竹橋の近代美術館を訪れた。企画展は「エモーショナル・ドローイング」である。コンテンポラリーは客を集めるのがたいへんだと思うが、この展覧会でも奈良美智のコーナーを大きく取っているのは、そうした運営上の工夫なのだろう。
常設展の一画で、8月22日に収録された元永定正のアーティスト・トークの映像が流れていた。「アートはアートと認められた瞬間にアートではなくなる」という氏の言葉が印象的だった。それぞれの時代において創造活動を行うのがアーチストの務めであるとするなら、現役のアーチストというのは存在しないことになる。なぜなら、本当に新しいものなら、それは既存の知性や感性を超越したものであるはずで、世の中にそれを評価することはできない。従って、評価されないものの作者は何者でもないということになるからだ。現代において高い評価を得ている芸術家のなかに、存命中は全く評価されなかった人が少なくないのは、彼等が真の芸術家であったことの証とも言える。
そう考えると、真のコンテンポラリー・アートが観客を動員できるはずがない、ということになる。現役の「芸術家」というのは、つまり大衆芸術家でしかなく、既に高い評価を得ているということは、その作品が既存の感性による評価の域を出ていない俗物である、とも言えるであろう。
以前、V&Aの美術講座で陶芸家であるGrayson Perryは自分を「professional artist」と称していた。その要件は、世の中に対して何事かを訴えることだという。作品を通して主義・主張を表現することが職業芸術家ということらしい。確かに彼の作品は饒舌だ。先日観た「アキレスと亀」でも画商が「作品にメッセージ性があるのが、そういうのがいいんだ」という台詞がある。
理屈はさておき、現実の世界において芸術とは表現であり、芸術家の存在を支えるのは、その表現に応えるパトロンと、そのパトロンの権威に追従する大衆ということなのだろう。なにはともあれ、芸術家は自分の生活を立てようと思うなら、大衆を大切にしたほうがよさそうだ。
常設展の一画で、8月22日に収録された元永定正のアーティスト・トークの映像が流れていた。「アートはアートと認められた瞬間にアートではなくなる」という氏の言葉が印象的だった。それぞれの時代において創造活動を行うのがアーチストの務めであるとするなら、現役のアーチストというのは存在しないことになる。なぜなら、本当に新しいものなら、それは既存の知性や感性を超越したものであるはずで、世の中にそれを評価することはできない。従って、評価されないものの作者は何者でもないということになるからだ。現代において高い評価を得ている芸術家のなかに、存命中は全く評価されなかった人が少なくないのは、彼等が真の芸術家であったことの証とも言える。
そう考えると、真のコンテンポラリー・アートが観客を動員できるはずがない、ということになる。現役の「芸術家」というのは、つまり大衆芸術家でしかなく、既に高い評価を得ているということは、その作品が既存の感性による評価の域を出ていない俗物である、とも言えるであろう。
以前、V&Aの美術講座で陶芸家であるGrayson Perryは自分を「professional artist」と称していた。その要件は、世の中に対して何事かを訴えることだという。作品を通して主義・主張を表現することが職業芸術家ということらしい。確かに彼の作品は饒舌だ。先日観た「アキレスと亀」でも画商が「作品にメッセージ性があるのが、そういうのがいいんだ」という台詞がある。
理屈はさておき、現実の世界において芸術とは表現であり、芸術家の存在を支えるのは、その表現に応えるパトロンと、そのパトロンの権威に追従する大衆ということなのだろう。なにはともあれ、芸術家は自分の生活を立てようと思うなら、大衆を大切にしたほうがよさそうだ。