大宮のソニックシティ小ホールで柳家花緑の独演会を聴いた。落語も音楽のようにCDやDVDが数多く出ているが、これこそ生で聴かなければ聴いたことにはならない。上手い噺家は、枕から本題へ入ると人相が変わる。一瞬にして噺家個人から本題の登場人物に豹変するのである。それは単に仕草とか言葉遣いの問題ではない。高座の空気も含めてその場全体が変化する。こればかりはその場にいないと体験できない。
おそらく落語ほど舞台装置が単純な芸は無いだろう。舞台に座布団が敷いてあり、そこに和服の噺家が座って話をするだけである。小道具として手拭と扇子、上方ではさらに見台と拍子木、張扇が使われる。純粋な話芸で、興味も関心も知性も千差万別の大勢の聴衆を魅了し、そこに異空間を創り上げるのである。
芸というのは、ある水準を超えると理屈では説明のつかない領域になる。それが才能と言ってしまえばそれまでなのだろうが、演じる人の人格とか人としての総合力のようなものが抜きん出ていないと、そうした域には達し得ないのだと思う。発声練習や滑舌の練習といった基礎訓練も勿論重要なのだろうが、経験の厚みのようなものも必要であろうし、それによって生来から恵まれた想像力に磨きがかかるというようなことも必要なのだろう。
今日はまさに芸を堪能できた。良い経験をさせていただいた。
ちなみに、今日の出し物は「出来心」、「粗忽長屋」、「紺屋高尾」の3本。前座は柳家緑君で「金明竹」。
おそらく落語ほど舞台装置が単純な芸は無いだろう。舞台に座布団が敷いてあり、そこに和服の噺家が座って話をするだけである。小道具として手拭と扇子、上方ではさらに見台と拍子木、張扇が使われる。純粋な話芸で、興味も関心も知性も千差万別の大勢の聴衆を魅了し、そこに異空間を創り上げるのである。
芸というのは、ある水準を超えると理屈では説明のつかない領域になる。それが才能と言ってしまえばそれまでなのだろうが、演じる人の人格とか人としての総合力のようなものが抜きん出ていないと、そうした域には達し得ないのだと思う。発声練習や滑舌の練習といった基礎訓練も勿論重要なのだろうが、経験の厚みのようなものも必要であろうし、それによって生来から恵まれた想像力に磨きがかかるというようなことも必要なのだろう。
今日はまさに芸を堪能できた。良い経験をさせていただいた。
ちなみに、今日の出し物は「出来心」、「粗忽長屋」、「紺屋高尾」の3本。前座は柳家緑君で「金明竹」。