熊本熊的日常

日常生活についての雑記

身近な他者へのまなざし

2008年09月10日 | Weblog
昨日、写真の話を書いていて、一般家庭にあるアルバムの写真が思い浮かんだ。家にあるアルバムの写真といえば、家族で旅行に出かけた時の写真とか、家族や親戚縁者の冠婚葬祭といった極めて私的な光景が収められているものだろう。それをその家族とは全く無縁の人が見たら、そこに何を見出すだろう?

その写真に写っている人物や風景に関して何がしかを共有している人は、その写真に興味を覚えるだろう。しかし、そうでなければ、どうだろう? 自分という連続した時間から切り離された瞬間は、自分に関わりの無い人にとっては無関心の対象のひとつでしかない。

今「アルバムの写真」と書いたが、家にアルバムが無いという人がこれから増えるのだろう。写真がデジタル化されているので、アルバムはPCやメモリーカードの中という人が既に大半を占めているかもしれない。そうなると、写真は物理的な存在を、例えば家族のような、特定少数の人々が一緒に見るものではなく、無数のファイルのなかから個人が検索して取り出して見るものになるのだろう。家族が撮影したりされたりした映像であっても、自分の興味を刺激しないということも多くなるのではないだろうか。かくして、人と人との物理的な接点はますます希薄化することになる。

ここ数年、うつ病患者が増えているそうだ。以前は認識されていなかった心因性の病気が認識されるようになったという医学的知識の広がりという面もあるだろうが、時代の変化のなかで個人のありようが、以前にも増して孤立しやすくなっているという所為もあるのではないかと思う。

今は生活基盤の整備が進んだので、生活上の殆どのことはひとりでできてしまう。しかし、だからこそ、敢えて誰かと一緒にやるということを意識した行為を日常のなかに組み込んでおくことは、精神の健康管理という観点からは必要なことなのかもしれない。たとえ行動を共にしなくても、自分が意識する身近な他人のまなざし、身近な他人が意識するであろう自分のまなざし、そうしたものの交錯といったものが人には必要なのではないだろうか。