遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



 

今年の夏のコミケは通算100回目なのだそうだ。それにしても なぜ コミケはお盆のさなかにやるのだろう?まるで 逝った人たちを偲ぶように 召喚するかのように.....今 思えば コミケは遅ればせにきた わたしの青春だった。

ことの起こりは浦和駅の今はない線路下の喫茶店だった。そこで会ったのがコミケの初代代表を務めた原田央男さん、原田さんはモトのトモという萩尾さんのファンクラブを主宰していて わたしは大島弓子さんのファンクラブを……そんなことから 岩崎一樹さんや コミケ二代目代表米澤嘉博さんや アニメバルディオスやヒカリアンの監督になった廣川和之さんや いろいろな人と交流することになる。

わたしがはじめて行ったのは太田産業会館だと思っていたけれど、どうやらコミケの前身?の日本漫画大会だったらしい。 参加したのは 1973年8月4日(土)~5(日) に開かれた第二回 場所は新宿・四谷公会堂。だれかが大島弓子さんのジョカへ第二回 二色ゲラ刷りを出版社からもらってきて歓声が上がった。宿泊は駿河台ホテルで 真夜中の道 ホテルまで肩を組んでアニソンをたからかに歌って帰った高揚感がよみがえる....

翌日もそのままの勢いで 水野英子さんのファンの部屋に泊まった。水野さんのアシスタントをしている長身の看護師さんもいっしょだった。そこで紹介された岩崎一樹さんは同人誌の花形だった。.....やおい 美青年美少年の恋愛感情+○○みたいな作品を同人誌に画いていた....やおいは1975年沢田研二主演のドラマ 悪魔のようなあいつ から始まったと言われているが とんでもない この頃の同人誌は ボーイズラブで溢れていた。

個人的には風と木の詩はちょっと違うと思うが 商業誌においても 山岸涼子の白い部屋のふたりは少女同志の愛の物語だし もりたじゅんのうみどりは 兄妹の愛の物語 日出ずる処の天子の歴史上の人物 厩戸とエミシ……LGBTどころじゃない50年前の少女漫画は垣根なし タブーなし百花繚乱の愛の世界だったのである。気恥ずかしいが言わせてもらうと そのひとなくては生きることの闇を越えられない魂の片割れを求めるものがたり それぞれ孤独な偏波な人間が真っ当に生きるためのよすがを求めるものがたり 男女のみならず恋愛のシバリ 障碍を越えることで 撰ばれ 至上のモノとなった愛のものがたりだった これが私感である。

 

 11月のギムナジウムの声優のオーデションも四谷公会堂で開かれた。オスカー役の女子大生が実によかった。それから繰り出したのは新宿の雑踏....70年代の新宿は猥雑なエネルギーに満ち満ちていた。マンモス地下喫茶カトレアは小学校の校庭くらいの広さがあって、みなから離れてそのすみでわたしたちは越し方 ゆくすえを語り合った。深い井戸の底には 天上につながる道があった。(あのとき 11月のギムナジウムに参加しなかったとしたら わたしは 生涯のツトメと定めた"語り"に25年後 足を踏み出しただろうか。)

その翌年1975年 コミケの第一回が開かれ 750名が集まり ダイナビジョン 11月のギムナジウムが 上映された。しかし 参加者の多く少女たちが群がったのは同人誌 ファンジンだったのではないか。

 

コミケの二回目も行ったような気がするが印象は定かではない。一樹さんに誘われ晴海にも行ったような気がするが コミケは熱狂的な二次制作者の場になっていった。それはそれで意味があったとおもう。二次制作者の中からスターも生まれ デビューを果たす人たちも現れた。だが 正直 わたしは"パロディ"、"二次制作"も"やおい"も好きではなかった。求めていたのは 新しい地平。花の24年組 大島弓子 萩尾望都 山岸涼子 が文学をも軽く乗り越えた芳醇で精緻な世界のその先。

 

コミケのあの熱狂を支えた コミケを立ち上げた人たちの想いはどこから生まれたのか?

1971年暮れ COMが潰れた。COMは手塚治虫が発刊したマンガ専門誌でCOMのグラコンは新人の登竜門だった。喪われたその場を取り戻そうとする エネルギーが 漫画大会を産み コミケに繋がったのではないか。そして 底流には 70年安保の敗退 が ありはしないか 1972年2月の浅間山荘事件が ありはしないか。それは 絶望という二文字では 言い表せない なんとも形容し難い恥辱 汚辱だった。

それは連合赤軍だけの問題ではなかった。学生たちの安保反対のカタチはさまざまであったけれど 運動そのものの中に矛盾があること 権力の濫用 弱者と強者の関係 そういった汚濁 軽侮すべきものが身のうちにあることを突きつけられざるを得ず、それは二重の敗北だった。最大の悲劇は日本の健やかな右翼 健やかな左翼が死んだことにあると思う。。一部の運動家は権力の側へ走ったりした。一言でいうと人間がぶっこわれた。そんな人間を複数知っている。

より誠実なひとたちにとって 埋め合わせになる何か 手立てが必要だった。それが コミケだったりオタクだったりではなかったかと 50年を経て思うのである。

 

安倍元首相の岳父 岸信介首相は 60年安保反対 反政府 反米 デモを抑えるために児玉誉士男にヤクザを集めさせ 住吉連合も参じた。安保は自然成立となったが岸は退陣せざるを得なかった。70年安保 岸の弟である佐藤政権は機動隊を強化 学生たちは機動隊との戦いと内ゲバに疲れ果てて行った。その後安保は自動延長になる。だから80年安保は存在しないのだが 橋本治等は 80年代のサブカルチャーを称して 80年安保 と言った。 劇団スバルの座長は10年前 オレたちは 文化で闘う と 言った。

だが どうだ? コミケに集まる二十万は 文化で闘っているの? 遺伝子改変注射は何回打ったんだろう。国から殺されそうだ と知っているのだろうか…… コミケ1回目と同じ 100回目の節目も "この国の曲がり角"だ。"運命の分かれ道" だ。

 

米澤嘉博さんも 亜庭さんも 廣川さんも 一樹さんも すでに旅立った。

原田さんも含めて みんな貧乏だったけど熱くておもしろかった。漫画に アニメに 場をつくることに 命懸けだった。 知る限りで 二人は客観的に視て無慚な死だった。それとも納得し満足して死んで行ったのだろうか? 悔いはなかっただろうか? ひとはなにかになにものかに自分の存在を懸けて生きる それだけでいいのだろうか?

 

国会を埋め尽くす デモ 60年前 国民はこのように闘って 首魁岸首相を引き摺り落とした。

50年前 若者は 権力に 自らの弱さに 首うなだれ サブカルチャーを生み出した。

あぁ わたしは 彼処 あの時代 あの場所にいられて よかった。

そして思う。全共闘世代の橋本治 が いみじくも語ったように 2022の夏 わたしたちは別の安保を戦っているのかもしれない。ネットで畑で仕事場でサブカルチャーで闘っているのかも知れない。あの時の落とし前をつけるために。自分のいのち つづく命を守るために。投石でメガネを割られスゴスゴ帰ったあの日のリベンジだ。今度はまけない。

 

wiki

おたくとは、愛好者を指す呼称で、1980年代日本サブカルチャーから広まった言葉である。元来の「お宅」は相手の家や家庭を指す敬称の二人称代名詞であるが、ある特定のサブカルチャーの愛好者を指し示す、現在使われている言葉としての「おたく」の起源は、1983年コラムニスト中森明夫コミックマーケットに集うSF漫画アニメなどの若いファン達がお互いを「おたく」と呼び合っていた現象を揶揄して、彼らを「おたく」として分類したことにある。

 



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