幸せとは何か、ということを考えた。それは自分の居場所があるということだ。居場所というのは、勿論、物理的な場所のことではない。人間が関係性のなかを生きている以上、心地よいと感じられる関係こそが、その人の居場所である。言うまでもなく、関係性というものは時々刻々変化を続けている。今、心地よい関係が、明日も心地よい保証はどこにもないし、むしろ心地悪くなっていることのほうが多いものである。この作品では出会ってからずっと主人公を支え続ける伴侶が登場し、その伴侶との生活のなかで自分にとって本当に大切なものが何かということに気付く主人公の姿がある。この作品はそういうファンタジーなのである。
登場人物があっけなく次から次へと亡くなるのが、いかにもこの監督の作品らしい。死を軽軽に扱っているようにも見えるので、少なからず批判もあるだろうし、不愉快に思う人もいるだろう。しかし、現実の人生というのは儚いものだろう。一見すると無駄なシーンのように見えるが、実は、主人公の周囲の人々の死ひとつひとつに意味があるように思う。事業家で成金趣味の父親の死は、経済的あるいは社会的成功の華々しさと脆弱性を示し、その夫亡き後の後妻の死は生活力を持たずに他人に依存して生きることの困難を表している。美術学校の仲間の死は、極端に近視眼的な思考が現実から遊離する姿を暗示しているように見える。そうしたなかで、相も変わらず自分の道を求め続ける主人公の姿は、社会的評価を求めるというような皮相な思考によらない、純粋なものが持つ強さを感じさせる。
半永久的に評価されない画家、というのがこの映画の主人公なのだが、それでもその作品が画廊に飾られていたり喫茶店に飾られていたりするシーンがあり、どことなく、あと一息で評価を得られるようになりそうな雰囲気が漂っていることが、この物語に光を与えているように感じられる。もちろん、主人公を丸ごと受け入れ支え続ける伴侶の存在がこの物語の中核なのだが、当事者以外は主人公の絵を全く評価しないというのでは、ただのコメディに終わってしまう可能性もある。細かいことだが、主人公の作品に客がいるという現実を与えることで、主人公夫婦の存在が荒唐無稽なものとして浮き上がらずに物語の中心を維持できていると思う。また、その安定感によって、希望のあるエンディングが生きてくる。
なお、この映画のなかにはアンディ・ウォーホル、ロイ・リキテンシュタイン、パウル・クレー、ジャン=ミシェル・バスキア、ワシリー・カンディンスキー、ピート・モンドリアン、ジョアン・ミロ、ジャクソン・ポロック、クロード・モネ、山下清ほか多くの作品をパクった作品が次々に登場するのも楽しい。
登場人物があっけなく次から次へと亡くなるのが、いかにもこの監督の作品らしい。死を軽軽に扱っているようにも見えるので、少なからず批判もあるだろうし、不愉快に思う人もいるだろう。しかし、現実の人生というのは儚いものだろう。一見すると無駄なシーンのように見えるが、実は、主人公の周囲の人々の死ひとつひとつに意味があるように思う。事業家で成金趣味の父親の死は、経済的あるいは社会的成功の華々しさと脆弱性を示し、その夫亡き後の後妻の死は生活力を持たずに他人に依存して生きることの困難を表している。美術学校の仲間の死は、極端に近視眼的な思考が現実から遊離する姿を暗示しているように見える。そうしたなかで、相も変わらず自分の道を求め続ける主人公の姿は、社会的評価を求めるというような皮相な思考によらない、純粋なものが持つ強さを感じさせる。
半永久的に評価されない画家、というのがこの映画の主人公なのだが、それでもその作品が画廊に飾られていたり喫茶店に飾られていたりするシーンがあり、どことなく、あと一息で評価を得られるようになりそうな雰囲気が漂っていることが、この物語に光を与えているように感じられる。もちろん、主人公を丸ごと受け入れ支え続ける伴侶の存在がこの物語の中核なのだが、当事者以外は主人公の絵を全く評価しないというのでは、ただのコメディに終わってしまう可能性もある。細かいことだが、主人公の作品に客がいるという現実を与えることで、主人公夫婦の存在が荒唐無稽なものとして浮き上がらずに物語の中心を維持できていると思う。また、その安定感によって、希望のあるエンディングが生きてくる。
なお、この映画のなかにはアンディ・ウォーホル、ロイ・リキテンシュタイン、パウル・クレー、ジャン=ミシェル・バスキア、ワシリー・カンディンスキー、ピート・モンドリアン、ジョアン・ミロ、ジャクソン・ポロック、クロード・モネ、山下清ほか多くの作品をパクった作品が次々に登場するのも楽しい。