....HIKOさんのコメントでたいせつなことを思い出しました。今年の1月、たぶんずっとそれ以前から魂では気づいていたのでした。
”わたしたちは身体についてあまり知らない”ブログの記事です。コメントにも書きましたが、西洋のメソッドでは対象がどうしても観衆、聴き手になってしまう。対人間のコミュニケーションに語りも朗読も芝居もなってしまう。
ちょっと待って...たしかにコミュニケーションにいきつくのですが、経路がちがうのです。天地とつながってはじめて聴き手とつながる.....たいせつなところを忘れてはならないのでした。意識をそこに持ってゆけるかどうかでまったく異なる世界になります。
演劇的なるものは磨くための手段であってそこに捉われると、求めつづけてきたたいせつなものを見失ってしまいます。....しかしCAVは不思議です。聴覚はトランス状態に行くための入り口にもなる....背骨は振動体であり遙か遠い過去の記憶庫でもあります。.....背骨を振動させること、CAVの発声で響のある声になるのは行きがけの駄賃のようなもの...声のまえになにかがかわるのだろうと思います。
イランさんもトマティス博士も日本は宝庫である...といいました。日本ではすべてが道であり行であります。すなわち芸を磨くことは己の人格を磨く....、不要のものを捨ててゆくための道なのです。エンターティンメントとか芸術は派生物のようにものなのかもしれません。
これからまずプログラムをたてましょう。実践しながらつぎのステップに進みます。日本を知る旅のはじまりです。
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