リタイア暮らしは風の吹くまま

古希を迎えて働く奥さんからリタイア。人生の新ステージで
目指すは悠々自適で遊びたくさんの極楽とんぼ的シニア暮らし

☆二十一世紀は復讐の世紀になるのか

2013年09月14日 | 日々の風の吹くまま
10月13日。バンクーバーではどこへ行ってもヒジャブやターバン、サリー姿の人たちに普通に出会う。多民族多重文化国家を標榜する国だから、街を歩く人間は色も形もサイズも思想も宗教も、実に多種多様。ワタシはカナダのそういうところが好きだし、生理的に居心地がいいと感じる。バンクーバーではいわゆる「visible minority」が人口の半分を占める勢いで、次回の国勢調査ではほぼ確実に「visible majority」だろうな。このVisible minorityというのはカナダでの造語で、「(見ただけで)白人でも先住民でもない(と識別できる)人」のこと。市民も永住者も世代も関係なく、アジア系もアフリカ系もインド系もアラブ系もみんなこの範疇に入る。

でも、minorityが文字通り「少数」でいるうちはいいけど、人口に占める割合が高くなると、社会の水面下で様々な反感や差別感情が交錯するようになるだろうし、自らの意思でカナダに移住して来たのに、その社会との融和を拒む特異な集団に対する猜疑心や不信感がもやもやして来るだろうな。まあ、地球上の人間の流動性が高まった現代では、世界のどこでも多かれ少なかれそういう風潮はあると思うけど、それが政治的思惑、社会的思惑、あるいは少数集団自体の言動、集団同士の対立や確執、あるいはメディアの影響といった「空気」に曝されているうちに「ヘイト」と呼ばれる感情として固まると、よくもそれほどまで憎悪を燃やせるもんだと思うくらいに燃え盛るから怖い。

ワタシにも「嫌いな言動」はあるけど、能天気すぎるのか「嫌いな人」にはまだ遭遇したことがない。何となくしっくりしない感情を持つことはあっても、顔を見るのも声を聞くのもその人の名前を聞くのも、とになく何もかもがイヤというような強い嫌悪感を持ったことはないと、天地に誓って言える。それでも、「嫌い」という感情はわかるし、自分を不安、不快にさせる人を排除したいという気持も一種の「防衛本能」として理解できるけど、自分とは直接関わりのない人に向けられる激しい憎悪の感情は想像することすらできない。もっとも、人間のは、自分の心の中に閉塞感や不安、嫉妬といった重たい感情が堆積して来て、意識していなくてもその重みに耐えられなくなると、自分の外に「嫌いなもの」を必要とするものらしい。

だって、ネガティブな感情を抱え込んでいる自分を嫌いだと思うのは、フーテンの寅さんじゃないけど「それを言っちゃあおしまいよ」。だけど、ネガティブな感情はどろどろとわだかまって、重い。自己嫌悪はそれに輪をかけて重い。たとえ他人を蔑視することで気持がすっきりすることがあっても、それは一瞬のことで、ポジティブな感情が与えてくれるような高揚感はないだろうな。そこで、重くなる「心のお荷物」を自分の外へ放り出して、気持を軽くする必要が出て来るんだろうと思う。(この「荷下ろし」は、いわゆるモラハラの加害者によく見られる心理パターンだと言われている。)

さて、お荷物を他人に転嫁するとなれば、感情的に反撃して来そうな人は避けた方が無難。自分の感情をうまく処理できないでいるんだから、相手の感情まで背負わされたら自分が潰れるかもしれない。だから、自分とは精神的な関わりのない人や自分が属していない集団、殊に自分とはかけ離れた特徴を持つ人や集団に向けるのが安全。他の人たちも嫌っている(らしい)特定の人や集団があれば、みんなの嫌悪感を結集してその特定の人や集団に向けられて、自分はいっそう安全。「だって、みんなそう思ってるんだから」と、自分の負の感情を正当化して、自分は普通なんだ(よかった)と肯定できる。ワタシには安心感を求めているように見えるんだけど、そうだとしたら、みんなさびしいんだな、きっと・・・。

日本では今「倍返し」と「土下座」が流行しているらしい。テレビの人気ドラマから広まったと言う話で、そのドラマというのはどうやら「復讐もの」らしい。銀行が舞台の権力争いがテーマらしいということしか知らないけど、驚異的な視聴率だったとか。小町横丁で「倍返し」という言葉がやたらと目に付くようになったのも、このドラマの影響と言うことか。「やられたらやり返せ」は幼稚なけんかだと思うし、テロに対しては「さらなるテロを助長するからやめろ」の大合唱になるけど、倍にしてやり返すとなると「片目には両目を」ということなのかな。それだけでもぞくっとするけど、さらに「土下座して謝罪」を強要するとなると背筋が凍る感じがする。恨みのある相手に屈辱感を味わわせることで快感を得る。これが悪意の意趣返しでないというなら、何なの?

でもまあ、そういう意趣返しの手段としての土下座の要求は今さら人気ドラマから生まれたものではないけどね。小町横丁ではだいぶ前から「夫婦の問題解決(復讐)手段」としてよく登場する。つまり、不倫夫を懲らしめるために、土下座させて、謝罪させて、始末書を書かせて、それを公正証書にするというもので、それで妻の気持が晴れればめっけものだけど、実際に元の鞘に「丸く」収まった夫婦がどれだけいるのかは疑問だな。復讐と許しは別物で、復讐心から許す気持は生まれて来ないから、妻は恨みや疑念を引きずりそうだし、夫は「倍返し」で土下座させられた屈辱を晴らそうと企みそうだし、どっちもそれまで以上に重い「心の荷物」を抱えて、結局は破綻するしかないんじゃないかと思うけど。

自分の心の荷物(問題)は、それが「殺せ」という憎悪の形であれ、「やられたらやり返せ」とう復讐の形であれ、他人に転嫁したところで何の解決にもならないのにね。だけど、その荷物を自分で解くのは文字通り荷が勝ちすぎて、自己肯定と言う「安心感」を外に求めるしかない人たちにとっては、他人に投げつけるのが一番楽な手段なんだろうな。もしかして、これからは遺恨は倍かそれ以上にして返し、土下座して「謝罪」させることで溜飲を下ろすという世の中になるのかな。それでは、いじめも、テロも戦争も何もなくならないよね。アメリカでのテロの後、ビンラーデンは犠牲者を悼んでいるアメリカがイスラムに改宗すれば「許してやる」と言ったけど、あれも土下座を強要するのとさして変わらない。

まあ、人間は何千年、何万年と「やられたらやり返せ」を繰り返して来たわけで、精神的に「もうダメ~」という状態になったときにはそこへ回帰するしかないのかもしれない。どうして「live and let live」(自分も生き、人も生かせ)じゃダメなのかなあ・・・。


簡単に国際化というけれど

2013年09月14日 | 日々の風の吹くまま
きのう、おとといの夏の陽気は終わったらしい。ポーチの温度計は午後2時で15度で、
まあ平年並み。この週末もまた「置きみやげ仕事」。でも、日本は「敬老の日」の三連休
なんでしょ?だったら、ワタシも敬われてしかるべきシニアなんだけどなあ。なのに、や
たらと小難しい仕事の置きみやげって、全然敬われてない感じなんだけど。まあ、1年
のうち1日だけ(年老いた織姫みたいに)敬ってもらうより、お金になる仕事をもらった方
がお得ではあるけど。

納期まで正味3日あるもので、徐々に「遊び」モードから切り替え。ジャパンタイムスに、
日本人にとって「国際化」とは何なのかという趣旨のおもしろい寄稿記事があった。国
際化がテーマのあるシンポジウムで、主催者が世界から集まった若者に「日本企業の
すごいところは何か」と質問したとか、テレビの旅行番組も、世界の国々やそこに住む
人たちの歴史や文化などへの関心よりも、「外国に住む日本人」が中心のものが多い
とか・・・(国際化したからじゃない?)。

その例が『世界なぜそこに日本人』と『こんなところに日本人』という番組。ワタシは日本
のテレビ番組は見ていないのでわからないけど、リポーターやタレントが外国の大都会
から遠く離れたところに住む日本人を探して会いに行く形式になっているらしい。筆者
によると、こうした新手の旅行番組でも、登場する日本人個人のことよりも日本で見て
いる視聴者の「期待感」に応えるような内容になっていて、これではただの人気取り番
組だ、と。(旅行番組と行っても、要するに、「タレントの旅行」を見せるもので、国際化と
は関係ないような・・・。)

ビジネス関連の翻訳原稿にしょっちゅう出て来る、この「国際化」。しっくりしないと感じ
つつ、あっさりと「internationalization」と直訳してしまう。でも、日本語原稿で日常的に
使われる「国際化」と、日常的には使われない「internationalization」とでは意味合い
が違うような感じがしていた。でも、この記事を読んで、字面からは同等の単語に見え
ても、やっぱり2つの言葉は「概念」そのものがまったく違うのだと、納得。と言っても、
ワタシが解釈した日本語の「イメージ」にぴったりする英語を思いつけないから「苦手感」
は消えそうにないけど、目の前の仕事は無味乾燥な契約書で、「国際化」モンスターは
出て来ないだろうから、安心して取りかかるか。