生み出したという自信をも得たであろう。下手な教育よりもよほど有益な体験だ。
子供とか大人という区別は年齢に拠るのではない。思考する能力の多寡に拠るのである。
自分がこれまでに観た類似映像作品としてすぐに思い浮かぶのはテレビドラマ「3年B組金八先生」であり、最近の作品だと日本でも今年6月に公開された「Juno」である。どちらも、周囲の大人たちが妙にものわかりが良いことに違和感を覚え、みんなで命を大切にしましょう的な説教臭さが鼻についた。
「コドモのコドモ」は、小学生が出産するという話だが、要するに子供だの大人だのという区別がいかに無意味であるかということを語っている。産むという決断を下す過程に甘さがあることが、この作品に対する批判を大きくしているように思われるが、産まれてくる命を大切にしようという主人公の素朴な思いがあるからこそ出産に至るということだろう。勿論、不用意に妊娠するというのはあってはならないことだと思う。しかし、あってはならならないことが起きるのが現実というものだ。その時に、その現実をいかに受け容れるかということが、それこそ「大人」に問われるのである。この作品は危機管理のいろはについても語っているのである。
印象的だったのは主人公の担任教師や「自分の腹から出てきた子供のことは何でもお見通し」と豪語する母親が、分娩に至るまで妊娠に気付いていないことである。そこには「子供が妊娠するはずがない」という先入観がある。腹が出てきたのは、単に太ったとしか見ないし、食欲が強くなって食べる量が増えても、成長期にはよくあることと気にも留めない。主人公の異変に最初に気付くのは、主人公と特別親しい関係にあるわけでもない学級委員の女子児童である。彼女は優等生であり、学級委員という立場上、クラス内のことに人一倍注意を払っているという事情があるにせよ、このことの持つ意味は大きい。人は自分が見たいと思う現実しか見ないということなのだ。小学生の妊娠という、教師や親にとって都合の悪い現実は彼等の目に入りにくいのである。
しかし、担任教師に問題があるというわけではない。ここに登場する教師は、誰もがそれぞれに職務に熱心である。結果として、担任は辞任させられることになるが、彼女は間違ったことは何一つしていない。それは親や家族も同じことである。主人公の家は2世代同居の農家であり、主人公は高校生の姉と部屋を共同利用している。妊娠後期まで誰も気付かなかったが、さすがに祖母、そしておそらく祖父も、分娩に至る前にはそれとなくわかっていたように見える。子供のことは何でもわかると豪語した母親はとうとう気付かない。
ただ、主人公が妊娠初期に、担任教師に妊娠の可能性があることを告げているにもかかわらず、担任はそれを主人公のわるふざけと解釈し、相談に乗るどころか、事実や発言の真意を確かめようともせずに主人公を叱責している。自ら教頭に許可を求めて性教育の授業を実施しているほどの教師なのだが、まさか自分のクラスの子供が妊娠することはないという先入観があるということだ。理想の教育を目指しているが、現実の教育に目覚めるには人生経験と感性が決定的に不足しているということでもあろう。だが、彼女を責めるわけにもいくまい。
これは映画なのでデフォルメされた部分があるが、それでも我々の日常生活は根拠のない「べき」とか「はず」のことが満ちあふれている。それは習慣と呼べるほどのものでもあり、要するに考えもなしに従っているだけの社会規範なのである。平均的な人の行動の8割は習慣に拠っていると言われる。
さすがに子供たちだけで分娩まで処理してしまうとうことは、よほどの安産でもない限り無理だと思う。作品のなかでも産婦人科医に「稀に見る安産で…」と語らせて、その無理を意識しているようである。しかし、日本においても小学生の分娩はあり得ないことではない。私は中部地方の或る国立医大の先生に、その附属病院で8歳の子が出産したという話を伺ったことがある。発展途上国のなかには子供が子供を産むことなど珍しいことではないというところもあるだろう。
しかし、子供というのは日々刻々成長を続けて、さまざまな事を意識するとしないとにかかわらず学習しているのである。小学5年生ともなれば、成人並みの体力・知力・精神力を発揮する子だって珍しくはないだろう。尤も、その能力が周囲に認められるか否かは別の話である。
一方で、ある年齢を過ぎれば、人の能力は日々刻々衰退し、さまざまな能力が意識するとしないとにかかわらず失われていく。人生経験といったって、人様々で、いくつになっても自立できない人だって珍しくはない。世間体を気にすることが思考することだと思いこんでいる人、つまり、習慣を守ることと思考することの区別がつかない「大人」など数限りないのではないか。
この作品の子供たちは、少なくとも子供を産むということについて、それぞれの経験と能力に応じて思考することを余儀なくされたことだろう。だからこそ、学級委員を中心に一致団結して新しい命を守ろうとしたのである。考えのない奴なら、教師や親に恫喝されれば、たちまち態度を変えてしまう。それが一糸乱れぬ団結を見せたということは、彼等がそれぞれに考え抜いて主人公とその新しい命を守ろうと決断したということなのである。だから、彼等の軸が振れないのである。なかでも、主人公の分娩に立ち会った子供たちは、自分たちの手で命を生み出したという自信をも得たであろう。下手な教育よりもよほど有益な体験だ。
子供とか大人という区別は年齢に拠るのではない。思考する能力の多寡に拠るのである。