徹夜明けでまだ朦朧としています。仕事が終り明日から正月やすみです。ばんざい!
ヨーロッパ/魔法昔話の獲得型にたいして日本の伝説・昔話は喪失のかたちをとることが多いと前回申しました。もうひとつ日本の物語には特徴があります。それは物語の長さが短いことです。出会いから別れまでのある一定の期間に限られた物語であることから、ヨーロッパのように主人公が生まれ、成長し 幾多の困難にあい、課題を乗り越えて、宝を獲得し、素晴らしい相手と結婚するという大河ドラマに比べて短編小説の趣きがあります。
もちろんこれこそが運命なのですが 主人公(男)は偶然相手とめぐり合います。このとき主人公は不足もないが格別幸運な星のもとにいるわけでもありません。ふたりは恋に落ち、男は禁断を破ったためにまたもとの境遇に戻ります。雪女、朱雀門、見るなの座敷 みなこのパターンです。
しかし男はまったく変わらない境遇に戻ったのではありません。彼は知ってしまったのです、この世ならぬ美、この世ならぬ幸せを。知ってしまった男の心はもうもとの不足もないが不満でもない状態には決して戻れません。男は悲哀とともに欠落とともになにかを獲得しました。遥かなもの、返らぬもの、異界への永久(とわ)の憧れを。喪ったために人間として成熟したと見るのはうがち過ぎでしょうか?
一歩踏み込んで、雪女のお雪は冬の精霊、死そのものと考えることもできましょうし、朱雀門の美女は鬼によって数多の死人のなかからつくられたまさに死、男たちはまばゆいばかりに美しい死と交合し再生したと捉えることもできましょう。
関敬吾は「日本昔話の社会性に関する研究」をもって昔話は「人間の死と再生」をテーマとし、その通過儀礼はそのまま民俗社会の通過儀礼と重なると述べています。 通過儀礼というのは人類学者のファン・ゲネップが提唱した概念で、人生の節目に訪れる危機を安全に通過するための儀式(あるグループから他のグループへ移る社会における特定の儀礼・七五三の帯解きや着袴、現代における入学式や成人式)のことを言います。
さて、それではヨーロッパの昔話ではどうでしょう。31の機能の最後 物語はたいてい幸せな結婚で幕を閉じます。なぜ、物語がひとつの類型に収斂されるか、プロップは「魔法昔話の起源」せりか書房で、昔話はかつての儀礼の構造が繰り返されているのだ、として通過儀礼と死に関する一連の観念を起源として上げています。プロップは主人公の身に起こることすべてを順を追って物語るなら、魔法昔話の成り立っている構成が得られ、また死者の身に起こると考えられていたことを、すべて順を追って物語るなら、そこには前述の儀礼の系列に不足している要素が付加されると述べています。少年は儀礼の時に死に、その後、新しい人間として復活すると考えられていました。
魔法昔話で主人公は孤立しており、竜などの怪物と戦いますが、このとき通過儀礼としての死を迎えているわけです。端的に 地下の世界(冥界)に行く場合や、父親(竜)と戦う場合、また親に食べられる場合もあります。こうして一度死んでおとなとしての仲間入りをして宝を獲得し結婚によって終わります。
まったくの独断と偏見によれば、日本の伝説や昔話=喪失(成熟の獲得)の物語は、通過儀礼としての死は美女と結ばれることにあって 別れで終わます。そしてヨーロッパの魔法昔話=獲得(少年性の喪失)の物語は障害を乗り越える時に通過儀礼としての死があり、美女との婚礼で終わります。しかしながら、仮にも結婚したことがあるのなら、結婚は決して結末ではなく、新たな苦痛と喜びの始まりに過ぎない、そこから成熟への闘いが始まるのだとお気付きでしょう。わたしは個人的には日本の喪失の物語のほうが奥は深いように思います。
もっと踏み込んでみると雪女での禁忌は「しゃべってはならぬ」見るなの座敷では「開けてはならぬ」朱雀門では「その女に触れてはならぬ」でした。異類婚の鶴女房、古事記のトヨタマヒメでは「見てはならぬ」そしてシチュエーションは変わりますがイザナギ、ユーディリケ、そしてプシュケも「見てはならぬ」禁忌でした。
異類婚の原型は神が鳥や動物の姿を借りて降りてきたもの、祝福であったと言われています。時代が移り農耕文明が盛んになるにつれ、しだいに神は貶められていったのです。さて、これらの禁忌はなにを意味するのでしょう、人間が覗き見てはならぬ(イザナギは神ですが)タブーとはなにを象徴しているのでしょう。
さて一方でわたしはヨーロッパの昔話において、男たちが試練を乗り越え通過儀礼をくぐりぬけ一人前の男として結婚するのに、日本の喪失型の昔話では結婚することによって成熟する....ということに興味を惹かれました。それはほんとうに日本の現実に投影されているように感じたからです。クレームがくるかも知れませんが日本の男性は親離れが遅いように思います。そして生命を産みだすための性が刹那の死でもあることから、生と死(エロスとタナトス)の相克を思ったりもして、さながら万華鏡を見ているような眩暈も感じます。昔話・昔話の世界は深いですね。
| Trackback ( 0 )
|