リタイア暮らしは風の吹くまま

古希を迎えて働く奥さんからリタイア。人生の新ステージで
目指すは悠々自適で遊びたくさんの極楽とんぼ的シニア暮らし

☆ゆとり教育と偏差値と個性の関係

2013年09月04日 | 日々の風の吹くまま
9月3日。 先週Wall Street Journalに載っていた「Japan’s Bad Education」という記事は日本人が「ゆとり教育」について体験を交えて書いたもので、なかなかおもしろかった。小学校1年生の授業で積極的に手を挙げると先生に「目だちたがり」と叱られ、算数の問題を早く解いてしまうと全員が終わるまで3度も同じ問題をやらされた。「ゆとり教育」は子供たちの個性や創造力、知的な好奇心を育てるはずだったのに、現場の教師たちは個性の扱い方がわからず、結局「みんな同じ」を強制。日本は現代のガラパゴスと言うけど、ゆとり教育はグローバル化時代を生き抜くスキルを持たない世代を生んだ、と。

まあ、文科省のお役人が華々しくぶち上げる教育指導要領はいつも能書きとは逆の結果を生み出して来たように思うけど、「ゆとり教育」が生み出したのは想像力も工夫力も足りない(言い方は悪いかもしらないけど)「マニュアル依存型おバカ世代」じゃないかと思う。この「工夫」という日本語、ぴったりした英語がないんだけど、それは「工夫すること」こそが日本人の想像力の結晶だからだとワタシは思う。手元にあるものの用途や利便性を想像を働かせて多角化させるのが工夫することで、創造力とは違う。ワタシが子供だった頃は何かにつけて「工夫しなさい」と言われたし、モノのない時代だったせいもあって、持っているおもちゃをいろいろな遊びに使ったり、廃物で遊び道具を作ったりした。

ゆとり教育については、ワタシも教材の翻訳で小学校の理科の教科書を見る機会があって(ついでに教育指導要領も読んでみたけど)、教科書の手順通りに実験して、既定の結果を確認するだけの「マニュアル教育」という印象を持った。自由研究でさえ、予め結果を想定した計画を立てさせていて、しかも計画とレポートのサンプル付き。なるほど、こうやって受験勉強に最適の思考パターンを育てるのか、これじゃあ創造力も知的な好奇心も何もあったもんじゃないと呆れたものだった。実験や観察が想定外の結果になった子はどうなったんだろう。「なぜ」を考えることもなく、「失敗」というレッテルを貼られて取り残されたのではないのかな。「なぜ」を考えさせたら、本来想像力に溢れる子供たちの個性が百花繚乱になって、手に負えなくなりそうだもんね。

今は「脱ゆとり」だそうで、つまりはゆとり教育の失敗を認めたということだろうけど、「ゆとり世代」はすでに社会に出て来て、これからの日本を背負って、働いて、家庭を築いて、次の世代を生み育てて行かなければならないのに、生まれ合わせが悪かったでは済まないよね。文科省の壮大な実験がなぜ挫折したのか。記事の筆者は「日本人の同質性への固執と個性に対する不快感」とこれとは対極にあるように見える「受験の壁」を挙げていたけど、まさにその通りだとワタシは思う。「個性に対する不快感」は「同質性への固執」、つまり日本的な「平等(みんな同じ)意識」から来るものだと思うけど、「受験」は競争制度以外の何ものでもない。「偏差値」というものさしがひとり歩きして、人と同じ(点数)では競争に勝てないと、子供は「ゆとり」の時間を塾で受験知識を詰め込んで過ごす・・・。

小町の学歴関連トピックでは大学に進学しなかったのは「親が教育熱心でなかったから」、「学習意欲がなかったから」、「努力する気持がなかったから」(つまり、落ちこぼれ)と批判する人が多いけど、もしかしたら「みんな同じ」のゆとり教育と「偏差値偏向」の受験競争の矛盾がある意味でトラウマになっているんじゃないかと思うことがある。受験競争に勝って大学を出たのに人生が「計画通り」に進んでいない人ほど、受験とは無縁でいられた人が羨ましくて、逆に偏差値や学歴、教養に拘ることで自分を慰めているのかもしれないな。その例が「優しくて、まじめでユーモアのある」専門学校卒の年下の彼氏の「学力」の低さが気になって結婚をためらっている大学卒のアラフォ女性。「偏差値」で人を判断するのはイヤだけど、だけど、だけど・・・。

この偏差値、日本では教育上の重要な「ものさし」らしいけど、いったい何を測るものなのか。高校からすぐ社会に出たせいでもないだろうけど、偏差値なんて言葉は聞いたこともなかったな。でも、50年以上も前だけど、1学年だけ通知表にわら半紙に「SSカーブ」とかいう釣鐘型の曲線をガリ版刷りした紙片が付いて来たことがあった。曲線の上に×印が付いていたけど、子供は元より親も成績と関係があると言う以外は何なのかよくわからなかった。一応はクラスの「できる子」だったワタシは釣鐘の頂点に×印がなくてショックだった。ワタシの×印があったのは→[イメージ]

いかにも崖の上から転げ落ちてしまったような図で、悔しいやら、悲しいやら。でも、親もよくわからないから、納得できる説明ができるわけもなく、長い間もやもやしていたけど、あれが偏差値だったのかな。何であれ、ワタシは「外れ値」だったわけか。いつも何となく「はみ出しっぺ」だと感じてはいたけど、あの×印はワタシの「個性」だったということかな。まあ、偏差値なんてのは知能指数と同じで、今さら知っても意味がなさそうだけど、中学か高校のときに知っていたらワタシの人生は大きく違ったのかな?いや、やっぱり今ここにいる「ワタシ」になっていたと思うよ。ワタシの個性、ちっとも変わってないもの。


やったね、婚外子の相続差別違憲判決

2013年09月04日 | 日々の風の吹くまま
日本の最高裁判所がやっとのことで「婚外子差別」を憲法違反と判断したね。前々世
紀の明治時代から頑なに守り通して来た「法による差別」を、やっと、それも全員一致
の判断で、「法の下では何人も平等」という憲法の大原則に反するものと認めたわけで、
えらい!やっとこれで不条理な差別がひとつ無くなるね。

ずっと前に違憲訴訟が起きたとき、ワタシは当時衛星版を購読していた読売新聞に「子
供は親を選んで生まれることができない。子供が選ぶことのできない事由に基づいて
法が差別するのは憲法どころか、人道に反することだ」と書いて送った。(読者投稿欄
に掲載された。)「子供」を「人間」に置き換えてみるといい。誰も特定の人種に生まれる
ことを選べないし、特定の人種に生まれついたことを変更することもできない。でも、人
間は差別する動物なので差別意識は消せなくても、法治国家では差別意識の存在を
認識して、「法の下での平等」に反する差別を法律が禁じるようになった。

逆に、日本は憲法で「平等」を保障する一方で、民法が法律婚を採用しているから婚外
子の差別は不合理ではないと、法律の差別規定が国家の基本たる憲法を超越し得る
と言って来たわけ。要は、だらしない男が自分の行動の責任を婚外子(それでも我が子
じゃないの?)に転嫁し、その男の法律上の妻もその子も、家族を裏切った夫・父への
恨みを、本人に向けずにその(婚外)子を法による差別で罰することで晴らして来たっ
てことでしょ?まあ、日本人の伝統的家族観を守るとか言って婚外子差別を擁護して
来た政治家、いや社会人のどれだけが(一夫一妻の)「法律婚」を尊重して品行方正に
生きているかなんて、聞くだけやぼってもんだろうけど。

人を「平等に扱う」ということは、出自には関係なく人はみんな人間として同じ「価値」を
持っていることを認識して、それぞれを「個人」として、また、違いがあってもそれを「個
性」として尊重することだと、ワタシは解釈するけど、「平等=金太郎飴」で、金太郎と桃
太郎と与太郎では人としての価値が違うという解釈も存在するってことか。まあ、相続
に関しては、努力して財産を築いた人が遺言状によってその処分を指定できるように
すればいいと思うんだけど、それじゃ不平等を生むからダメと言われそう。 お金の話は
まったく別の次元の問題だしね・・・。

常識は大学で学んで来るもの?

2013年09月04日 | 日々の風の吹くまま
きのうは旧ブログの方で「ゆとり教育」と「偏差値」の話を蒸し返して、いつもの饒舌な極
楽とんぼに戻ってああだこうだと考察。小町横丁では、諸般の事情があって大学に進
学しなかった(できなかった)人たちを、大学卒住人が「教育に関心のない親に育てら
れたんだろう」、「勉学意欲がなかったんだろう」、「努力しない人なんだろう」と、否定的
に評価することが多い。なんか傲慢だなあと思っていたけど、きのう、ふと思った。

この人たちは「教育熱心な」親に有名大学に入るための受験勉強を強いられ、テストの
成績が思わしくないと「やる気が足りない」、「努力が足りない」と責められて育ったこと
がトラウマになっているんじゃないか、と。心の奥にあるわだかまりを受験勉強を「免れ
た」人に向けることで今の不満や不安を打ち消そうとしているのではないか、と。「その
偏差値じゃ○○大学には入れない」、「○○高校は偏差値が低いから○○大学は無理」
と言われ続けて、個人の価値も「偏差値」でしか測れなくなって、それで偏差値が合わ
ない人(自分が「常識」として知っていることを知らない人、あるいは自分が知らないこと
を知っている人)にどう接したらいいのかわからないんじゃないか、と。

常識で思い出したのが、ハーバード大学のツアーで私達のガイドだった1年生の青年
がある図書館の前で言ったこと。図書館の名前の主は、イギリスで書籍を買い集めて、
タイタニック号で帰る途中に遭難した人で、いったん救命ボートに乗りながら、「本を忘
れた!」と、制止を振り切って下りて、船と共に沈んでしまった。「つまり、ハーバードは
(学問をするところで)common senseは教えないんですよ」と。「コモンセンス」は日本
語では「常識」と訳されていて、社会通念やマナーとして誰でも知っているべき「知識」
のことを言うけど、英語的には「知識」よりも蓄積した経験や知識に基づく「判断力」や
「分別」のこと。はて、日本の大学ではどっちのコモンセンスを教えるのかな。

ちなみに、ときたましか更新しなくなった旧ブログへのアクセスが今でもかなりあるから
不思議。なんちゃらかんちゃらと長々と論評するもので、ボットが引っかかるキーワード
が多いのかもしれないけど、どうなんだろうな。