栗野的視点(Kurino's viewpoint)

中小企業の活性化をテーマに講演・取材・執筆を続けている栗野 良の経営・流通・社会・ベンチャー評論。

「コロナ」が変えた社会(3)~世界は中国化していく

2021-08-09 12:28:33 | 視点

 「アメリカファースト」に凝り固まったトランプ米大統領は自国経済の悪化もCOVID-19による米国民の死者数増も、悪いのは全て中国のせいにして自身の支持率アップを図ろうとしている。だが彼の思惑とは反対に中国の世界への影響力は確実に広がりつつある。
 そしてCOVID-19の世界的大流行(パンデミック)が一段落した後、世界はほぼ間違いなく中国化しているだろう。

「コロナ」後は中国が世界標準に

 未知のウイルスへの感染者が最初に発見されたのは中国で、そのウイルスは少し前に流行したSARSウイルスに似ていたので「SARSコロナウイルス2(SARS-CoV-2)」と名付けられ、このウイルスによって引き起こされる感染症は「COVID-19」と名付けられた。
 中国・武漢市でCOVID-19の罹患者が増えだした当初、中国は情報を公表せずひた隠しにしたため世界から批判を浴びたが、その後の対応は素早く、武漢市を封鎖するという強権的なやり方でCOVID-19の封じ込めに「成功」したように見える。
 中国はSARSの時も情報を公開せずWHOから批判されたが、今回の対応はその反省に立ったものではなく、対応はまったく同じだった。
 それでもCOVID-19の封じ込めに「成功」し、中国全土への感染拡大を防いだことから、世界各国が中国のやり方に倣ったのは知られている通りだ。

 個人的には中国の「成功」に倣ったのは「ボタンの掛け違い」だったのではないかと考えているが、中国の封じ込め「成功」を目の当たりにした各国指導者は中国と同様の方法を、同様のやり方で行った。強権的な都市封鎖(ロックダウン)である。

 なぜ、世界の政治指導者達はここまで強権的な方法に踏み切ったのか。なぜ、民主主義国家の国民が大した反対もせず、自由と私権の制限にやすやすと従ったのか。本当にSARS-CoV-2は狂暴なウイルスなのか。
 そうしたことが本当に解明されるのはもう少し後になりそうだが、現段階でもはっきり分かっていることが1つだけある。
 後の時代に「COVID-19の前と後」と語られるほど、この感染症が我々の世界を変えてしまったということだ。

 それは何か--。結論から先に言えば、民主主義の崩壊と世界の中国化である。さらに言うなら、アメリカという「帝国」の完全なる崩壊と、それに代わる中国という「新しい帝国」の覇権確立だろう。

 そして意図するとしないとに関係なく、それまで世界の秩序を維持していた民主主義国家はCOVID-19を契機に経済のみならず政治的にも中国の覇権の下にひれ伏したことを意味する。それと同時に、それまで「グローバルスタンダード」とほぼ同意語だった「アメリカスタンダード」は「チャイナスタンダード」に変わることも。

「帝国」になれない中国の覇権主義

 中国の覇権は今回のCOVID-19で急に始まったわけではない。それ以前から着実に進んでいたが、ここ数年、そのスピードを上げている。
 歴史上「帝国」と称される国はいくつか存在しているが、「帝国」とは軍事力の強大化を意味するものではない。言い方を変えると、軍事力が強大化すれば「帝国」なのかと言えば、そうではない。
 軍事力は必要条件ではあるが、十分条件ではない。真に帝国化するために必要なのは経済力で、それが十分条件であり、それなくしては帝国足りえないと言える。

 強大な軍事力を維持するためには、それを支える経済力がなければならない。また勢力を周辺地域に広く及ぼしてはじめて「帝国」と称されることからも分かるように、自国だけの利益を考えた国は「帝国」足りえないのだ。
 つまり勢力範囲内の国々と「共存共栄」の関係を多少なりとも築くことが「帝国」の維持に欠かせないわけである。
 例えばローマ帝国は軍事力のみで周辺諸国を従えたわけではない。征服した国には広く自治を認めたことが知られているし、交易を通して互いに潤う関係を築いていた。その関係が崩れた時、「帝国」の崩壊が始まる。

 第2次大戦後、アメリカが「帝国」となり得たのは国土が戦火の影響を受けず、戦後いち早く産業が回復したからだ。ヨーロッパ諸国の産業が壊滅的な影響を受ける中でアメリカは復興の後押しという名目で自国の産業製品、農業品の輸出を行い、勢力範囲を拡大して行った。
 その同じ過程を中国が辿りつつある。言い換えれば、中国はアメリカのやり方を忠実に真似ているのだ。

 では、中国はアメリカに代わる「帝国」となり得るのか。答えはノーである。中国、特に習近平のやり方を見ていると、覇権を推し進めて行くのは間違いないが、「帝国」にはなり得ない。
 というのは中国はトランプのアメリカ以上に自国1国の利益しか考えていず、相手国にも「恩恵」をもたらし、「共存共栄」の関係を築いていくつもりはないからだ。周辺国に軍事的圧力をかけ、経済的に従属させるのは覇権主義で帝国主義ではない。
 帝国とは少なくとも周辺国等から多少なりとも尊敬と憧れの目で見られる存在でなければならないが、今の中国は収奪することしか考えていない。

 習近平は「帝国」に対する理解が浅く、学んだのは表面的な事象だった。特に日本や欧米列強の清国に対する態度から多くのことを学び、当時、列強諸国が中国に対して行った悪名高き方法を、まるで歴史をなぞるように行っている。
 その一つが99年租借である。
例えば2015年秋、中国の「民間企業」嵐橋集団(Landbridge)はオーストラリア北部に位置するダーウィン港を99年リースする契約を北部準州政府と交わした。リース契約料は5億6000万オーストラリアドル。加えて2億オーストラリアドルを投じて港湾設備や周辺の整備をする。
 嵐橋集団は「民間企業」とはなっているが、中国の場合は少し意味合いが異なり、額面通りの民間ではない。同集団を率いるトップ、叶城理事長は「中国人民政治協商会議全国委員会」や「山東省人民代表大会」のメンバーである(本人の名刺の裏書きに記されている)ことからも、純民間企業というより党と軍のフロント企業と考えた方がいい。

 同じような租借地契約はスリランカとの間でも交わされている。同国最大都市コロンボの海岸を埋め立て国際金融都市を建設する計画で、リース契約期間はやはり99年。この新規開発エリアは「スリランカ国内とは異なる税制、法体系が適用される」と開発を担当している中国国有企業「中国港湾(CHEC)」の担当者が明言しているように、かつて中国が列強から押し付けられた不平等な租借地契約を、まるで仕返すかのように実行している。

 スリランカが中国と「租借地」契約を結ぶきっかけになったのは2004年末のインド洋大津波による被害。その際、いち早く手を差し伸べたのが中国だ。ここまでは「さすが中国。発展途上国への支援」という「美談」だが、そこで終わらないところが覇権主義の中国。
 港の整備のほか国際空港、高速道路の建設などを復興支援の名目で行ったのはいいが結局は借款。スリランカに残ったのは、そこから上がる利益ではなく重い返済債務。結局、その債務帳消しと引き換えに海岸租借を呑まざるを得なかったというのが実情。
 ここまで忠実に真似られると欧米諸国も過去の歴史への反省なく、一方的に中国を責めることはできないだろう。

 それはともかく今、中国は経済力をバックに世界各国に経済的侵略を進めているが、今回のCOVID-19の「パンデミック(世界的大流行)」が世界の中国化をより急速に進めるのは間違いない。

増加する監視システムと追跡アプリ

     (以下 略)

 

    全 文 は H P で

 

 

 

 

 


2020年に配信したメルマガ

2020-12-31 18:05:39 | 視点

 2020年に配信したメルマガ「栗野的視点」の一部です。

全文はHP(リエゾン九州)にアップしています。

 

栗野的視点(No.671):2025年、2030年の社会は?~流通小売り編

  http://www.liaison-q.com/kurino/2030nenretail1.html

栗野的視点(No.672):2025年、2030年の社会は?~世界は独裁化していく

  http://www.liaison-q.com/kurino/2030nenAbsolutely1.html

栗野的視点(No.673):2025年、2030年の社会は?~世界の製造業は半減する

  http://www.liaison-q.com/kurino/2030nenManufacturing1.html

栗野的視点(No.675):この国の無責任体質が権力者の独裁化を許していく。

  http://www.liaison-q.com/kurino/Dictator1.html

栗野的視点(No.679):老々介護と施設選びの経験から見えたこと

  http://www.liaison-q.com/kurino/Nursinghome1.html

栗野的視点(No.679):「巣籠もり」作戦は本当に正しいのか、事態を打開できるのか。

  http://www.liaison-q.com/kurino/Sugomori1.html

栗野的視点(No.687):「コロナ」が変えた社会(1)~民主主義が崩壊し、戦時中に逆戻り

  http://www.liaison-q.com/kurino/PostCORONA1-1.html

栗野的視点(No.690):「コロナ」が変えた社会(2)~減少する売り上げ、増加する犯罪

  http://www.liaison-q.com/kurino/PostCORONA1-1.html

栗野的視点(No.691):「コロナ」が変えた社会(3)~世界は中国化していく

  http://www.liaison-q.com/kurino/Chinalization1.html

栗野的視点(No.695):「コロナ」閉店・倒産ラッシュが始まっている。

  http://www.liaison-q.com/kurino/Coronafailure1.html

栗野的視点(No.679):地球温暖化防止こそが焦眉の問題

  http://www.liaison-q.com/kurino/globalwarming1.html

 

 

 

 

 


年末のご挨拶(2020年)

2020-12-31 17:38:30 | 視点

 いよいよ年の瀬が押し迫って来ました。
今年1年お会いした方、親しく会食をした方、残念ながらお会いすることができなかった方など色々ですが、COVID-19には誰も罹った風はなく、皆さんの無事に喜んでいます。

 思えば今年は春からCOVID-19関連ニュースに踊らされた1年でした。徒に怯え過ぎるのはどうかと思いますが、かといって侮るのも危険です。少なくとも最低限の対策は取り、何事もなく1年を終えていただきたいと思っています。

 私は11月半ばから田舎の実家で過ごしており、正月はこちらで迎えることにしました。田舎での独り正月は免れそうですが。
 独り正月といえば今から云10年前、まだ学生時代のことを思い出します。我が家の雑煮は東京風の醤油味でスルメとホウレン草、蒲鉾、かつお節を載せた程度の大した具もない雑煮で、島原の具雑煮、博多のブリが載った雑煮とは大違いです。
 今秋、島原に旅行に行った際、具雑煮を食べたこともあり、この正月は家でも具雑煮にしてみようという話になったので、初めて我が家風の雑煮とは違う新たな正月雑煮になりそうです。おせち料理も初めて宅配で頼みましたしね。

 地方によって雑煮が違うということは学生時代に初めて知りました。四国、松山の雑煮はみそ味で、それまで雑煮は醤油味と思っていたので、みそ味の雑煮には驚くとともに、所変われば品変わる、というが本当だ。世の中広いなとある意味感心しました。
 1.5畳の部屋でアルミ碗に入れられた冷めた雑煮で、餅も溶けて形が分からず、具も何が入っているのかよく分からないような雑煮でしたが。
 小さな小部屋で小机を前に正座して食べる独り雑煮でしたが、侘しいという感じはなく、むしろ初めて食べる味と、こういう所でも正月は雑煮を食べさせるんだといことに感心したものです。

 昨日、高校の同級生が突然、訪ねて来てくれました。「車が止まっているから帰って来ているのだろうと思って」と。
 ありがたいものです。高校時代に親しく話した間柄でもなく、卒業後会ったのは今春が初めてですが、我が家には今回を入れて2度も来てくれました。いずれも突然。
 彼は今、市会議員をしています。来春の地方選にも出馬すると言ったので、70歳過ぎたら、もう出なくていいと言いましたが、推す人もあるのでしょう、出ると言っていたから、出る以上は頑張ってくれと伝えて別れましたが。

 この頃元気なシルバーが多い。人生100年と言い、頑張りましょう、常に新しいことにチャレンジしなければ、と言う人がいますが、100歳まで生きられませんよ。普通に考えれば90年です。70歳にもなれば後進に道を譲り、残りの人生は静かに、心穏やかに過ごした方がいいと私は思っていますし、そうしたいと思います。
 もう拡大・成長神話とは縁を切った方がいいのではないでしょうか。企業も経済も人も、身の丈でよくありませんか。
 今回のCOVID-19のパンデミックはそれを教えてくれたのではないでしょうか。

 私は30代は黙して語らず。深く静かに潜航し、ひたすら自分を磨くことに費やしました。40代になると少し発言をしてもいいかと思い、少しずつ発言をし出し、活動も広げました。それは同年代が経営の第1線に立ち始め、互いに話ができるようになったからです。
 50代は積極的に発言しました。それは60代で発言したのでは遅すぎる。今言わなければ、発言するなら今しかないと思ったからです。
 村上春樹はそういう意味では嫌いです。50代、60代で政治的発言をせず、70歳になってやっとするというのは卑怯。大江健三郎氏に言われたのも当然です。村上以前の作家は皆若い頃から発言していたのですから。

 とまあ年の瀬にあたり、1年、人生を振り返り、そんなことを考えたりしています。
 来年、互いに元気な姿でお会いしたいと思います。

 

 


「新・文盲」が増えると独裁化が進む。(3)~識字率の低下は独裁化を招く

2020-11-13 10:00:18 | 視点

識字率の低下は独裁化を招く

 背景にあるのは戦後のローマ字教育と近年のスマートフォン普及。

明治の文豪達は外国人が発音する言葉に近い漢字を探して表記したから

コーヒーを「珈琲(かひ)」と記したし、プロレスでも「本日のメーンイベント」とアナウンスした。

 それが戦後のローマ字教育でアルファベットが読めるようになると

「Coffee」を耳からではなく目でローマ字読みし「コーヒー」と発音し出した。

「main」も耳から入って来る音の「メーン」ではなく、目で読み「メイン」と

ローマ字読みするようになった。「maid in japan」も「メード・イン・ジャパン」と

表記されていたのが、最近はメディアでも「メイド・イン・ジャパン」と

ほとんどローマ字表記に変わってきている。

 要は目と耳が分離しだしたわけで、戦後のローマ字教育のせいで日本人の外国語は

どんどんローマ字化してきている。

一方で「グローバル化」「国際化」を唱え、入試にヒアリングを取り入れるなど

喋れる英語教育に力を入れている。だが、その実「グローバル」とは無縁な

「ジャパニーズイングリッシュ」が蔓延っているのは皮肉だ。

 国際化を唱え「ガラパゴス化」を批判しながら、言葉が「ガラパゴス化」している現実に対し

何も言わず、ただ追随しているメディアにも疑問を感じるが。

 ともあれ、以上のように現代日本人の識字率は明らかに低下しつつある。

スマートフォンの普及で、読めない文字は「読み飛ばす」傾向にもある。

 紙媒体中心の頃なら、読めない漢字は辞書を引き、読みと意味を調べ、

ついでに熟語や関連する言葉も覚えたりしていたが、今ではそんなことをする人は極稀だろう。

PCならいざ知らず、スマートフォンはそうした操作をするのに不向きである。

 かくして皆が「なんとなく分かった」気で読み飛ばしていく。

その結果ますます文字が読めなくなっていく。

 誤解を恐れずに言えば、文字が読めない程度ならまだいいが、

社会全体で識字率が低下すれば重大な社会変化が起きる。

 「識字率の上昇は民主主義を浸透させる」と言ったのはフランスの人類学者

エマニュエル・トッドだが、この言葉は裏を返せば「識字率が下がれば

民主主義は後退する」ということである。

 今、世界は独裁化に向かって急速に進んでいる。

北朝鮮や中国、ロシアや開発途上国のいくつかの国だけのことではない。

アメリカやベトナム、さらには自由を重んじるフランスでも指導者の独裁的手法が進んでいる。

 世界で独裁化を加速させた要因の主要な一つはCOVID-19だが、

日本ではそれよりずっと前、安倍政権下で進められていた。

 それは水を少しずつ温めるように進められていたので、人々はあまり意識することなく

「ゆでガエル」状態で、むしろ心地よささえ感じていたかもしれない。

 こうした状態を「ソフト独裁」と指摘して、かつてのナチスやスターリン、

日本軍部などで代表的に見られた強権的な「ハード独裁」と区別して述べたが、

「新・文盲」の増加がソフト独裁を呼び込み、支える基礎になっている。

 


「新・文盲」が増えると独裁化が進む。(2)~漢字を読めない層が増加している

2020-11-13 07:30:00 | 視点

漢字を読めない層が増加している

 では「読み」の方はどうか。ここで敢えて元総理を引き出すまでもないだろうから別の例を。

 COVID-19(新型コロナウイルス感染症)のことが連日報道され「コロナ禍」という言葉は

誰もが聞き知っているはず。にもかかわらず、この字が読めない人が案外存在している

と知ったのは、つい最近のことだ。

 某芸能人というかタレントが「コロナうず」と映画だか何だかの発表会の席上で言ったのだ。

それに対し「私も”うず”と言っていた」という書き込みがネット上で見られた。

言うまでもないだろうがコロナ「か」である。

 たしかに「禍」と「渦」は一見似ているし、彼は「コロナか」という言葉は聞いて知っていたはずだ。

耳では知っていたが文字では「コロナか」ではなく「コロナうず」と読んでいたわけで、

耳と目が連動していないというか「禍」という文字が読めなかったのだ。

そして、こうした例は増えている。

 似たような例をもう一つ。

岡山県に「美作」という地域がある。ちょっと歴史をかじった人なら知っていると思うが、

古くには「美作の国」と呼ばれた、現在の津山市を中心とした県北東部の地域である。

 現在は美作市という市まで存在しているにもかかわらず、地元の人で「美作」を

「みまさく」と読む人が結構な数いる。正しくは「みまさか」である。

それをいつの頃からか「みまさく」と読み、自分達が住んでいる市の名前を

「みまさくし」と発音しているのだから驚く。

 こう発音している人は学歴とは関係なく、その地で生まれ育っている人でも

「みまさか」と読めずに、平気で「みまさく」と発音する人が増えている。

地元商工会議所の副会頭までが「みまさく」と言ったのに、さすがにそれはマズイ

だろうと思い「みまさか」でしょと指摘すると「古くは”みまさく”と言っていた

時期がある」と言ったのには驚いた。

 ここまでくれば無知(恥)としか言いようがないが、この種の「文盲」が近年増えつつある。

 地元の人が「美作」を「みまさく」と言い出したのは、実は比較的最近になってから、

恐らく平成の大合併で「美作市」が誕生して以後だと思われる。

それ以前に人々が「みまさく」と言うのを聞いたことがない。

 では、なぜ突然、地元の人達が誤った読みで話し始めたのか。

耳ではなく目で読み始めたからだ。

どういうことかといえば、美作市誕生以来、市報をはじめ各種通知に「美作」という

文字の表記が増え、人々がこの文字を目にする機会が格段に増えたことで、

「作」の字を字面通りに「さく」と読み始めたのだ。

 今までは耳から入った語で聞いていたのが、目から入って来る字を読むようになったから、

こうしたことが起きているわけで、文字が読めない文盲ではなく、

文字そのものは読めるが正しく読めない「新・文盲」が全世代で増えている。

 

 


「新・文盲」が増えると独裁化が進む。

2020-11-12 22:45:07 | 視点

 「文盲」が増えている--。

こう言えば驚かれるかもしれないが、近年、日本人の識字率が下がってきているのは間違いない。

識字とは「読み書き」のことであり、日本人の読み書き能力が下がる傾向にあるのは以前から指摘されていたが、

その傾向は年々増えている。

国語教育の軽視が理数の低下を

 原因はいくつか考えられるが、1つは国語教育の疎かさ。中でも作文。

また昔は当たり前のようにあった、夏休み等の宿題で出されていた「読書感想文」の廃止等が

少なからず影響していると思われる。

 前者は書くことで漢字を覚えるし、後者は読むことで漢字や言葉の意味を覚え、

理解して行くが、この2つともが疎かにされると読み書き能力が育成されない。

 読み書きが多少できなくても問題ない、と思っているなら、それは大いに問題で、

人との会話が通じない(コミュニケーションが取れない)。

人間は言葉(書いたものであれ、話したものであれ)で会話する動物であり、

言葉は一つひとつ意味や概念を持っている。

ところが、その言葉の持つ意味や概念を間違えて話していると他者との

コミュニケーションは成り立たなくなる。

「私はこういう意味で話していたのに、君はそういう意味で理解していたのか。

道理で先程から話がズレていると思っていた」なんてことになる。

 日常生活の中でならそれほど問題になる場面は少ないかもしれないが、

これが政治や外交の場面では大問題になりかねないし、一国の首相ともあろう人間が

漢字の読みを間違って覚えていたりすれば恥ぐらいで済まされない。

通訳が困るだろうし、通訳が間違って訳して先方に伝えるなんてことも起こる。

そうなると恥をかく程度では収まらず、外交問題に発展しないとも限らない。

 この国の一番の問題は国語教育を軽視し、軽視した分だけ外国語(米語)教育に

比重を移しつつあることだ。

それがなぜ問題なのか。それは人の思考と密接に関係しているからである。

人は母国語(生まれ育った国や土地の言葉というだけでなく、言語能力が形成される時期に

最も長く親しんでいた国や土地の言葉)でものを考えるから、まず基礎としての母国語が

しっかりしていなければ、ものを考えることができない。

 例えば理科や算数、数学の成績が悪い子は国語の成績が悪かったりするということが

指摘されている。計算式はしっかり解けるが、記述式の設問の意味が理解できないために問題が解けないのだ。

 それは社会科等他の教科についても言えることで、国語の理解が進めば他の教科の

成績も上がることは充分考えられる。

高校の科目ができない大学生

 大学進学率が54.67%(2019年)の日本で識字率が低下しているというのは奇妙に

思われるかもしれない。高校卒業者の半数以上が大学に進学しているのだから、

識字率がアップしているならともかく低下はあり得ないだろう、と。

 ここで思い出していただきたい。大学入学者の学力が落ちている、と報じたメディアの記事を。

これは今年や昨年の話ではない。それ以前から言われ続けてきた。

近年は入学後に高校授業の「復習」をしている大学が結構存在していると言われている。

 大学に入って高校の授業?と奇異に感じられるかもしれないが、

そうしないと大学の授業について行けない(大学の授業が理解できない)から、

大学側としてはそうせざるを得ないようだ。それぐらい高校卒業生の学力が落ちているということだ。

 要はベースとなる国語力の低下が全ての分野に影響を及ぼしているわけで、

その傾向は強まりはしても弱まりはしないだろう。

そうなった原因の3つ目はスマートフォンの普及と無関係ではないからだ。

 掌に小さなコンピューターを握っていれば、どんなに難しい言葉でも

瞬時に意味が分かる。常に電子辞書を持ち歩いている人がいて、

「これさえあれば東大でも合格できる」と嘯いていたが、あながち間違ってはいない。

今はそれにスマートフォンが加わったから、電子辞書とスマートフォンがあれば

大抵の問題は解けるかもしれない。

 その結果どうなったか。識字率が下がり現代文盲が増えている。

文字を書かなくなった(書く機会が減った)から「読み書き」の「書き」が

できなくなったのは容易に想像がつくだろう。

 

 


「Go toキャンペーン」は喜ぶだけでいいのか。

2020-10-20 09:37:51 | 視点

栗野的視点(No.709)                   2020年10月8日
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「Go toキャンペーン」は喜ぶだけでいいのか。
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 10月1日、「Go to トラベル」キャンペーンに東京発着の旅行が加わったことで

各地の観光地は大賑わいになり、宿泊業をはじめ観光需要を当て込んでいた業者は

皆「一息つけた」と顔をほころばせていた。

 「Go to」はトラベルだけに限らず、この後様々な業種向けのものも用意されているという。

消費者にとっては安く旅行できたり、安く食べられたりするのだから大歓迎に違いないが、

この「Go to キャンペーン」、素直に喜ぶだけでいいのだろうか。

宿泊料がタダ同然になる

    (略)

「Go to」は高級宿ほど恩恵

    (略)

ほぼタダになった民宿料金

    (略)

「Go to」は税金の無駄遣い

 こう見てくると「Go toトラベルキャンペーン」は利用者にとってはいいことずくめの

ように思えるし、このキャンペーンを利用して旅行しなければと多くの人が考えるに違いない。

 しかし「待てよ」と言いたい。いいことずくめに思えるキャンペーンだが、喜んでばかりでいいのだろうか。

 35%の割り引きにしろ、地域クーポンにしろ、「打ち出の小槌」のようにカネが湧いて

出てくるわけではない。どこかで誰かが割引額を補填しなければならないのはちょっと考えれば分かる。

 では、旅館やホテルなどが35%値引きした料金で提供してくれているのか。

それとも旅行会社のサービスか。あるいは旅行関係業者が分割負担しているのか。

 今回のCOVID-19騒ぎで売り上げが大幅に落ち込み、中には倒産の危機に瀕しているところも

ある中、その可能性はまずないだろう。

 となると「打ち出の小槌」を振って大盤振る舞いしているのはどこなのか。

このキャンペーンを仕掛けた政府である。それなら安心だ、と喜べるか、喜んでいいのか。

 無から有を作り出す「打ち出の小槌」など世の中には存在しない。

どこかから原資を持って来なくてはいけないのは「灰色の脳細胞」でなくても分かることだ。

 いや、いや、そんなことは簡単だ。日銀に言って紙幣をどんどん刷ればいいだろうって。

そんなコンビニエンスに行ってコピーするのとは訳が違う。

紙幣をどんどん刷れば市中に金が溢れ、ハイパーインフレになる。

ハイパーインフレになると物価はどんどん上がり、国民一人一人が持っている資産価値は

ガタ減りになる。これでは経済活性化どころか、その逆になる。故に紙幣の乱造は考えられない。

 ところで今春以降、政府は「新型コロナウイルス」関係でかなりの資金を投入している。

そして今また「経済対策」という名の下に「Go toキャンペーン」を仕掛けている。

 その金はいずれも国庫から出ているわけで、元をただせば税金だ。

税金である以上、入って来る金と出ていく金はきちんと管理されなければならない。

収入と支出のバランスを取るのが本来の姿だが、短期的には支出の方が多いこともあるだろう。

 個人でも会社でも国でも同じだが、「財布」に金がなくなれば借金をせざるを得ない。

しかし、借りた金は時期は別にしても必ず返さなければならないが、まずどこから借りるのか。

 企業の場合は銀行等から、国は赤字国債の発行という形で当座の資金を手当てする。

我が国は健全財政とはいえず借金まみれと言っていい状態になっている。

借金返済を未来に先延ばししながらやってきているわけだ。

 そこにもってきて今回の「新型コロナ」である。休業補償だ、一律給付だと予定外の支出が増えている。

 与野党ともに国の財政のことは後回しにして、人気取りでどんどん、速やかに支給しろと

いう論議ばかりが罷り通る。たしかに出血している怪我人を前にすれば、まず止血する必要がある。

それは分かるが怪我をしていようがいまいが関係なく、とにかく薬を与え包帯をグルグル巻きに

する必要があるのだろうか。それではいくら金があっても足りなくなるし、

不足した資金を補うためにまた借金を重ねるということになる。

 もちろん、現在の支出は一時的なもので経済が好転すれば税金として国庫に入って来る金が

増える、というのも分かる。

それは今行っている政策が有効な場合だが、「Go toキャンペーン」がそれほど有効とも思えない。

 というのは、皆すでに自粛疲れで外出したがっているわけで、キャンペーンがあろうが

なかろうが、外出自粛が解禁されれば旅行に行っているだろう。

もちろんキャンペーンで旅行代金が安くなれば旅行に行く人の数は増えるだろうが、

そのための支出分と、キャンペーンで増えた人の支出分を計算すれば後者の方が圧倒的に

多いとはならないのではないか。むしろ前者の支出の方が多いのではないかと考える。

 その辺りのことはきっちり検証する必要があるし、ムダに税金を使ったのでは

逆に国民の負担が増えるだけだ。

 このところ政権の人気取り政策ばかりが目立つように思うが、

我々国民の側も旅行代金が安くなると喜ぶだけではなく、

収支決算や将来も見据えてしっかり考える必要があるだろう。

 

 全文はHPか「まぐまぐ」から配信(無料)している「栗野的視点」でお読み下さい。

 HP http://www.liaison-q.com/

 

 


菅首相の携帯電話料金値下げ要求はMVNOを潰す

2020-10-16 15:35:12 | 視点

栗野的視点(No.708)                   2020年10月5日
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菅首相の携帯電話料金値下げ要求はMVNOを潰す
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 菅義偉氏が首相になり力を入れているのが携帯電話料金の引き下げ。

「日本の携帯電話料金は諸外国に比べて高く、3大キャリアは儲け過ぎており、

40%は引き下げる余地がある」と言う。

 数年前までなら確かにその通りで、電話料金の値下げはいいことだと賛成するが、

今は素直に喜べない。

3大キャリアは低料金プランも

 というのも、この数年でドコモを始めとしたキャリアの電話料金は下がっているし、

低価格プランも増えているのが1つ。

もう1つはMVNOと呼ばれる格安SIM取り扱い会社潰しになるのではないかと危惧するからだ。

 この種のことは過去何度も繰り返されてきた。

例えば航空運賃。規制緩和で参入障壁を下げ、競争による運賃低下を目論んだが、

国内の格安航空会社はほぼ全滅。

結局、大手航空会社の傘下に入り経営の立て直しをせざるを得なかった。

 携帯電話もSIMロックを外しSIMフリーにするように法改正をした結果、

多くのMVNOが生まれたのはいいが、格安航空会社と同じ道を辿るのだろうと

踏んだ通りになりつつある。

 まずソフトバンクが格安携帯電話会社ワイモバイルを設立してサブブランド化。

さらに最近、MVNOのLINEモバイルを子会社化した。

 KDDIも格安SIMを扱うビッグローブを子会社化。

さらにUQモバイルを子会社化し、キャリアからMVNOまでをグループで扱えるようにした。

ワイモバイル、LINEモバイル、UQモバイルは他のMVNOと違い豊富な宣伝費を

使ってPRできるだけでなく、親会社のキャリアから回線を安く仕入れることが

可能になり、他MVNOとの競争で優位に立てるようになった。

 3大キャリアで唯一サブブランドを持ってないのがドコモだが、

ドコモは大半のMVNOに回線を卸しており、そこから上がってくる売り上げが

大きいこともあり、同社がサブブランドを持つ可能性は低い。

その代わりに出した答えがNTTによるドコモの完全子会社化である。

「合理的かけ放題プラン」が広がるか

 キャリアはさて置き、格安SIMを扱うMVNOはといえば当初は安いデータ通信が

ウリだけだったが、その後プレフィックス電話の導入により30秒20円の通話料金を

30秒10円と半額にしたり、3分とか5分かけ放題プランを導入するなどの努力をし、

加入者数を増やしてきた。

 それでも3分、5分のかけ放題はやはり使い勝手が悪いし、データ通信料にしても

月10GB以上の大容量の通信料は高いという不満が募っていた。

 またキャリアの2年縛りに比べれば短いとはいうものの、実質1年の縛り期間はある。

 これらが邪魔をしてMVNOへの移行をためらうユーザーは多い。

そこでMVNOの中にはよりユーザーサイドに立とうと努力する企業も現れだした。

その一つが10分かけ放題プランの導入である。

3分は用件のみのビジネス電話的で、5分でも通話時間を見ながらの通話しかできず、

両方とも精神状態はよくない。その点、10分になるとある程度余裕を持って通話ができる。

というわけで今は10分かけ放題を導入するMVNOが増えている。

 ユーザーが本当に望んでいるのはキャリア並みの時間制限なしのかけ放題だが、

これには回線の卸価格(プレフィックス電話との接続料)の問題がある。

卸価格が安くなれば通話料の値下げに踏み切ろうとするMVOはいるわけで、

その1社が日本通信だ。

 同社はNTTドコモの卸価格値下げで総務省の裁定に持ち込み、

12月末の結論を先取りする形で7月から「合理的かけ放題プラン」の導入に踏み切った。

 このプランは通話中心の高齢者などには歓迎されるプランだし、

個人的にも大歓迎で日本通信に替えたいと考えている。

ただ、現在利用中のMVNOからの移動料金が安くなる1年近く待ってからと思っている。

 もう一つは、これが多くのユーザーと共通する点だろうが、

日本通信のSIMに切り替えたユーザーの声を聞いてから、実際の通信速度や

品質などを判断してから決めたいと考えている。

速度アップで使える低速モード

      (以下 略)

 

  全文はHPに収録、

栗野的視点(No.708):菅首相の携帯電話料金値下げ要求はMVNOを潰す

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「コロナ」が変えた社会(4)~貧困層が増え、社会的格差がさらに拡大

2020-10-13 21:45:30 | 視点

 COVID-19は人類の生活をすっかり変えた--。

と言っていいかもしれない程、我々の社会生活、日常生活を変えつつある。

人と人の物理的距離(ソーシャルディスタンシング、フィジカルディスタンス)の取り方やマスク姿、

リモート〇〇は、そのうち元に戻るかもしれないが、修復できないほど距離を広げたものがある。

エールは時にプレッシャーにも

 その1つに社会的格差がある。貧富の差と言ってもいいだろう。

かつて日本は「1億総中流社会」と言われたように富の格差はそれ程大きくなかった。

この頃が最も活力に溢れていた時であり、その後バブル経済期を迎え「ジャパン・アズ・ナンバーワン」

などと言われ、いい気になっていた頃もあった。


 だが、「驕る平家も久しからず」の例え通り「日出づる国」はバブル経済崩壊を経て「日没する国」になり、

その頃から貧富の差が開き出し、格差拡大社会へと移行していった。

 現実と幻想、人々の意識の間には認識の時間的差がある。

両者の差が埋まってきたのが平成の終わり頃で、その頃になるとほとんどの人が格差の存在を認めるように

なったのと同時に、一度付けられた格差は変えることができず固定化されていくと身をもって知りだす。

階層から階級への変化であり、格差の固定化である。

 この現実を実感して初めて人々は格差社会の存在を認識するも、この国の人々の中にはまだ

「努力すれば変われる」「変われないのは自分の努力が足りないからだ」という、

親の代から擦り込まれた「希望という名の幻想」が残っており、それが「自己責任」という名に変えられ、

個人の責任に帰せられ、権力批判に向かわないのが、この国の特徴だ。

 かといって、鬱々たる不満を抱えたままでは自らが病んでいく。

どこかに「ガス抜き」をする必要がある。向かう先は異分子、権力を持たない弱者。

彼らは総じて集団に従わない、集団の「総意」と異なる意見を持っている。

それを皆で叩こうとする。形を変えたイジメ、リンチである。

 こうした現象は逆の形で表れることもある。例えば今回の医療従事者への讃辞。

感染リスクに曝されながらCOVID-19患者を受け入れ、治療に当たっている医師や看護師など

医療従事者に感謝を贈ろうと始まった、決まった時間に一斉に拍手する行為。

 動機が善意だけに批判もなく各地で広がって行ったが、元はアメリカで始まったもの。

モノマネでも二番煎じでも、善意を広げることはいいことだ。

しかし、行政が率先してやることに腑に落ちないものを感じる。

 福岡市でも市長をはじめ職員が一斉に窓際に立ち拍手するらしいが、そこに善意の強制と

医療従事者へのプレッシャーを感じてしまうのはなぜか。

 まず行政が行わなければならないのは実質的な支援だろう。

医療現場が欲しいのは医療用具であったり、人的・金銭的支援のはず。

それを「拍手」だけで済ませようというところにセコさ、パフォーマンスを感じてしまう。

「同情するならカネをくれ!」という言葉はこういう時にこそ相応しい。

 雨合羽の寄付も緊急時に何もないよりはあった方がいいだろうが、本当に欲しいのは医療用防護服で、

行政や企業はその手配こそ全力ですべきだ。

 後方部隊の役割は精神力に訴えることではなく、現場に不足物資を届けることである。

輜重の補給があってこそ前線部隊は闘えるのだから。

 後者の問題はギリギリのところで頑張っている医療従事者に、もっと頑張ってくれという

プレッシャーを与えることになる。感謝の一斉拍手は最初はうれしいだろうが、

決まった日時に定期的に行われ出すと、それはエールを通り越して「もっと頑張れ」

というプレッシャーに感じてくるだろう。

 感染リスクと背中合わせで、心身ともに疲れ切っているのに、まだ頑張れと言うのか。

私達が欲しいのは休める時間と、勤務に見合った報酬だ、という気になってもなんら不思議ではない。

立場が逆なら、多くの人がそう考えるに違いない。

62人が36億人分の資産を所有

 話を元に戻そう。

 かつての階層分化は固定化され階級に変じているにも拘わらず、それを未だ「階層」だと信じている

お人好しにされてしまった国民。本来、権力に向かうべき刃は「刀狩り」以降すっかり牙を抜かれて

従順な飼い犬に成り下がり、せいぜいネットで「リア充」を発信する程度である。

 ネットという仮想世界で現実生活を「リアルは充実」と発信すること自体が奇妙だが、

ネットは「幻想社会(バーチャル)」と彼女達は知っているからだろう。

束の間の夢の世界であり、現実とは違う仮想社会(バーチャル)だからこそ演じられる世界であり、

そこで現実(リアル)に感じている様々な不都合、不平等、不誠実、差別等をなかったことにしている。

 「夢見るシンデレラ」は悪いことではない。

ただ、それが権力者によってうまく利用されていることも知っておく必要があるだろう。

 アメリカでは人口の1%の富裕層が富を独占し、経済も政治も動かしているばかりか、

「世界のトップ62人の大富豪が全人類の下位半分、すなわち36億人と同額の資産を持っている」

(国際貧困支援NGO「オックスファム」による報告、2016年)という現実を見れば、

かつての封建時代より貧富の格差ははるかに大きくなっていることに気付くだろう。

 問題は格差があることではなく、格差が拡大し、なおかつ固定化(階級化)していることである。

貧しい者は一層貧しくなり、人口の1%程度を占める富める者はますます富み、富だけでなく

権力も掌中にしていく構造が出来上がっているにも拘らず、その現実から目を逸らされている。

 富める者は富を1代で築こうが、親から譲り受けたものであろうが、その富で幼稚園・小学校から

有名校に入学でき、有名中高一貫校に進むか、有名進学校に入学し、家庭教師を付けたり

有名塾に通って一流大学に入学し、官僚になるか政治家、あるいは一流企業に就職する。

 早い話が日本の政治、経済をリードする地位に彼らが着いているわけだ。

このことは取りも直さず、親の財産の過多で子の将来は決まっているということであり、

日本も階級社会になってきたことを意味している。

 一方、貧しい者は高校時代から学費稼ぎのためにアルバイトをし、大学に入学しても

学費と生活費のためにアルバイト生活を余儀なくされる。

言い換えれば、勉強したくても勉強に割く時間がない。

学費と生活費を稼ぐためにアルバイトをしなければ生きることさえままならないのだ。

 彼・彼女達の何パーセントかは生きるために学業を諦めざるを得ない者も出て来る。

なんとか卒業できたとしても、そんな環境で優秀な成績を残せる人間は極めて稀だろう。

 一見、「よーいドン」で走り出しているように装われているが、実はスタート時点から差を付けられている。

これは競争でも何でもない。勝つ者は最初から分かっている。それが今の格差社会の現実である。

格差は拡大するのか縮小するのか

 問題はこの格差が今後どうなるのか。縮小するのか、さらに拡大するのか。

「努力次第で上に行ける」「頑張れば成功者になれる」と言う人がいるかもしれない。

そう言う人は団塊の世代以上だろう。

 たしかに戦後からしばらくの間は既成秩序が破壊された戦国時代に似た時代で、皆が同じスタートラインに立っていた。

そういう時なら「自分の力で」「頑張ればなんとか」なったし、多くの企業がベンチャーだった。

 だが、今はそんな時代ではない。にも拘らず「頑張れば上に行けるのだから」と言う人は

よほど現実を無視しているか、幻想を振り撒き、馬の前に人参をぶら下げて走らそうと考えている人に違いない。

 今後、格差が縮小する可能性があるとすれば世界経済が破綻し、既成秩序が崩れ、

皆がもう一度同じスタートラインに立った時以外にない。

 COVID-19の世界的大流行がそのきっかけになるだろうか。

たしかに世界経済に未曽有の打撃を与えつつあるから、考えられないことではないと思えそうだ。

 しかし100年前のスペイン風邪の大流行でも世界経済に壊滅的な打撃を与えることなく資本主義経済は立ち直った。

 それを併せ考えても、COVID-19が世界経済と既成秩序に壊滅的打撃を与えるとは残念ながら思えない。

 とはいえ、一切の打撃も変化もないわけではない。

ただ、起きる変化が大半の人、人口の90%を占める人々にとって好ましくない変化だというだけである。

 そう、今でさえ不平等な、富める者と貧しき者の格差は縮まるどころか、逆に今以上に開いていくだろう。

 例えば正規雇用と非正規雇用。

今回のCOVID-19は航空・運輸業界や自動車関連業界にも大打撃を与えているから必ずしも大企業に

属している人が安泰とは言えない部分もあるが、それでも最初に雇用調整されるのは非正規雇用の側だ。

 非正規雇用の中には会社の寮に住み込みで働いている人も多く、そういう人は職を失えば

住む場所も失い、路上生活を余儀なくされるし、そういう例も増えている。

           (以下 略)

 

低所得層は今後増えていく

 

「リモート」が格差を広げる

          (略)

 

 

  全文はHPに収録、

栗野的視点(No.700):「コロナ」が変えた社会(4)~貧困層が増え、社会的格差がさらに拡大

「まぐまぐ」からも配信しているので、そちらでもどうぞ

 


冷静さを取り戻すにつれ「専門家会議」の誤りを指摘する専門家も

2020-07-24 11:52:39 | 視点

栗野的視点(No.698)                   2020年7月14日
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冷静さを取り戻すにつれ「専門家会議」の誤りを指摘する専門家も
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ここ数日、東京では感染者集が100人を超える日が続いていますが、

社会全般で言えば、当初の慌てふためきはなく、少し落ち着きを取り戻しているようです。

そして感染学専門家の見解も当初に比べて2つに分かれてきたようです。

 だが「(No.685):「巣籠もり」作戦は本当に正しいのか、事態を打開できるのか。」で

「未知のモノや予期せぬ出来事に遭遇した時、人が取る行動は次のようにパターンに

分かれる」と指摘した5段階ではなく、まだ3段階と4段階の中間くらいのようです。

 1.身構えと様子見

 2.右往左往

 3.怯えと軽視

 4.敵対と協調

 5.反転攻勢

 なぜなのか。アメリカ、ブラジルの感染者数、死亡者数が減少に転じないことが1つ。

もう1つは東京の感染者数が連日100人を超えていること。

3つ目には初期の「警告」があまりにも極端だったことなどが挙げられるでしょう。

 特に「専門会議」の提言はとても科学者とは思えないもので、

きちんとしたエビデンスを示さず「人との接触を8割削減」などと唱えて、

人々の恐怖を煽ったりした弊害は大きいでしょう。

当のご本人は「8割おじさん」などと言われたり、言って悦に入っているようですが、

その数値の根拠を示さないのは科学者の態度とはとても言い難い。

 それにノーベル賞受賞の教授までが乗って同調するものだから、

権威に弱い人たちは皆信じて右往左往することになる。

 それでも最近は「専門家会議」と異なる見解をメディアも取り上げ始めています。

例えば朝日新聞は7月2日の朝刊で宮坂昌之・大阪大学免疫学フロンティア

研究センター招聘教授へのインタビュー記事を

<「新型コロナで集団免疫はできない」免疫学者の警告>と題して載せています。

 その中で宮坂教授は次のように指摘しています。

「日本のコロナ対策に関する議論には、いくつか大きな誤解がある」

「抗体だけが免疫だと短絡的に考えるのは誤り」で、COVID-19では

「集団免疫は獲得できない」と指摘する一方、

「自然免疫が強ければ、自然免疫だけで新型コロナウイルスを撃退できる人もいる。

ここが完全に見落とされています」と述べ、「一時期言われた、

人々の全体の接触率を8割減らすといったマスの対策は必要ないと思います」と。

 また7月11日の朝日新聞朝刊で<ウイルスの実態と合わない対策 

過剰な恐怖広げた専門家>という見出しで、国立病院機構仙台医療センターの

西村秀一・ウイルスセンター長へのインタビュー記事を載せています。

 その中で西村センター長は「病院と一般社会は分けて考えるべきだ」と言い

「ウイルスが現に存在して厳しい感染管理が必要な病院と一般社会では、

ウイルスに遭遇する確率が全然違う」にもかかわらず「スーパーでも病院で

使っているフェースシールドを着けて」いるが「街中そこかしこでウイルスに

遭うようなことはありません」。

それなのに過剰とも思える防衛対策が取られているのは

「突き詰めて考えると、専門家の責任が大きい」と述べています。

 さらに「ウイルスは細菌より接触感染のリスクがずっと低い。

なんでもアルコール消毒をする必要はない」

「確かにプラスチック面では比較的長く生き残るという論文はありますが、

それは、面に載せた1万個弱のウイルスが最後の1個まで死ぬのに、

3、4日かかったというものです。ただ、そこにある生のデータを細かく見ると、

生きているウイルスは最初の1時間でほぼ10分の1に減っています」

 こうした記事を読む限り、ウイルスや感染症の専門家の意見も1つではないと分かります。

 私はどこぞの大統領のような楽観主義者ではありませんし、

緊急事態宣言が解除された途端に夜の街に行く蛮勇も持ち合わせていません。

6月中旬にある人とレストランで昼食を共にしましたが、その時「久し振りに

中洲(福岡の歓楽街)に行きましょうよ」と誘われましたが、はっきりお断りしました。

「どうぞお一人で行って下さい。私は行きません」と。

 ただ、エビデンス(根拠)が示されない説を信じて怯えたり、

それで人や地域を差別するようなことはしたくないし、そうした風潮を

煽る動きには反対だというだけです。

その先にキナ臭いものが待っている感じがするから。

 えてして専門家は時の政治に利用されやすい、ということも頭に入れておいた方がいいでしょう。


栗野的視点(No.687)                   2020年5月24日
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「コロナ」が変えた社会(1)~民主主義が崩壊し、戦時中に逆戻り
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◆怖いのは人の心に棲む鬼
◆行政とメディアが煽っている

 http://www.liaison-q.com/kurino/PostCORONA1-1.html