これほど不便な場所にある美術館は珍しい。おそらく、自宅を出てからここに至るまでの間の時間と空間もこの美術館を体験することの重要な構成要素なのだろう。さらに遡って、ここを訪れようと決断するところから美術館体験が始まっているのかもしれない。ほんとうは電車とバスを乗り継いで、山道を歩いて、這々の体でここに辿り着き、がらがらがらと入口を開けてほっとする、という作法がふさわしいのだろう。
まるで田舎にある友人の家を訪ねるような感覚だ。たまたま現在の展示が「中村好文 すまいの風景」で、この空間を自宅に見立てたものである所為かもしれない。この建物の大きさと佇まいが民家のようであることも、この場に親近感を覚える要素だろう。
美術館と書いたが、ここには所謂「美術品」はない。日常生活や信仰のために名も無い人々によって作られたものばかりが並んでいる。そのデザインや存在感を体験したときの心の動きは、自分自身の日常生活のなかに散りばめられている美を再発見する契機になる。あるべきものがあるべきところに収まっていることの安心感というものを改めて意識することもあるかもしれない。
一通り鑑賞を終えてここを後にする。心安らぐ住まい方というものが、以前よりも具体的にイメージできる自分に気付く。それは住まい方だけでなく生き方にも通じる、と言ってしまうと少し大袈裟になるが、住まい方は生き方の端的な表現であることは確かだ。これから普段使う道具や雑貨を選ぶとき、もっとたくさんのことを考えてみようと思う。そこから何か自分にとって大きなことも変わるかもしれない。