熊本熊的日常

日常生活についての雑記

対岸の火事か?

2008年09月15日 | Weblog
今日、米国の大手証券会社が連邦破産法11条の適用を裁判所に申請したそうだ。要するに倒産したということだ。私の職場のすぐ近くにある、その会社のロンドン法人も営業を停止、そこの社員は私物の運び出しに右往左往している。職場で私の隣の席にいる奴の奥さんがそこに勤めていて、彼は奥さんの荷物の運び出しを手伝うからと言って早退してしまった。

以前にもこのブログに書いた記憶があるが、あの9・11のとき、私はただぼぉうっと同じ映像が繰り返し映し出されているテレビの画面を眺めていた。当時の私の勤務先のグループ会社に保険会社がいくつかあり、このテロの被害によって巨額の保険金を支払わなくてはならなくなった。そのあおりで世界的規模で業務の再編が実施され、私は解雇された。対岸の火事のように見えていたものの火の粉がこちらにも飛んで来たのである。確かに、地球は丸く、対岸もこちら側もつながっている。

今日、営業を停止したその証券会社の建物は私の勤務先と濠を挟んで斜め向かいにある。あまりに近すぎて対岸の火事とは思われない。

娘へのメール 先週のまとめ

2008年09月15日 | Weblog

元気ですか?

君の母親には、20日と28日の件、了承を取りました。行き先を尋ねられたので、20日は白金高輪の私の知り合いの店で昼食後、ブリヂストン美術館か出光美術館へ行き、5時に家に着くように都立家政まで送ると伝えました。また、28日は茂原にあるas it isという美術館へ行き、やはり午後5時までに車で家の前まで送ると答えておきました。

今回も3月の一時帰国と同じように成田空港で携帯電話を借りる手配を済ませてあります。16日にはその電話番号が確定する予定なので、決まり次第、君の携帯のメールに連絡を入れておきます。

20日は11時に高田馬場駅の山手線ホームの新宿寄りで待ち合わせましょう。

先週はスーザン・ソンタグ「他者の苦痛へのまなざし」、マルグリット・デュラス「北の愛人」、石川淳「紫苑物語」を読みました。

スーザン・ソンタグは批評家で、私の学生時代に活躍していた人です。その名前はよく耳にしていたのですが、これまでその著作を手に取る機会がありませんでした。今回、ようやく彼女の写真論を読む機会を得ました。書かれているのはごくまっとうなことであり、抵抗無く読む事ができました。ただ、写真の話なのに写真が一枚も掲載されていないのは、著作権の問題があるにせよ、やや不親切ではないかと思います。幸い、本書で取り上げられている写真の殆どは見た事がありますし、その一部は自分の蔵書のなかにもあるので、私自身は問題ありませんでした。訳が少しぎこちないように思いました。

マルグリット・デュラスも一時期かなり流行した作家で、ずっと気にはなっていたのですが、今ごろになってようやく読みました。「北の愛人」は作者に自伝的小説である「愛人 ラマン」を映画化するにあたり、脚本の形式に書き直したものを再構成したものです。要するに脚本のつもりで書いたのだけれど、諸般の事情があって、結局、小説として出版したというものです。それでは「愛人 ラマン」とだぶるじゃないか、と思うでしょう。見事にだぶっています。細部のこだわる人にとっては、微妙な差異に意味を見出すのでしょうが、物語自体はどちらか片方を読めば済むことです。人生の不条理のようなものを描いた作品で、中学生が読む内容とは思いませんが、主人公は15歳の女性ですから、知的に早熟な中学生なら、面白いと思って読むのかもしれません。

石川淳も読んでおきたかった作家ですが、今ごろ初めて手にしました。講談社文芸文庫版で読みましたが、「紫苑物語」には表題作のほかに「八幡縁起」と「修羅」が収められています。どの作品も、人の本性のようなものをテーマに据えており、ある程度人生経験を積んでから読むと、心にしみてきます。尤も、君が読んでも、君なりのおもしろさを発見するのかもしれません。

昨日、土曜日は大英博物館で開催中のハドリアヌス展を見に行ってきました。先週のメールに書いたように、たまたまマルグリット・ユルスナールの「ハドリアヌス帝の回想」という本を読んだ後だったので、それなりに興味深く思いましたが、入場料を取る割に展示内容が寂しい感が否めません。ローマ帝国の時代には、イギリスは辺境の地だったこと、ハドリアヌスの時代が今から1,800年以上も前であったこと、などから大英博物館の企画展といえども多くは期待できないのかもしれません。

では、20日土曜日に。


「紫苑物語」

2008年09月14日 | Weblog
石川淳の短編である。講談社文芸文庫で読んだが、表題作のほかに「八幡縁起」と「修羅」が収められている。たまたまフランシス・ベーコンの絵を見たばかりだったので、それを文学で表現したもののように思われて、どの作品にもそれぞれに引き込まれてしまった。

「紫苑物語」は、人の本性のようなものを語っている。人に化けた狐や、人に取り憑いた狼が登場する。しかし、獣も人も己の欲望に従って生きているという点では同じであり、化けるとは言っても、単に見え方の違いでしかないということだろう。さらに、仏は鬼であり鬼は仏でもあるというのも同じことである。仏とか鬼とかいうものが個々にあるのでなく、仏に見えるものも別の角度からは恐ろしげな鬼に見えるということだ。

主人公と父親との別れも興味深い。父親は高名な歌詠みであり、主人公も幼い頃から歌に並外れた才気を見せていた。しかし、ある時、7歳の主人公は自分の歌に入れられた父親の直しに納得がいかず、歌を詠むのをやめてしまう。父親は歌を詠まなくなったわが子を疎ましく思うようになる。子供を自分の自我の延長線上にしか認識していないからこそ、自分の思い通りにならない子供は憎悪の対象でしかなくなってしまう。親子といえども、特別な関係ではなく、自己と他者という数多の関係のひとつに過ぎないということをわかりやすく表現している。

また、歌詠みという職業が高貴で武芸者を下賤なものとする父の価値観も我々の多くに共通しているものの見方であろう。物事に序列をつけ、そのなかで自分の位置づけ、自分の身の回りの人々の位置づけを明らかにして、安心したり、誇ってみたり、蔑んでみたりするのである。犬や猿と変わるところがない。主人公のように自分自身の座標軸をきっちり持っている人間が稀であるからこそ、主人公の生き様に威風堂々たるものを感じ、憧憬の念すら起こさせるのだろう。

「八幡縁起」は神話のようであるが、神が単なる儀式に、すなわち本旨が枝葉末節に取って代わられる流れのようなものを表現しているようだ。要するに、人は自分が見たいと思うものしか目に入らないのである。物事はその時々の権力に都合に合わせて歪曲され変容する。その繰り返しが人の歴史でもある。

「修羅」は生きることを語っている。応仁の乱で荒れ果てた都を舞台に、一休宗純を語り部にして、生きるとは何かを紡ぎ出している。もちろん、それだけでは話にならないので、横糸に物欲とただ生きることだけに従っている獣とさして変わらぬ足軽の日常を描き、全体として、人が生きるとはどのようなことなのかということが浮き出るようになっている。真の人の生とは、結局のところは他者との心の交わりなのだと思う。己を知り、己の我を手なずけなければ、我が他人を食い物にし、己自身にもやがて牙をむく。世の理を悟り、そのなかで我を存分に生かし、他人の我にも敬意を払うことで、人は真の友を得、伴侶を得ることができるということなのだと思う。

どの話も心にしみる良い話ばかりだった。

Hadrian Empire and Conflict

2008年09月13日 | Weblog
大英博物館で開催中の「Hadrian Empire and Confilict」という企画展を観て来た。先日、ユルスナールの「ハドリアヌス帝の回想」を読んだので、何かおもしろいものがあるかもしれないと思って出かけたのである。

ハドリアヌスは現在のスペインの出身で、生家はオリーブオイルの商売で財を成したのだそうだ。当時のオリーブオイルは、食用、燃料用、薬用など用途が広く、帝国内外で需要が強かったため、この生産や商売で巨万の富を築いた人も少なくなかったという。現代に当てはめれば、原油のようなものだろう。展示は、その出自、建築への関心、同性愛といったことに焦点が当てられていた。しかし、いかんせん英国はローマ帝国の時代には辺境の地である。ハドリアヌスが辺境を巡回し、周辺国との国境線の安定化に努めたことは周知のことだが、それにしてもハドリアヌス縁のものは多くはないだろう。イングランド北部に残るHadrian’s Wallという長城は有名だが、それくらいのものである。彼の治世が117-138年と今から1,800年以上も前のことでもあり、展示の品は自ずと限られる。そうした制約のなかで、何故、敢えて今、ハドリアヌスなのか、というところの説明が欲しい。展示を観る前に売店でカタログに目を通したので、ある程度は展示内容の予想はついたが、大英博物館らしくない中途半端な企画展との印象だった。

地震雷火事親爺

2008年09月12日 | Weblog
9月11日にユーロトンネル(北トンネル)で発生した火災の影響で、ユーロスターは今日も全面運休で明日13日から火災の影響を受けてない南トンネルを使って営業を再開するという。ユーロトンネルはフランス方面行きとイギリス方面行きの2本の独立したトンネルによって構成されているので、どちらか一方が破損しても、ある程度は残りの一方で機能を維持できる。この点、同じ長大海底トンネルである青函トンネルは複線トンネル一本なので、今回のような事故があると、ユーロトンネルに比べて運用の復旧に時間がかかることが予想される。

鉄道トンネルでの火災というのは、比較的発生確率の高いリスクのようで、パリで無人運転の地下鉄14号線が開業する時も、火災対策について詳細な検討と対策がなされたそうだ。日本でも平均すれば年に1回程度は発生しているらしい。ただ、ここ数年は死傷者を伴うものは発生していない。それでも気になったので戦後の鉄道トンネル火災事故を調べてみたら以下のようなものがあった。

1947年4月16日 近鉄東大阪線 生駒トンネル
1956年5月7日 南海高野線 紀伊神谷=紀伊細川 18号トンネル
1968年1月27日 営団地下鉄日比谷線 六本木=神谷町 間
1972年11月6日 国鉄北陸トンネル
1972年11月21日 営団地下鉄日比谷線 広尾駅
1983年8月16日 名古屋市地下鉄東山線 栄駅変電施設
1985年9月26日 営団地下鉄半蔵門線 渋谷駅
1988年3月30日 JR東日本上越線 越後中里=岩原スキー場前 松山トンネル
1988年9月21日 近鉄東大阪線 生駒トンネル
1992年8月29日 都営地下鉄三田線 春日=白山 間

また、海外の主なものとしては以下の通りである。

1964年4月21日 米国 ニューヨーク地下鉄 グランドセントラル駅
1969年5月 米国 ペン・セントラル鉄道 ハドソン川底トンネル
1979年1月14日 米国 サンフランシスコ湾高速鉄道 サンフランシスコ湾海底トンネル
1979年9月 米国 サウスイースト・ペンシルバニア交通局 ノース・フィラデルフィア地下鉄
1987年11月18日 英国 ロンドン地下鉄 キングスクロス駅
1994年11月14日 英仏 ユーロトンネル
1995年10月28日 アゼルバイジャン バクー市営地下鉄
2000年11月11日 オーストリア カプルン山岳鉄道
2003年2月18日 韓国 テグ市地下鉄 中央路駅

火災に限らず、事故は未然に防止するに越したことはないが、完全に予防することは不可能である。そこで、フェイル・セーフという発想が求められることになる。今回のユーロトンネルの事故は、自動車輸送列車に積載していたトラックが火災発生源になっており、94年の事故と同じである。94年の事故の後、何らかの安全対策が実施されているはずなのだが、それが奏功しなかったということである。

個人的には毎日ロンドン地下鉄を利用しているが、乗車中に事故に巻き込まれたら助かる見込みは無いと思っている。乗車経験のある方なら感覚的に了解されると思うが、大きな棺桶に乗っているようなものだ。駅の構造にしても、地下と地上を結ぶ線が細すぎると思う。せめてもの救いがあるとすれば、東京とちがって地震が無いことくらいだろう。東京は逆に、どれほど人知を尽くしたところで、巨大地震に襲われたら、それで終わりなのではないか。以前は地下は安全といわれていたが、阪神淡路大震災でそれが幻想であることが証明された。一寸先は闇だと思って日々生活する。結局、そういう覚悟で生きるしかないようだ。

ちなみに、去る9月4日にロンドンの公共交通機関の2009年の新料金体系案が公表された。値上げも値下げもあるが、総じてインフレ率プラス1パーセント分の値上げと表現されている。自分の関係するところで言えば、通勤に利用している地下鉄は、現在の片道1.5ポンドから1.6ポンドへ、休日に外出する時などに利用しているトラベルカードは5.9ポンドから6.3ポンドへそれぞれ値上げということになっている。おそらく、現状の逼迫した財政事情を鑑みれば、この案はそのまま実施に移されるのだろう。この件に関し敢えてコメントはしない。

Francis Bacon

2008年09月11日 | Weblog
TATE Britainで開催中のFrancis Bacon展の内覧会に出かけて来た。かなりエグイ系の作家だがかなり評価の高い作家でもある。去る5月にはニューヨークのサザビーズで氏の「Triptych 1976」がコンテンポラリー・アートとしては史上最高値の8,630万ドルで落札されたことで話題にもなっていた。
(http://www.nytimes.com/2008/05/15/arts/design/15auction.html)

戦争体験によって、人の本性は野獣と同じという認識を持つに至り、終生そういう人間を描き続けた人である。人間を高みに持ち上げず、そのあるがままを表現しようとした強い意志が作品に漲っていると思う。あるいは、人間性と呼ばれる幻想に対する懐疑を表現しているとも言えるだろう。目を背けたくなるような作品も少なくないが、人間の本性とはそういうものだと言われれば、直視しないわけにはいかないだろう。確かに、世の中の人間の日常は様々な敵意や憎悪に満たされている。直視に耐えない醜さが人間の心に宿っているということだ。

身近な他者へのまなざし

2008年09月10日 | Weblog
昨日、写真の話を書いていて、一般家庭にあるアルバムの写真が思い浮かんだ。家にあるアルバムの写真といえば、家族で旅行に出かけた時の写真とか、家族や親戚縁者の冠婚葬祭といった極めて私的な光景が収められているものだろう。それをその家族とは全く無縁の人が見たら、そこに何を見出すだろう?

その写真に写っている人物や風景に関して何がしかを共有している人は、その写真に興味を覚えるだろう。しかし、そうでなければ、どうだろう? 自分という連続した時間から切り離された瞬間は、自分に関わりの無い人にとっては無関心の対象のひとつでしかない。

今「アルバムの写真」と書いたが、家にアルバムが無いという人がこれから増えるのだろう。写真がデジタル化されているので、アルバムはPCやメモリーカードの中という人が既に大半を占めているかもしれない。そうなると、写真は物理的な存在を、例えば家族のような、特定少数の人々が一緒に見るものではなく、無数のファイルのなかから個人が検索して取り出して見るものになるのだろう。家族が撮影したりされたりした映像であっても、自分の興味を刺激しないということも多くなるのではないだろうか。かくして、人と人との物理的な接点はますます希薄化することになる。

ここ数年、うつ病患者が増えているそうだ。以前は認識されていなかった心因性の病気が認識されるようになったという医学的知識の広がりという面もあるだろうが、時代の変化のなかで個人のありようが、以前にも増して孤立しやすくなっているという所為もあるのではないかと思う。

今は生活基盤の整備が進んだので、生活上の殆どのことはひとりでできてしまう。しかし、だからこそ、敢えて誰かと一緒にやるということを意識した行為を日常のなかに組み込んでおくことは、精神の健康管理という観点からは必要なことなのかもしれない。たとえ行動を共にしなくても、自分が意識する身近な他人のまなざし、身近な他人が意識するであろう自分のまなざし、そうしたものの交錯といったものが人には必要なのではないだろうか。

「他者の苦痛へのまなざし」

2008年09月09日 | Weblog
以前からスーザン・ソンタグの書いたものを読みたいと思っていたのだが、ようやく手にした。これは最初に読むものではなく、「反解釈」とか「写真論」の後にくるものだということはわかっているが、薄くて読みやすそうだったのでここから始めた。

内容はまっとうで、わかりやすい。ただ、取り上げられている写真のことを知らない人にはなんのことかさっぱりわからないのではないかと思う。著作権の関係もあるのだろうが、写真を語るのに写真が一枚も掲載されていないというのは少し疑問を感じる。尤も、写真のほうは有名なものが多いので、本書を手に、その写真の掲載されているものを開いてみるとか、とりあげられている写真家の作品に目を通すのもおもしろいだろう。

我々は連続した時間のなかを生きている。その一瞬を切り取った時、切り取られた場面は、それが本来持っていた意味を持ち続けることができるであろうか? 確かに、一枚の写真のなかに収められている映像情報はひとつひとつを検証すれば膨大な量であることには違いない。しかし、その前後との関係において意味を成す部分のほうが圧倒的に多いのではないだろうか。つまり、その写真の使われ方によっていかようにも解釈が可能なのではないだろうか。我々はそういうある一瞬の映像が持つ多義性をどれほど意識しているだろうか。写真ではなく動画であっても、前後の文脈から切り離されているという点において十分多義的であろう。

その意味中立的な映像を見て、その映像に付された文字情報や映像の周辺情報を得て、我々は自分の経験と自分の都合に合わせて様々な意味をその映像に与える。かくして、その映像は自分だけのものになる。そこに客観性だの事実だのといったことは幻想として存在するだけだ。我々はそこに写っている何事かを果たして本当に見たのだろうか? 見たつもりになって、自分の論理のなかに消化し、忘却するだけなのではないか。そこに自分の経験は無く、つまり、何も見ていないのと同じではないのか。見たつもりにさせる、経験したつもりにさせる、そういうところに写真の面白さがあるように思う。

教育無き教育

2008年09月08日 | Weblog
最近、ある地方で教員採用試験に絡んだ汚職が話題になっているようだが、たまたまそこで摘発されただけで、どこでも似たようなことはあるのではないだろうか。

そもそも教育とは何だろう? 世の中で独り立ちして生きていくのに足る知識と知恵を子供たちに与えることが教育なら、教育界の汚職は人の世の現実を教える上で恰好の教材であろう。決して無駄にしてはいけない。物事を経済的価値に換算し、市場で取引するというのが、好むと好まざるとにかかわらず我々が生活している場の基本原理のひとつである。教員資格も、当然、金銭に換算できるのである。

この社会に生きる誰もが、自己の利益を追求して行動すれば、全体としては市場原理のもとで均衡点が見出され、社会は安定的に機能する、ことになっている。しかし、現実は不測の事態があり、市場の失敗と呼ばれる現象も少なくない。だから経済的利益とは無縁の調整機構を必要とする。それが行政であり司法なのである。ここに市場原理が持ち込まれては調整能力が機能せず、社会全体が混乱に陥ってしまう。そこで、贈収賄は犯罪とされるのである。実に簡単な理屈ではないか。そんなこともわからない人間がこの国の教育界にいるのである。誇り無き公僕、思考無き教育者、粗にして野にして卑な輩、呼び方はいろいろあるだろうが、いずれにしても存在してはいけないものが存在しているのである。

学校教育という形を取るか否かに関わらず、教育というのは、自分の頭で物事を考えるということ、その楽しさを教えることだと思う。少なくとも、定型化された知識の量を他人と競い合ったり、世間に認知されている学歴を身につけることが教育ではないだろう。競争というのは、本来、相手と競うことで、どうしたら相手よりも上手く目的を達することができるかということを考え、実践する機会であると思う。思考力の訓練の場、とも言えるだろう。学歴はあくまで結果の一側面に過ぎない。

ある目的があり、そこに至る過程やそれを達成するための技術があると、時として、本来の目的が見失われてしまい、過程や技術の枝葉末節へのこだわりが自己目的化してしまうのはよくあることだ。枝葉末節ばかりが肥大化すると、本来の目的は忘れ去られ、不毛な知識や決まり事だけが増えていく。世の中の試験制度の多くは、結局は不毛なのではないか。本当はその必要性が無いから不正が横行し、ますます不毛になる。そういうことなのだろう。

娘へのメール 先週のまとめ

2008年09月08日 | Weblog

元気に2学期を迎えることができましたか?

勉強もだんだん難しくなっていきますから、毎日の予習復習はしっかりとする習慣をつけて、せめて落ちこぼれないようにしましょう。復習は問題演習中心にすると効果的です。

先週はマルグリット・ユルスナールの「ハドリアヌス帝の回想」という本を読みました。これはかなり有名な本なのですが、いまごろになって初めて手にしました。日本人にとっては「ハドリアヌス」と言われてもなんのことやらさっぱりわからないのですが、西洋のきちんとした教育を受けた人の間ではローマの歴史は常識のようなものです。

ハドリアヌスはローマ帝国の14代皇帝(在位117-138年)です。先代のトラヤヌス帝の時代にローマ帝国の領土はその歴史上最大となっており、ローマ帝国最盛期の皇帝と言えます。現在では評価の高い人ですが、同時代のローマ人の間では評判が悪く、繁栄期の他の皇帝に比べると業績を讃えた石碑類が少ないそうです。なぜ評判が悪いかといえば、彼は歴代皇帝のなかで初めて、自ら領土を縮小させたからです。これは、ハドリアヌス自ら国境を視察して回り、最前線の不安定さを目の当たりにして、このまま拡大策を続けることに危機感を抱いたためと言われています。そこで、まず強大な隣国であったパルティア(現在のイラン)と講和して帝国の東部国境を確保する一方、現在のイギリス北部に兵を進めカレドニア(現在のスコットランド)を抑えて北部国境を安定化させるといった現実的な対外政策への転換を図りました。国境防衛のために彼がイギリスに築かせた長城は、その一部が現在も残っていて世界遺産に登録されています。領土拡大策に終止符を打つ一方で、法体系を整備したり官僚制度を整えたりという内政の安定化に努め、ローマ帝国の繁栄を支えたとされています。

この本は、そのハドリアヌスが次の皇帝であるアントニヌス・ピウスへ向けた遺書という形式をとっています。病を得て自らの死を悟った皇帝が、後継者へむけて皇帝の心得とか、在位中のさまざまな出来事についての真相を語るというものです。そこには、人間というものへの洞察や歴史認識、異文化との交流のありかたのようなものまで、およそ人が生きる上で必要な知恵が網羅されているといえます。ローマ時代と現代とのつながり、西洋におけるローマ時代の位置づけといったことを勉強した上で読むと、とても面白く読むことができると思います。

作者のマルグリット・ユルスナールはフランス人ですが、第二次世界大戦直前に米国へ渡り、戦争勃発のためフランスに帰る機会を失ってしまい、そのまま米国で亡くなった作家です。この「ハドリアヌス帝の回想」は1958年に出版されたものですが、日本語訳は1963年に出版されています。私が手にしているのは、その後、改訳されて2001年に出版されたものです。

西洋の世界を知る上で常識として読んでおくべき一冊ではあると思いますが、君にはまだ少し退屈かもしれません。もし、学校の図書館にあれば、ぱらぱらと目を通してみることを勧めます。まだ借り出して読むほどのものではないでしょう。この本を読む前に読むべき本はたくさんあるのですから。

では、また来週。


「ハドリアヌス帝の回想」

2008年09月07日 | Weblog
自分のなかで存在を身近に感じたことのある最古の歴史上の人物は聖徳太子(574-622年)だ。それは歴史とか彼の人となりに興味があったからではなく、彼の肖像が印刷されている紙幣に強い関心があったからというだけのことである。ハドリアヌス帝(76-138年、在位117-138年)はそれ以前の人で、しかも日本人ではないので、ますます疎遠に感じられる、はずだった。ローマ帝国の時代など、自分にとっては遥か彼方のことであり、そこから綿々とつながるものがあるなどと想像すらしたことがない。勿論、この作品は歴史書ではなくマルグリット・ユルスナールの創作であるから、ハドリアヌス帝の姿を借りたユルスナールの言葉である。フランスと日本という距離はあるにせよ、ローマ時代と現代という時間のスケールのなかでは、言語の違いは取るに足りないものに感じられ、それどころか人種や民族、文化の違いも些細なものにしか思われない。

そうした時間軸のなかで、ローマ皇帝という、今の時代にしてみれば世界を支配下に置いたほどの権力者が、死を前にして自分の治世を振り返り、重大局面における判断について自ら解説するという形式で本作は書かれている。皇帝の回想にしてはデータ系の情報が少ないような気もするが、人間というものに対する洞察に富んでいるという点では普遍性があると思う。

ハドリアヌス帝は、それまで拡大政策を続けていたローマ帝国を内政重視政策へ大きく方向転換させ、官僚機構や法体系を整備し、その繁栄を確かなものにしたとされている。領土拡大に伴う利権獲得という収益機会を失うことになった元老院議員やローマの有力者の間では必ずしも評判は芳しくなかったという。かなり手荒なこともしながら、抵抗勢力を押さえつけ、自分の信じた政策を押し進めていったその手腕に、作者は物語の主としての資質を見出したのだろう。

しかし、地中海を内海とするほどの領土を治めるのに、有能な側近集団や統治機構が機能していたはずである。ところが、そうしたことへの言及は少なく、まるで自分ひとりの力で、その時代の繁栄があったかのような印象がある。そうした強い自意識があったからこそ、皇帝という職を全うできたといえばそれまでだが、現皇帝から次期皇帝への業務連絡書でもあるはずの本書が、心構えを説くだけというのは、リアリティが薄いようにも思われる。これは、作家の組織論への関心の低さの表れなのだろう。物語としてはおもしろいが、形式と内容との間に違和感があり、やや陳腐な印象が否めない。

つれづれ

2008年09月06日 | Weblog
ブログのネタが次々に思い浮かぶときもあるが、全く浮かばないときもある。これを書くことが義務ではないのだから、無理して書くこともないのだが、以前にも書いたように、毎日書くことを自分に課しているのである。それで、少しでも取掛かりを思いつけば、ざっくりとそのことを調べて、それに自分の考えを加えてまとめている。この調べものに時間がかかることがあり、調べものを通じて別のネタに変更することもあれば、さんざん調べた挙句にそのネタを止めてしまうこともある。

今日は対馬のことを書こうと思った。長崎県対馬市の「対馬」である。途中まで書いて止めた。でもいつか書くかもしれない。もう少しいろいろ調べたり考えたりした後のことではあるが。

争い事というのは、起こすのは容易だが収めるのは難儀だ。ひとたび起ってしまえば、結果がどうあれ、失うものばかり多くて、どちらの側も得るものは存外少ないものである。他人の争い事を冷静に見れば、誰でもそう思うだろう。それが己の事となると、そうした見境がつかなくなるのは人の常というものなのだろうか。人に自我があり、その集団にも集団としての我があり欲がある。そうしたものの間で利害の対立が生じるのは当然のことなのである。その対立を回避すること、円満に収めることにこそ、人としての知恵の多寡が問われる。大概は互いに知恵を出し合い、当事者それぞれに多少の不満を残しながらも深刻な対立や紛争には至らないものだ。だからこそ、現在の我々の生活がある。

しかし、物事は思うに任せぬときもある。些細な誤解や行き違いが、取り返しのつかない状況にまで進んでしまうこともある。不思議なもので、自分と遠い相手なら諦めがつくことも、近いが故に憎悪の念が増幅されることもある。理と情の均衡が崩れて情が理に勝れば、もはや知恵など働かない。そのこと自体が悲劇であり、悲劇が更なる悲劇を生む。

自分と近いから容易に理解し合えると思うのは誤解である。近くても遠くても他者は他者だ。相手が誰であっても、同じように手間暇をかけて関係を構築し維持する心がけが、争い事を回避する基本であると思う。

目先を追って

2008年09月05日 | Weblog
基準を超える残留農薬が検出されたりカビが発生したなどの理由で「事故米」とされて非食用に流通する米を、食用として販売した大阪の事業者のことが報道されていた。毒餃子が話題になったときにも感じたのだが、そもそも安全な食というものがあるのだろうか?

食に関する規制は数多あるのだろうが、現実は健康被害が発生するまでは、どのような不法行為があろうとも末端の消費者には瑕疵を認識することはできない。どうせわからないのであれば、費用をかけて規則を守るよりも不正をして利益を得ることを選択する、と考える事業者は当然いるだろう。そんなことをして得られる利益などたかが知れていると思うのだが、それが発覚したことで信用を失うリスクよりも目先の小金が欲しいということなのだろう。

この手の事件だけでなく、目先のことに目を奪われて、より重要なことを失ってしまうというのはよくあることではないだろうか。

ちなみに今日の夕食は牡蠣鍋である。昆布と鰹節とホタテ(まだある)で出汁を取り、玉葱、マッシュルーム、鱈を煮て、これらの具に火が通ったところで牡蠣を入れ、みりんで溶いた味噌を適量加え、タイマー代わりに卵を落し入れる。卵が固まった頃には牡蠣がプリプリのいい感じになっているので、そこに茹で時間1分の冷凍野菜餃子を入れて、餃子がパンパンに膨らんだらできあがり。急にホタテが食べたくなったり、牡蠣が食べたくなったりという目先の食欲に従って、1キロ入りの袋で買うので、こうして毎日のようにホタテや牡蠣を食べる羽目に陥る。たいした量に見えないのだが、なかなか減らないものである。それにしても鍋には鱈だの牡蠣だのというのがよい。どうしてこんなに旨いんだろうと不思議に思うほど旨い。

なぜ日本には政治家がいないのか

2008年09月04日 | Weblog
今、マルグリット・ユルスナールの本を読んでいるのだが、この人は初等教育を家庭で受けたのだそうだ。欧州のブルジョアジーや上流階級に属する人々は家庭に教育能力が備わっているので、高等教育以外は家庭で完結できてしまうのだという。

欧州のような階級社会なら、生まれによってその人が接する社会がある程度限定されるので、上流系の人ほど敢えて下流系と接点を持つ理由がないということだろう。当然、そうしたやんごとなき人々の通う高等教育機関も限られたものになるので、そこに不毛な詰め込みや無意味な競争は無く、所謂教養主義的な浮世離れした世界が形成されるのだろう。断っておくが、詰め込みや競争が無いとは書いていない。彼等の共通言語となる知識は詰め込まねばならないだろうし、彼等の間での競争はあるだろう。日本人や米国人が欧州社会に入り込めないのは、端的には欧州上流層の共通言語である哲学やその他諸々の教養を語る能力が欠如しているからだろう。

大学進学率が3割を超えた状況を教育の大衆化と呼ぶということを聞いたことがある。文部科学省の「学校基本調査報告書」によると、日本では2006年3月の高等学校卒業者の52.4%が大学または短大へ進学している。こうした教育の大衆化のなかで、有象無象に無理矢理序列を付けるために、例えば偏差値だのセンター試験だのといった規格化された知識の量のみを問うような不毛なシステムが登場する。日本の場合、大学は官吏や会社員を養成するための機関という程度の意味しかないので、不毛なシステムで十分なのだが、これでは国家元首とか多国籍企業の経営者というような器は養成できない。今の日本では、大学は高等教育機関というより大衆社会のなかの風景に過ぎない。

経済力に比して国際社会のなかでの発言力が弱いのも、その発言の実際的な当事者たる政治家がいないのも、こうした世の中のしくみに起因していると思う。かつて田中角栄が、真に政治家と呼ぶことのできる人間は自分と三木武夫くらいだ、というような発言をしたらしい。日本では人の上に立つ人物を養成するという発想が無いのだから、政治家がいないのは当然なのである。たまたま安倍、福田と非力な首相が続いたということではなく、これが日本の常態なのである。

ちなみに、今年で34回目となった先進国首脳会議の出席者を見ると、1975年の第1回から参加している6カ国のなかで、出席者の交代が最も少ないのはフランスとドイツである。34年間にわずか3回しか首脳が交代していない。逆に最も交代が多いのはイタリアで18回だ。しかし、イタリアは他の5カ国と違って、政権を退いた後に復帰した首脳が何人もいるので、サミット経験者の数は13人である。経験者の数が最も多いのは日本で16人(1980年、大平正芳首相の急死で代理出席した大来佐武郎外相を除く)、つまり同期間に少なくとも15回は首脳が交代したことになる。日本の場合、羽田孜や細川護煕のようにサミットに出席せずに任期を終えた首相もいるので、政権交代頻度は先進国の中で他を引き離して最も高いということになる。米英はどちらも5回である。

かつて日本は「経済一流、政治三流」などと称された時代もあった。そもそも企業活動の領域は、西洋社会ではやや下に見られる領域なので、人材の質において日本が優位に立つことができたということなのだろうか。有象無象どうしの比較なら、日本のほうがましであるということだろう。これは、こちらで生活していて実感として頷くことができる。

与えよ、さらば与えられん

2008年09月03日 | Weblog
企業活動においては、売上とそれを得るための費用とが対応することが原則である。何の費用もかけずに売上だけが発生することはないし、費用ばかりかけて売上がなければ、その企業は破綻する。また、売上と費用とが同額なら、その企業活動は拡大せず、不測の事態に直面しようものなら、やはり破綻する。健全な企業というのは「収入=費用+利益」という式で表現できる。

このように書くと、誰もがそんなことは当然だと思うだろう。しかし、被雇用者という立場にある人の中で、自分が所属する企業においては自分自身が費用そのものであるという自覚を持っている人がどれほどいるだろうか? 自分の職場での行為がどれほどの価値を生み出しているのか、考えたことがある人はどれほどいるだろうか?

企業組織が大きくなればなるほど、そこで発生する個々の作業は細分化され専門化されるものである。その結果、収益獲得に直接関与しない部門も多くなる。そうしたコストセンターが肥大化すると、先に示したような式は成り立たなくなる。つまり、企業は健全な状態ではなくなってしまう。しかし、個々の被雇用者にしてみれば、企業の目的など眼中にないので、たとえコストセンターでも自分の所属する部門を肥大化させることに自分の存在意義があるという妄想に取り憑かれしまう人も珍しくない。無用の仕事を創造し、増殖させ、そこに自分の既得権を根付かせ、極めて限られた領域のなかで自己主張を通すことに喜びを得ている輩である。それは癌細胞のようなものなので、早期発見早期根絶という方針で対処しないと、やがて組織全体が崩壊してしまう。

ところで、先の式は個人の生活あるいは家計にも当てはまる。家計においては「利益」という概念は無いので、これを「貯蓄」に置き換える。「費用」は「労働」のことである。自己の労働力を行使することで、その対価としての収入を得るのである。それが健全な生活というものだ。労働力を行使するというのは、自己の身体能力を活用するということで、なにも四肢を使うことだけが労働ではない。そう考えると、不法行為や理不尽な行為をしない限り、不労所得というものは存在し得ないということになる。不動産経営も資産運用も知恵を働かせているのだから、立派な労働である。まず、働く。それが生きることの基本であるということだ。

働くことが生きることの基本であるということは、それが生きる上でのもうひとつの支柱である自尊心と密接に関係するということでもある。このことが企業内で組織の行動目標と個人のそれとの間に葛藤や対立を引き起こす一因となることもある。つまり、個人が与えられた職域で過剰に存在意義を主張することが、組織全体の利益を毀損することになる場合もあるということだ。こうした組織内部の利害対立を調整するのも経営管理の重要な役割なのだが、それを自覚できない管理職が少なくないのが現状だろう。組織論や人心掌握のできない管理職とエゴ爆発社員との狂騒があちこちで繰り広げられながら、世の中はまわっているのである。誰もが善かれと思って行動しているので、余計に始末が悪い。

表題の「与えよ、さらば与えられん」という言葉は、新約聖書のなかのルカの福音書のなかにある。相手からの見返りを期待せずに、自分がして欲しいと思うことを相手に施せば、相手からも感謝されるし、自分も気分がよくなる。それが神の祝福でもある、ということなのだそうだ。収入を得るには、まず働け、などという下世話な話ではない。ただ、自分のほうから先に行動を起こす、ということが似ていると思ったので表題に使っただけのことだ。さすがに聖書には良い言葉がたくさん詰まっている。ありそうであり得ない、というところがまたいい。


参考:「Holy Bible English standard version Collins」より
The New Testament, Luke 6:38
‘Give, and it will be given to you.’

「与えよ、さらば与えられん」というのはこの部分のことだが、その前段に似たような意味のことが繰り返し書かれている。例えば、この直前にはこのような文言がある。これもしばしば引用されるところだ。
The New Testament, Luke 6:35
But love your enemies, and do good, and lend, expecting nothing in return, and your reward will be great, and you will be sons of the Most High, for he is kind to the ungrateful and the evil.