遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



 

 

 

 紀の国は 木の国   明治22年  急速な富国政策による  乱伐がたたり 8月 十津川結界。中洲にあった 壮麗な熊野大社は流され  残ったお社は現在の地に移されました。元の熊野大社は今の大斎原にあります。なんとも言えない 氣  ……    微細な振動 地下を伏流水が龍のごとく 走っているのです。川のあるところ  その地下には伏流水がある。大斎原より規模はちいさいですが  同じような 気 を感じるところが二箇所  これは わたしの知るかぎりですが…

そのひとつが瀧尾神社です。海外の方のご参拝が多いですね。

日本は龍の国 水とプラズマ   熊野の隠れたご祭神は瀬織津姫 

昨夕 偶然  2012年の 紀伊半島 の旅をブログで辿っていました。

どうも テーマは 水  のようです。いのちをつかさどる水。

東日本大震災のあと   次々と 瀬織津姫神のお祭りされている神社が水害に会いました。江ノ島  那智   厳島 ……   そのとき わたしは当ブログで 日本の水が危ないと書きましたが  いよいよ 事態は切迫しています。水源は他国に買い占められ  水道も民営化 外資の参入。祈り続けてきましたが   祈るだけではダメなんですね。行動に移さなくては……    実は 我が家もミニ氾濫   水害が起きています。幾度  お示しいただいても気づけないからかな  情けない限りです。

この度の熊野川の氾濫はなにを示しているのでしょう。

 

さて ミソギ   水でケガレを流すというのは  仏教が入ってからの概念であり そもそもは 水の霊威を身につけるという意味であったらしいのです。洗礼はどうなんでしょう。

もともとはおなじような意味なのでは……

ケガレというものは 無かった。氣枯れ  元の氣に戻すことを元気 といいます。

日本が 氣  を取りもどすように   あなたもわたしも。

 

 

http://www.hongu.jp/kumanokodo/hongu-taisya/ooyunohara/



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夢見せてもらった。

農民一揆も思わず頷いてしまうのですが 縄文と大和の対比としても見えてしまう。

秋田には 縄文遺跡が多い そしてパワースポットも。

なかでも 唐松神社

日本のもっとも古い出雲王朝の初代国王 天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊が祀られている。

ニギハヤヒ オオドシ他 多くのご神名を持つ。

歴史(記紀)に残すと都合の悪い人物に多くの名前を与え、正体を抹殺するというのが日本書紀の常套手段であるという。

「秋田県仙北郡協和町の唐松神社(天日宮)に古代史に関する文献があるという噂はすでに戦前からあり、同社に伝わる神代文字の祝詞が公表されたこともあった(小保内樺之介『天津祝詞の太祝詞の解説』)。しかし、その歴史関係の文書はなかなか公開されることがなく、ついに一九八四年、物部長照名誉宮司の英断で、その内容の一部が示されることになったのである(新藤孝一『秋田「物部文書」伝承』)。
 それによると、ニギハヤヒは豊葦原中ツ国、千樹五百樹が生い茂る実り豊かな美しき国を目指して鳥見山の山上、潮の処に降臨したという。この鳥見山とは出羽国の鳥海山であった。ニギハヤヒはその国を巡ると、逆合川の日殿山に「日の宮」を造営した。これが唐松神社のそもそもの由来である。ニギハヤヒは御倉棚の地に十種の神宝を奉じ、一時、居住したが、その跡は現在の協和町船岡字合貝の三倉神社として残されている。

そして東北VS大阪

明治以降も長州の支配はつづいた。長州出身の政治家は最多で8人 → こちら  安倍さんもね 尊敬するひとは吉田松陰

 東北は非常に少ない 政治の上では 西高東低そのわけは....

 会津と奥羽越列藩同盟 wikiから

 会津藩は京都守護職 庄内藩は江戸市中取締を命ぜられ旧幕府の要職にあり、薩長と対立したために「朝敵」として新政府からの攻撃対象とされ、特に会津藩は幕府派の首魁と目されていた。会津藩内では武装恭順派と抗戦派が対立したが、藩主松平容保は家督を養子の喜徳へ譲り謹慎を行い恭順の意志を示した。奥羽14藩は仙台藩領の白石城において列藩会議を開き、会津藩・庄内藩赦免の嘆願書「会津藩寛典処分嘆願書」などを奥羽鎮撫総督に提出した。会津赦免の嘆願の拒絶によって、奥羽諸藩は朝廷へ直接建白を行う方針に変更することとなった。31藩による奥羽越列藩同盟が成立した。

上野戦争から逃れ、6月6日に会津に入っていた輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)を同盟の盟主に戴こうとする構想が浮上した。当初は軍事的要素も含む同盟の総裁への就任を要請されたが、結局6月16日に盟主のみの就任に決着、7月12日には白石城に入り列藩会議に出席した。

また、輪王寺宮の「東武皇帝」への推戴も構想にあったとされるが、よくわかっていない。確かなのは輪王寺宮が会津入りする以前の4月の段階で用語などが天皇扱いされていたことと、「東武皇帝の閣僚名簿」としていくつかの文書が知られているだけである。当時の日本をアメリカ公使は本国に対して、「今、日本には二人の帝(ミカド)がいる。現在、北方政権のほうが優勢である。」と伝えており、新聞にも同様の記事が掲載されている。

なお、輪王寺宮は列藩会議への出席に先立ち、7月10日に全国の10万石以上の大名に対して、「動座布告文」と「輪王寺宮令旨」を発令している。この中で輪王寺宮は諸大名に対して、『幼君(明治天皇)を操る君側の奸、薩摩・長州を取り除く』ことを強く主張している。政府軍は圧勝し 会津は死者を弔うことも許されず 屍は放置されました。長州の会津への恨みは深かったのです。

薩長の流れを汲む政府の東北軽視は戦後もつづき  そのうえ東北は3.11でヤラレタ。意図的に!?

104年 高校野球でも 東北は優勝かなわなかった。

今年の金足農業への 一般のファンの肩入れ は エリートに立ち向かう雑草軍団 判官びいき と言う図式だけでなく 縄文のDNAや 東北のDNAのサガでもあるのではないだろうか。

歴史は勝った側のものだが 負ける一方の側の復権もこれからはされていくのではないだろうか。

結局 金足農業は負けたけれど その負けっぷりもあざやか...

今日のスポーツ紙の一面は 2連覇の偉業を成し遂げた某校ではなく 金足農業の吉田投手であった。

 

いじめられる オキナワと東北は独立国を樹立...もいいなぁ。

 



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