そもそも教育とは何だろう? 世の中で独り立ちして生きていくのに足る知識と知恵を子供たちに与えることが教育なら、教育界の汚職は人の世の現実を教える上で恰好の教材であろう。決して無駄にしてはいけない。物事を経済的価値に換算し、市場で取引するというのが、好むと好まざるとにかかわらず我々が生活している場の基本原理のひとつである。教員資格も、当然、金銭に換算できるのである。
この社会に生きる誰もが、自己の利益を追求して行動すれば、全体としては市場原理のもとで均衡点が見出され、社会は安定的に機能する、ことになっている。しかし、現実は不測の事態があり、市場の失敗と呼ばれる現象も少なくない。だから経済的利益とは無縁の調整機構を必要とする。それが行政であり司法なのである。ここに市場原理が持ち込まれては調整能力が機能せず、社会全体が混乱に陥ってしまう。そこで、贈収賄は犯罪とされるのである。実に簡単な理屈ではないか。そんなこともわからない人間がこの国の教育界にいるのである。誇り無き公僕、思考無き教育者、粗にして野にして卑な輩、呼び方はいろいろあるだろうが、いずれにしても存在してはいけないものが存在しているのである。
学校教育という形を取るか否かに関わらず、教育というのは、自分の頭で物事を考えるということ、その楽しさを教えることだと思う。少なくとも、定型化された知識の量を他人と競い合ったり、世間に認知されている学歴を身につけることが教育ではないだろう。競争というのは、本来、相手と競うことで、どうしたら相手よりも上手く目的を達することができるかということを考え、実践する機会であると思う。思考力の訓練の場、とも言えるだろう。学歴はあくまで結果の一側面に過ぎない。
ある目的があり、そこに至る過程やそれを達成するための技術があると、時として、本来の目的が見失われてしまい、過程や技術の枝葉末節へのこだわりが自己目的化してしまうのはよくあることだ。枝葉末節ばかりが肥大化すると、本来の目的は忘れ去られ、不毛な知識や決まり事だけが増えていく。世の中の試験制度の多くは、結局は不毛なのではないか。本当はその必要性が無いから不正が横行し、ますます不毛になる。そういうことなのだろう。