きのう 小学校のおはなし会を 終えたあと 母と川崎に向かいました。叔父さんが亡くなったという知らせがあったのです。選挙の勝利が決まった21日の真夜中のことでした。
南武線の矢向という駅から タクシーでさがしましたが 家はみつかりません。ぐるぐるまわってようやくたどりついた灰色の トタンの壁の二階家....汚れたガラス窓から雑然とした部屋のたたずまいが見て取れます その隣にはレンガつくりのお城のような家があってその庭から叔父の家の庭まで 春の花でまさに埋め尽くされているのです。庭中咲き乱れる色彩と春に置き去りにされたようなその家のコントラストにわたしは軽いめまいを感じました。家にはだれもいませんでした。電話であちこちたずね 叔父がすでに葬儀施設に運び込まれていること 死因が心筋梗塞であったことを知りました。87歳の母と幾人もの親切な方に訊ねながらたどりつくと すでに叔父叔母が4名 所在なさそうにロビーにすわっていました。そして 秀雄叔父さんの義姉にあたるひととその娘さん ゆるやかにウェーブのかかった栗色の髪のうつくしいひともいました。あのうつくしい庭の花々はこの方たちが丹精したものだったのです。叔父の家には庭を見渡すように窓際に黒のカウチが置かれていました。叔父は日々 庭の花々に 季節のうつりかわりを感じたり慰められたりしていたのでしょう。
焼香に地下まで案内されました。モルグ【死体置き場】のように 壁にはめ込まれた引き出しに叔父は下ろしたての浴衣を着せられ横たわっておりました。なにかとてもいいことがあったように くちもとには微笑みが浮かんでいます。静謐と安寧に充たされた顔でした。短い時間しかゆるされませんでしたが わたしはわたしが叔父にしてあげられる最後のことをさせてもらいました。体中がかっと熱くなります。..... 叔父と最後にあってからまだ一月半しかたっていません。叔母の法事 叔父叔母だけの身内に席に列席させてもらったのは 今年 5人の叔父のうちだれかがあちらに行くのではないかという予感めいたものがあったからです。秀雄叔父さんとわたしはとなりあわせにすわりました。叔父だけが礼服を着ていませんでした。 「叔父さん 元気そうね」というと「元気だよ」とにっこり笑みを浮かべました。「しあわせ?」と訊くと「しあわせだよ」とわたしのだいすきなはにかむような深々とした声でいいました。わたしは逝ってしまうのが秀雄叔父さんだなんて そのときは思いもしませんでした。
秀雄おじさんは 母の兄弟8人のうち 7番目でした。吃音だったせいもあって 無口でした。でも わたしは最初 暗くてこわいと思っていた秀雄叔父さんがだんだん好きになってゆきました。叔父さんは中卒で就職しました勉強が嫌いだったのだそうです。川崎製鋼に勤め 時折 土曜日に 浦和にあった我が家に一晩泊まりで遊びにきました。わたしの母は長女でしたから 跡取りの清叔父さんのほか4人の叔父さんは狭い我が家に下宿したり 就職の世話をしたり 母はずいぶん 面倒を見ていましたが、ほかの3人が饒舌だったのに比べ 秀雄叔父さんはなにもしゃべらず 一日 ひじ枕をして寝そべったままで 日曜日の夕方 帰っていくのでした。
それでも わたしはなにがなし そばにまとわりついていたようです。母の弟たちは秩父小町とうたわれた祖母の血をひいてか みな美形でしたが 秀雄おじさんはほかの叔父とは違った雰囲気を持っていました。眉は濃くりりしく 苦味走ったというか哀愁のある面立ちでした。近所の駄菓子やのおばちゃんが あるとき 「あのひとはいい男だねぇ 役者のようだねぇ」とわたしにいい 子どもながら鼻が高かったのを覚えています。.....ごちそうさまの夫役のひとにまなざしが髣髴とさせるものがありました。
孤独を知っていた叔父さんだから わたしは叔父さんに心を惹かれ 叔父さんも幼い姪に心をゆるしたのでしょうか。叔父さんが帰るとき 北浦和駅まで 送っていったことがあります。子どもには遠い道で 叔父の長いコンパスに必死でついていきました。途中で帰るきっかけもつかめず 叔父さんが寂しいかもしれないと思ったりもして とうとう 夕暮れの駅舎についたとき 叔父さんは 「蓉子 やるよ 」 と500円札をわたしの手ににぎらせました。 そして 唖然としているわたしに手を振って改札に消えてゆきました。そのころ 500円がどんなに大金だったことか.....わたしはポケットをしっかりおさえながら ふわふわと まるで雲の上を踏むような気持ちで家に帰りました。
20歳 成人のとき 叔父さんがくれた贈り物 それは白虹色のビーズに濃淡のマゼンタのビーズで牡丹を浮かび上がらせたちいさなバッグでした。美しいものを贈られることがどんなにしあわせか わたしは父とこの叔父におそわりました。 つかうことがなくても 丁寧につくられた美しいものを持っているだけで ひとはしあわせになれるのです。........結婚式のとき 夫は 滅多にしゃべらない秀雄叔父さんから 「蓉子をしあわせにしてやってくれ」といわれたことが忘れられないといいます。
けれども その叔父の結婚生活は波風の多いものでした。子どもには恵まれず 妻のまさえさんは ガンで長いこと苦しみ亡くなりました。叔父は 叔母のからだをさすり 下の世話もひとにまかせることなくすべてして看取り まさえ叔母さんは叔父に心から感謝してなくなったそうです。。
叔父は子どもも家もお金も残しませんでした。晩年 叔父さんは であった保険外交の婦人とつきあって どうやらその娘さんにお金もだしてあげたようすで 通帳にはほとんどお金は残っていなかったそうです。その方が2月 肺ガンで入院したとき 毎日来て世話をしてくれたともききました。騙されたというひともいるかも知れません。でも わたしはそうとも思えないのです。その保険外交の婦人も叔父さんが好きだったのでしょう。叔父さんにあってしあわせだった......そうでしょう?
......そして わたしも。秀雄叔父さん わたしは叔父さんがだいすきでした。わたしを天までのぼるほどしあわせにしてくれた男性は 父と夫と叔父さん あなただけでした。 物やお金をいただいたからではありません。そこに叔父さんの深い愛情を感じたからです。
秀雄おじさん わたしは知っています。あなたが4人の女性をしあわせにしたことを あなたが為すべきことをしてあの世に逝かれたことを そしてあなたのこれからゆかれる場所が決して暗いところではないことを あなたの人生はほんとうに立派でした。ありがとう...... 叔父さんのように わたしもだれかをしあわせにして 贈り物を遺して あちらにいけますように...... どうか 見守っていてください。