熊本熊的日常

日常生活についての雑記

つれづれ

2008年09月06日 | Weblog
ブログのネタが次々に思い浮かぶときもあるが、全く浮かばないときもある。これを書くことが義務ではないのだから、無理して書くこともないのだが、以前にも書いたように、毎日書くことを自分に課しているのである。それで、少しでも取掛かりを思いつけば、ざっくりとそのことを調べて、それに自分の考えを加えてまとめている。この調べものに時間がかかることがあり、調べものを通じて別のネタに変更することもあれば、さんざん調べた挙句にそのネタを止めてしまうこともある。

今日は対馬のことを書こうと思った。長崎県対馬市の「対馬」である。途中まで書いて止めた。でもいつか書くかもしれない。もう少しいろいろ調べたり考えたりした後のことではあるが。

争い事というのは、起こすのは容易だが収めるのは難儀だ。ひとたび起ってしまえば、結果がどうあれ、失うものばかり多くて、どちらの側も得るものは存外少ないものである。他人の争い事を冷静に見れば、誰でもそう思うだろう。それが己の事となると、そうした見境がつかなくなるのは人の常というものなのだろうか。人に自我があり、その集団にも集団としての我があり欲がある。そうしたものの間で利害の対立が生じるのは当然のことなのである。その対立を回避すること、円満に収めることにこそ、人としての知恵の多寡が問われる。大概は互いに知恵を出し合い、当事者それぞれに多少の不満を残しながらも深刻な対立や紛争には至らないものだ。だからこそ、現在の我々の生活がある。

しかし、物事は思うに任せぬときもある。些細な誤解や行き違いが、取り返しのつかない状況にまで進んでしまうこともある。不思議なもので、自分と遠い相手なら諦めがつくことも、近いが故に憎悪の念が増幅されることもある。理と情の均衡が崩れて情が理に勝れば、もはや知恵など働かない。そのこと自体が悲劇であり、悲劇が更なる悲劇を生む。

自分と近いから容易に理解し合えると思うのは誤解である。近くても遠くても他者は他者だ。相手が誰であっても、同じように手間暇をかけて関係を構築し維持する心がけが、争い事を回避する基本であると思う。