以前からスーザン・ソンタグの書いたものを読みたいと思っていたのだが、ようやく手にした。これは最初に読むものではなく、「反解釈」とか「写真論」の後にくるものだということはわかっているが、薄くて読みやすそうだったのでここから始めた。
内容はまっとうで、わかりやすい。ただ、取り上げられている写真のことを知らない人にはなんのことかさっぱりわからないのではないかと思う。著作権の関係もあるのだろうが、写真を語るのに写真が一枚も掲載されていないというのは少し疑問を感じる。尤も、写真のほうは有名なものが多いので、本書を手に、その写真の掲載されているものを開いてみるとか、とりあげられている写真家の作品に目を通すのもおもしろいだろう。
我々は連続した時間のなかを生きている。その一瞬を切り取った時、切り取られた場面は、それが本来持っていた意味を持ち続けることができるであろうか? 確かに、一枚の写真のなかに収められている映像情報はひとつひとつを検証すれば膨大な量であることには違いない。しかし、その前後との関係において意味を成す部分のほうが圧倒的に多いのではないだろうか。つまり、その写真の使われ方によっていかようにも解釈が可能なのではないだろうか。我々はそういうある一瞬の映像が持つ多義性をどれほど意識しているだろうか。写真ではなく動画であっても、前後の文脈から切り離されているという点において十分多義的であろう。
その意味中立的な映像を見て、その映像に付された文字情報や映像の周辺情報を得て、我々は自分の経験と自分の都合に合わせて様々な意味をその映像に与える。かくして、その映像は自分だけのものになる。そこに客観性だの事実だのといったことは幻想として存在するだけだ。我々はそこに写っている何事かを果たして本当に見たのだろうか? 見たつもりになって、自分の論理のなかに消化し、忘却するだけなのではないか。そこに自分の経験は無く、つまり、何も見ていないのと同じではないのか。見たつもりにさせる、経験したつもりにさせる、そういうところに写真の面白さがあるように思う。
内容はまっとうで、わかりやすい。ただ、取り上げられている写真のことを知らない人にはなんのことかさっぱりわからないのではないかと思う。著作権の関係もあるのだろうが、写真を語るのに写真が一枚も掲載されていないというのは少し疑問を感じる。尤も、写真のほうは有名なものが多いので、本書を手に、その写真の掲載されているものを開いてみるとか、とりあげられている写真家の作品に目を通すのもおもしろいだろう。
我々は連続した時間のなかを生きている。その一瞬を切り取った時、切り取られた場面は、それが本来持っていた意味を持ち続けることができるであろうか? 確かに、一枚の写真のなかに収められている映像情報はひとつひとつを検証すれば膨大な量であることには違いない。しかし、その前後との関係において意味を成す部分のほうが圧倒的に多いのではないだろうか。つまり、その写真の使われ方によっていかようにも解釈が可能なのではないだろうか。我々はそういうある一瞬の映像が持つ多義性をどれほど意識しているだろうか。写真ではなく動画であっても、前後の文脈から切り離されているという点において十分多義的であろう。
その意味中立的な映像を見て、その映像に付された文字情報や映像の周辺情報を得て、我々は自分の経験と自分の都合に合わせて様々な意味をその映像に与える。かくして、その映像は自分だけのものになる。そこに客観性だの事実だのといったことは幻想として存在するだけだ。我々はそこに写っている何事かを果たして本当に見たのだろうか? 見たつもりになって、自分の論理のなかに消化し、忘却するだけなのではないか。そこに自分の経験は無く、つまり、何も見ていないのと同じではないのか。見たつもりにさせる、経験したつもりにさせる、そういうところに写真の面白さがあるように思う。