休日は普段の運動不足解消のため、近くの里山を歩くのを日課にしている。
朝8時半前後に自宅を出発し、20分程歩いて里山まで行き、山の中の遊歩道を歩いて帰ってくる往復1時間半から2時間のコースだ。
汗びっしょりになって帰宅後は入浴、そして昼食を済ませると大抵1時を大きく回ってしまう。
たまに運動するものだから疲れて、その日は夕方までなにもせずに過ごすことが多い。
特に昼食時にビールでも飲もうものなら、酔いも手伝って半分寝たまま過ごしている。
せっかくのウォーキングも森林浴も、これでは何の役にも立たないような気もするが、それでも運動不足解消と、精神を洗うため、できるだけ休日には歩くようにしている。
山の中でウグイスやメジロの声を聞くと、本当に精神が洗われる気になるし、俗世間の垢が落ちるような気がする。
山を歩いていると色んな人に出会う。
同じように歩いている人、走っている人、犬を散歩している人等々。
それぞれに時間帯が決まっているというか、分かれているようで、犬を散歩させる人達は人が少なくなった10時前後に集中しているようだ。
共通しているのは、ごくまれに体を鍛えるために走っている中高生を除けば、あとは健康が気になる年齢の人達ばかりで、怪しげな人はいない。
怪しげな、というのはその場に似つかわしくない人という意味で、例えば山の中をスーツ姿の人が歩いていれば、これは明らかに怪しげだ。
何か他の目的で山中に入っているとしか思えない。
そういう意味では皆山歩きの服装をしている。例えば私の場合は帽子をかぶり、サングラスは掛けているが、服装はジーンズにTシャツ。靴はウォーキングシュズである。
これでこの人はウォーキングに来ていると一応認知される。
それでも帽子にサングラス姿が多少怪しいと言えなくもない。
そこでそうした誤解を招かないように、出会った人には皆声を掛けるようにしている。
擦れ違いざまに「おはようございます」と声を掛けるのだ。
大事なのは「声を掛ける」ことで、「掛けられる」ことではない。
つまり、こちらから先に声を掛けることで、相手に私は怪しいものではありませんよ、というシグナルを送っているのだ。
挨拶はコミュニケーションの第一歩だ。
きちんと挨拶ができる会社は社内のコミュニケーションがきちんとできているような気がする。
最近、ある製造業の会社を訪問した時のこと。
擦れ違う人達が皆挨拶をするばかりか、パートの女性までが手を休めて挨拶をしてくれるのだ。事務所の人達は立ち上がって迎えてくれる。
「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」と。
かと思えば、ほとんど挨拶をしない会社もある。
製造業の場合は大抵制服を着ているから、制服を着てない人間はまず社外の人間と見て間違いない。
社外の人間=商談にきている相手か、取引先の人間である確率が高い。
それなのに擦れ違って挨拶をしないのは、ユーザーのことを考えてないからか、ユーザーをユーザーと思ってないかのどちらかだろう。
そんな会社に限って自分たちが上座に座わり、こちらを下座に座らせて平然としている。
平然としているというのは多少語弊がある。
そういうことに気付いていないのだ。
これでよく営業が勤まっているなと感心してしまう。
まあ、いまごろ席程度のことで破談になることはないだろうが、その程度の会社かと扱われるのは間違いないだろう。
それはさておき、挨拶はセキュリティにもなる。
用もない人間が社内に入るのを防ぐ役割もするからだ。
挨拶をするということは、あなたのことをきちんと見ている、というシグナルを送るのと同じことで、送られた方に無言のセキュリティを掛けていることになる。
このような基本的なことがきちんと行われるかどうかが、その会社の価値を決めていく。
たかが挨拶、されど挨拶だろう。
朝8時半前後に自宅を出発し、20分程歩いて里山まで行き、山の中の遊歩道を歩いて帰ってくる往復1時間半から2時間のコースだ。
汗びっしょりになって帰宅後は入浴、そして昼食を済ませると大抵1時を大きく回ってしまう。
たまに運動するものだから疲れて、その日は夕方までなにもせずに過ごすことが多い。
特に昼食時にビールでも飲もうものなら、酔いも手伝って半分寝たまま過ごしている。
せっかくのウォーキングも森林浴も、これでは何の役にも立たないような気もするが、それでも運動不足解消と、精神を洗うため、できるだけ休日には歩くようにしている。
山の中でウグイスやメジロの声を聞くと、本当に精神が洗われる気になるし、俗世間の垢が落ちるような気がする。
山を歩いていると色んな人に出会う。
同じように歩いている人、走っている人、犬を散歩している人等々。
それぞれに時間帯が決まっているというか、分かれているようで、犬を散歩させる人達は人が少なくなった10時前後に集中しているようだ。
共通しているのは、ごくまれに体を鍛えるために走っている中高生を除けば、あとは健康が気になる年齢の人達ばかりで、怪しげな人はいない。
怪しげな、というのはその場に似つかわしくない人という意味で、例えば山の中をスーツ姿の人が歩いていれば、これは明らかに怪しげだ。
何か他の目的で山中に入っているとしか思えない。
そういう意味では皆山歩きの服装をしている。例えば私の場合は帽子をかぶり、サングラスは掛けているが、服装はジーンズにTシャツ。靴はウォーキングシュズである。
これでこの人はウォーキングに来ていると一応認知される。
それでも帽子にサングラス姿が多少怪しいと言えなくもない。
そこでそうした誤解を招かないように、出会った人には皆声を掛けるようにしている。
擦れ違いざまに「おはようございます」と声を掛けるのだ。
大事なのは「声を掛ける」ことで、「掛けられる」ことではない。
つまり、こちらから先に声を掛けることで、相手に私は怪しいものではありませんよ、というシグナルを送っているのだ。
挨拶はコミュニケーションの第一歩だ。
きちんと挨拶ができる会社は社内のコミュニケーションがきちんとできているような気がする。
最近、ある製造業の会社を訪問した時のこと。
擦れ違う人達が皆挨拶をするばかりか、パートの女性までが手を休めて挨拶をしてくれるのだ。事務所の人達は立ち上がって迎えてくれる。
「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」と。
かと思えば、ほとんど挨拶をしない会社もある。
製造業の場合は大抵制服を着ているから、制服を着てない人間はまず社外の人間と見て間違いない。
社外の人間=商談にきている相手か、取引先の人間である確率が高い。
それなのに擦れ違って挨拶をしないのは、ユーザーのことを考えてないからか、ユーザーをユーザーと思ってないかのどちらかだろう。
そんな会社に限って自分たちが上座に座わり、こちらを下座に座らせて平然としている。
平然としているというのは多少語弊がある。
そういうことに気付いていないのだ。
これでよく営業が勤まっているなと感心してしまう。
まあ、いまごろ席程度のことで破談になることはないだろうが、その程度の会社かと扱われるのは間違いないだろう。
それはさておき、挨拶はセキュリティにもなる。
用もない人間が社内に入るのを防ぐ役割もするからだ。
挨拶をするということは、あなたのことをきちんと見ている、というシグナルを送るのと同じことで、送られた方に無言のセキュリティを掛けていることになる。
このような基本的なことがきちんと行われるかどうかが、その会社の価値を決めていく。
たかが挨拶、されど挨拶だろう。